続徒然花

 年明け早々元旦の夕刻、テレビから「津波に備えて避難して下さい!出来るだけ早く高い所に避難して下さい!命を守る行動を!」と連呼する女性アナウンサーの声が飛び込んできました。『何かのドラマかなあ?それにしてはヒステリックに長く叫びすぎではないか~』と思っていたら、北陸能登地方で大地震が起きていたのです。私はまもなくやって来る娘夫婦のためにずっと立って正月の夕食を作っていたため、全く揺れを感じず、まさか元旦に大地震があり、大津波まで押し寄せていたとは思いもしませんでした。夜遅くになっても現地の詳細情報は入って来ず、羽田空港からバスで着いた娘夫婦を迎えに行って、お節料理と正月のご馳走で楽しく団欒していました。

 翌2日は、箱根駅伝を観て初詣に出かけようとしていた矢先、またもテレビに羽田空港の滑走路で飛行機同士の衝突事故の映像が映し出され、「また!?」と映画『ダイハード』を現実に見ているような顔面蒼白気分になりました。「一日違っていたら、娘達の乗った飛行機が事故に巻き込まれていたかも知れない」と肝を冷やしながら、暫く見入っていましたが、まもなく乗客全員の無事が伝えられると家中に歓声が上がりました。しかし海上保安庁の乗組員は機長以外若い人も亡くなり、何とも言えない重苦しい気持ちの幕開けとなり、今年の日本の先行きが心配になりました。私はどこの神社で引いてもおみくじは小吉と末吉ばかりで、今年はあまり期待しないで生きていこうと思った次第です。その後も日本各地で地震が多発しており、不気味な様相を呈しています。

 このところ、コロナ禍はほぼ終わりの感があるものの、インフルエンザやはしかの流行と、花粉症・黄砂・PM2.5が凄まじく、まだまだ巷にはマスクをかけている人が多く見られます。また3月は長い菜種梅雨と寒暖差の激しい天候のために体調を崩す方が多く、我が診察室は身体科のようになっていました。

 そんな中、7億ドルという実感が湧かない巨額の移籍金でLAドジャーズに入団した大谷翔平選手の話題で今年も連日もちきりです。2月29日の突然の結婚発表から、ソウルでのMLB開幕戦、大谷対ダルビッシュ有、山本由伸・あざみ野出身の松井祐樹投手が観られ、大いに盛り上がった第1戦の夜、突然水原一平元通訳の解雇と違法賭博詐欺・窃盗が発覚、と次々に目まぐるしく事が起こりました。大金のある所に良からぬ人間が集まってくるのは世の常ですが、まさか最側近が…、本当に大谷翔平選手の周りの世界は、良くも悪くも野球も人生も漫画のように、漫画以上にドラマチックです。

 大谷選手は、アメリカに渡って以降6年間相棒として信頼し切っていた人に最初から裏切られていたことが分かり、どれ程ショックだったことか、「ショックという言葉が正しいとは思わない。」という会見での言葉は、ショックなんてものじゃないくらい『青天の霹靂』~天地がひっくり返った気分だということでしょう。それでも野球の試合をやってヒットやホームランを打っているなんて…、普通の人なら打ちひしがれて寝込み、仕事(や野球)などとてもやっていられないでしょう。凄まじく強いメンタルです。

 一方水原元通訳は、というと、実は私は初めからこの人をあまり好ましく思っていませんでした。心なしか元通訳の眼は泳いでいるようで、眉間に皴寄せ心からの笑顔が感じられず、前髪を不揃いに垂らして目を隠し気味な髪型はずっと変わらず、いつもス―パーアスリートの横にいるのに全く鍛えていなさそうな体型、などがその理由でした。ドジャースに移籍する時も何故彼を連れて行くんだ!と内心憤慨していました。新天地に行くんだから、通訳も新たな人に代えればいいのに、いやもうアメリカで6年間も生活しているんだから、ある程度英語はできるはずで、通訳なんていらないでしょう!と思ったのです。

 水原元通訳の違法賭博とギャンブル依存症が報じられてから、テレビで「ギャンブル依存症は病気だ、誰でもなりうる」という専門医やカウンセラーの言葉をよく聞くようになりましたが、「病気」とはどういう意味で言っているのでしょうか?病気だから、病気になったことはその人の責任ではないという意味でしょうか?また病気なら何をしても(犯罪も)許されるというのでしょうか?意味が分かりません。実は精神疾患で心神喪失や心神耗弱状態だと罪を問えないという司法判断に反対する当事者本人(患者)達がいます。統合失調症、躁鬱病などの精神疾患を患っている患者さん達が皆犯罪行為をするわけではないのに、一人の患者が犯罪行為をすると(その病気の症状による行為だとして免責されることが多く)、その病気を患っている人達皆が犯罪行為をするかのように世間で思われがちですが、それは全くの間違いです。ほとんどの患者さんは犯罪行為をしない弱い繊細な人達なのです。犯罪者と一緒にされないように(犯罪と病気を同一視されないために)患者さん達は、匿名Aではなく実名報道をしてほしいとまで訴えているのです。精神疾患だけでなく、高血圧症や糖尿病、胃潰瘍、癌、パーキンソン病などどんな病気でも、一人一人違い、性格によっても違い、二つと同じものはありません。その人の性格(人格)の上に各病気が乗っかっているのです。統合失調症、躁鬱病、依存症だからと性格的要因を度外視して一括りにして論じるべきではないと考えます。医学書にある症状はいってみればその病気の最小公倍数のようなもので、性格とは別物です。

 一方、薬物(覚醒剤、大麻、シンナー、マリファナ など)、アルコール、ギャンブル、ゲームなどによる嗜癖・依存症・中毒といったものは、果たして本当に病気といえるのか、病気とは脳のどこがどうなっていると科学的に断定できなければいけないのですが、まだ分かっていません。(そういうことを長期間したために病的な脳にある場合があります。)それなら「病気」だと言っている人が病巣部位を特定して科学的な原因を指摘して治してみてくださいよ、と言いたいものです。そのくせそう言う専門医やカウンセラーは「治療は一筋縄ではいかないが…」と言って治療にはやや口を濁しがちです。実際薬は効かず、集団療法(同病の人達が集まって吐露し合うNABAや断酒会など)でもなかなか治らないものなのです。依存症というのは、本人が「絶対治す!!」という強い意志をもって臨まなければ治せない、他力本願では無理、自力本願のみが効くものです。だから私は本人以外の人の意向で連れてこられた依存症の人は、治療できません、とお断りしています。本人の意志しか治る道は開けないのです。私は依存症というのは、脳の病気や、後天的な何等かの要因による病気ではなく、元々のその人の依存しやすい意志の弱い(体質のような)性格傾向ゆえに陥る事態であって、同じDNAが引継がれる家系内に見受けられる場合があり、誰でもちょっとしたきっかけでなりうるものではないと考えています。まず意志の強い人はなりません。私の友人にカジノや競馬が大好きな人がいますが、決してのめり込みません。ある程度の所で歯止めをかけてストップできます。程々に楽しんで大儲けまでは望まないのです。依存症になる人は、まず自分の欲と(弱い)意志からその道に一歩を踏み入れたことに責任があるのだから、そこを毅然と反省させるべきなのに、それを「病気」として本人に責任はないかのようにいうのは、さらに甘さを助長させることになるのではないでしょうか。そして嘘・詐欺・窃盗という犯罪までしていたことは、依存症、病気とは全く異なる次元の問題です。依存症の人が皆詐欺や窃盗といった犯罪をするわけではありません。テレビで発言するのであれば、「病気」という言葉で全てが許されるようなニュアンスで話すべきではありません!「病気」という言葉の定義を正しく認識し示した上で使っていただきたいものです。

 また依存症の人は、大なり小なり嘘をつきます。本来依存症の人は根は良い人が多いのですが、小心者のため後ろめたさや罪悪感から、嘘で取り繕おうとするのです。また過少申告します。嘘の上塗りが高じて、嘘の達磨になってしまうのです。

 真反対に、大谷選手は意志強靭で、常に自分の身を削って自分の限界に挑戦して更に高みを目指そうと真剣勝負をしている人です。自分を鍛えるという努力をせず、時の運で儲けようとする博打などは怠けとして許せないはずです。野球道に邁進してお金に頓着ない人なので、銀行口座に目を向ける習性も暇もなく、絶対的に信用する人に一任していたことは納得できます。しかしその人を見誤り見抜けず騙されたわけですが、今回の件は大いに人生勉強になったことでしょう。

 「人の幸と不幸は足して二で割ったら皆同じ」というのが私の持論です。こんなにも今世界で一番輝いている若者が、いつまでもずーっと成功を続けて幸せでいられるのかなあ…、と危惧していましたが、大谷翔平選手の幸と不幸は激的なまでに天国と地獄くらいの振り幅をもって揺れたようです。まだまだこれからも、世界中から羨望と期待の目で注目され、自分と戦い続けなければならない運命を背負って生きていかれるのでしょう。大変だなあ~!! ふと「人並が一番ええ(幸せ)」と言った亡き祖母の言葉が私の脳裏に浮かびました。

2024.4.19.

 毎年恒例になってしまった感がありますが、今年も年末が差し迫り、どういう年だったのかと考える頃になってしまいました。これも毎年恒例清水寺の今年を表す一文字漢字が「税」と発表されましたが、「?えっ?違うでしょ⁉」とこんなに合わない!と感じた年・字は初めてです。私はこの一年「税」について考えたことは全くありません。何故「税」なのでしょうか?

短い秋〜湯布院の紅葉

短い秋〜湯布院の紅葉

むしろ今年の5月半ばから始まり11月まで続いた「暑」さでしょう!もう冬になったらすっかり忘れてしまったのか、東京の真夏日は90日(つまり一年の1/4が真夏日だったことになり、さらに連続真夏日は64日続いた7/6~9/7)、私の故郷岐阜県多治見市は真夏日101日で過去最高となり、11月初め湯布院~九州山地~高千穂を旅行した時私は半袖姿で、11/5に熊本で30℃を記録し、「本当に冬は来るのだろうか?」と思ったのは私一人ではないでしょう。しかしそのわずか2週間後の11/18日に福岡・九州山地で初雪が降り、あまりに急な気候の変化の為、体調のみならず心にも不調をきたす方が続出しました。紅葉は今一のまま秋はあっという間に過ぎ去り、今は最強寒波が日本列島に到来しています。暑さのせいか今年は薔薇の木にカミキリムシが一度も発生せず無事でした。その消毒で四苦八苦することもありませんでした。私は、今年を象徴する一文字は「暑」だと思います。…あるいは「翔」か…
秋の高千穂峡〜真名井の滝

秋の高千穂峡〜真名井の滝



 今年は日本のWBC優勝の歓喜で始まり、大谷翔平選手ドジャース入りで幕を閉じようとしており、日本人スーパースター大谷翔平選手の活躍と好感度の高い話題に終始していた感があります。侍ジャパンの活躍と漫画のような決勝戦の結末、大谷選手のMLBホームラン王・MVP獲得etc.、7億ドルという破格の契約金に度肝を抜かれました。彼が語った言葉「常に挑戦・チャレンジしたい。昨日できなかったことが今日できた、今年できなかったことが来年できるなど、チャレンジすることが僕の趣味です」は、拙書49章「イチローの引退」で書いた「自分の限界を見ながらちょっと超えていくことを繰り返す…少しずつの積み重ねでしか自分を超えて行けないと思います」というイチローの言葉に重なります。私も昔から心掛けている「自分の能力の限界との厳しいせめぎ合いを続け乗り越えることで少しずつ成長していく」ということとも同じでしょうが、大谷君はそれを悲壮感なく「僕の趣味だ」と軽く楽しそうに言い切ってしまうことに驚かされました。そこが今までの人と全く違い、今世界で最高の超大物である所以だろうと思います。もう我々の時代とは違う世界に入っているんだな、とも感じました。

 そしてまた私は、大谷君と同世代の若者で別分野のスーパースター軍団、大好きなBTSの各メンバーが入隊前ソロ活動で大活躍してくれたことで、今年はずっと頬が緩みっ放しで、幸せ気分の一年でした。期せずして“押し活”をしてしまっていました。

 仕事の方では、昨年末から準備し続けていた二つの学会でのシンポジウム発表とワークショップ発表、長らく停止していた長編の原著論文を書き上げて提出、京大や東大の先生方との精神病理学や哲学・心理学分野に渡る3つのオンライン研究会に参加させていただき、診療後(泳いでから)深夜3~4時頃まで机に向かう日が続くなど、多忙ながらも学問的には充実した一年でした。これもよく考えたら、新型コロナ感染症COVID-19のお陰です。今までなら土曜日診療もあり、名古屋や京都へ駆け付けることは諦めていましたが、遠方まで出向かずともオンラインで研究会に参加できる(新幹線の中でもZOOMを視聴して行きました)世の中になり、長らく大学を離れている私としては、知的な仲間~しかも精神科医だけでなく、物理学者や哲学者、神学者といった様々なジャンルの方々~が増えて、この歳にして学究的な世界に再び足を踏み入れ、頭は若返ったような気がします。最近は人と人の間の空間にある素粒子から理論量子物理学に興味を持ち始め、今月研究会の若い物理学者の案内で京大の湯川(秀樹博士、1949年ノーベル物理学賞受賞)記念館に赴いてきました。高校時代イメージングが全くできない物理が大嫌いで、アインシュタインの相対性理論なんて何のことやら?と思っていましたが、物理学書を読み進める内に、今私が興味を持っている分野に近いものだと知り、身近なものになりました。韓流ドラマも観ますが、物理学や哲学の本を読む今日この頃、勉学意欲は歳をとっても高まるものだと感じています。

 そしてCOVID-19 が続く中気が付いたのですが、「不安、不安」と訴える人達(女性に多い)は、文字・活字を読む習慣が乏しいのではないか、と。感覚や画像だけで反応する日常になってしまっており、文字を介した論理的思考をあまりしていないのではないか、そういう方は新聞からでいいので文字を読む事を始めてみて下さい。表層的な感情だけでなく、思考野の脳神経まで動かすトレーニングが大切で、不安に対して効果があると考え、最近患者さん達にそれを推奨しています。少しずつ効果が上がっている人もいます。

 長年続けてきた競技水泳は、秋に2回400m個人メドレーに出場してもう打ち止めにすることにしました。あまり自分を厳しく追い込まず、来年からは健康のために、海も含めて楽しくマイペースで泳ごうと思っています。

 このところ新型コロナ感染症は少し明けつつあるのか、インフルエンザの大流行とその他の風邪も夏から増え続けており、街中で一旦減ったマスク姿が再び増えてきたような気がします。そういえば、COVID-19が始まった当初は、未知のウイルスによる生死に関わる不安から不安神経症の患者さんや、仕事が激減したためうつ的になる人が増え、在宅ワークで夫がずっと家にいるから三食作らなければならないとか、自分の時間が無くなったと言ってうつ気分を訴える夫人が来院するようになり、“心の科”の患者さんは微増した感がありましたが、在宅ワークやZOOMなどによる会議やオンライン授業が取り入れられて定着し、永遠に解決不能と思われた朝夕の満員電車は乗客が減って解消されパニック障害が減少、終業時間も早まり働き過ぎうつ病が減少、人との接触が減って対人関係で悩む不登校的な学生が減り、手洗い強迫神経の患者さんが「皆が感染対策で手洗いを始めて自分のレベルに降りてきた」と軽症化したためか、COVID-19が減弱してきた今夏以降“心の科”の患者さんはやや減少してきているような気がします。そもそも皆さんあまり外へ出ない生活が続いているのではないでしょうか。しかしここへきて12月師走急に弾けたように忘年会があちらこちらで開催されているようで、夜の帰りの電車は、お酒の入った男性や集団でおしゃべりに花が咲いている女性集団が多々見受けられ、年末の繁忙期ということもあるでしょうが、コロナ前と同様に満員電車のドアに顔と体をくっつけたままの姿勢で私は水泳の練習から帰りました。また以前に戻ってしまうのか…と危惧されます。

 COVID-19が始まって4年になろうとしていますが、世の中は以前には想像もできなかった姿になっています。ロシアのウクライナ侵攻は続いており、アメリカの支援が途絶えたらどうなることか、イスラエルとパレスチナ(ガザ)の紛争、北朝鮮のミサイル乱発射など世界はキナ臭い状況に覆われ、とても海外旅行に興じる気にはなれません。

 来年LAへドジャース大谷君の試合を見に行きたいものですが…、また思いもよらないことが起こるのでしょうか。地球世界に良い事があることを祈ります。
2023.12.22

 今年7月末、国連のグテーレス事務総長が「地球温暖化の時代は終わりました。地球沸騰化earth global boilingの時代が到来したのです」と言い、世界(地球)の7月平均気温が16.95度と最高になった。日本でも1898年測定開始以来125年後の今年7月の平均気温が25.96℃(1978年の25.58℃を抜いて)と最高を記録した。今年は5月から天候が例年と違っていた。爽やかな五月晴れがなく、だからか5月病もあまり見かけなかった。6月も梅雨という梅雨がなく雨天が少なかったせいか、例年この時期多くなる梅雨鬱の患者さんをあまり見かけないまま、代わりに早くも猛暑がこの頃から始まった。そして7月連日猛暑日が続き、世界中で、ギリシャ・ロードス島やスペイン・イタリアで熱波による山火事、カナダ東部での広範な山火事の煙がNYまで流れて空がオレンジ色になる現象が起こった。地球温暖化のため北極やグリーンランドの氷が大量に解けていること、毎年発生するアメリカ本土(特に西部カリフォルニアが多い)の山火事だけでなく、ハワイのマウイ島・ハワイ島でも山火事が発生し、40℃を超す猛暑が続いたアリゾナ州フェニックスでは転んでアスファルトに肘をついただけで火傷する等、NYで最高気温が30℃越え、北京では40度超えなど、8月まで世界中がboilingではなくburningの状態といえる異常な自然現象の頻発が続いている。日本でも全国で連日35~40℃の体温越えの気温が続き、熱中症は連日数多く、亡くなる人も例年になく多くなっている。
 21年前から書き始めたこのエッセイも、振り返ってみると、季節が変わる度に異常気象について繰り返し書いてきた感がある。猛暑、大雪、洪水、火山の噴火、地震津波等々、11年前2012年11月の第17章「ダイビング~地球は生きている」ですでに私は以下のように書いている。

~海底深く熱水の噴き出しているところに生命の源があると…これだけ多くの生命体を産んでいる地球は“生きている!”と思わざるを得ません。逆に「人間は地球の天敵である」ことは確かです。異常気象と言いますが、それは人間から見た見方であって、地球から見たら「人間に対して怒っている」事態なのかもしれない、人間の生活や欲のために、…地球深く採掘するという暴挙を、再考するべきではないでしょうか。地球環境をさらに壊し地球を怒らせないためにも。~と

当時これを読んだ人の多くが、「えっ? 何荒唐無稽なことを言ってんの?」と少し呆れ顔で嘲笑を浮かべた。地球を無機物として扱い、地球に生命や心が宿っているとは誰も思っていないようだった。当然だろう。私も海に潜るようになって徐々にそう感じるようになったのであって、その前までは露もそう思わずにいたのだから。しかしその後の11年で世界は大いに変わった。今私がこの言葉を吐いても笑う人はあまりいない。むしろ「そうだよね~」と共感してくれる人が多くなっている。スゥーデンの女性環境活動家グレタ・トゥーンベリさん(20歳)が2018年から世界中で気候変動への抗議やスピーチをしている活動に加えて、年々増える異常気象のニュースやそのメッセージ性の強い映画など、SDGsや環境問題に取り組む姿勢が増えてきたことは嬉しいことだ。しかし一方で、相変わらず実験と称してミサイルを海に落とす国や、戦争で大地を焼き尽くす国があることは許し難い。海にミサイルを落とせば人間に害はないからいいというのか!そうではなく、海の生態系が破壊され、ひいては人間の食する魚介系に影響が出る。地球の気温や偏西風にも影響を及ぼすだろう。そのせいなのか今春常には北のシベリアの海域で発生するプランクトンが北海道近海で異常発生して、イクラやウニ、ホタテが死滅し獲れ高が激減した。ウクライナの穀物畑がミサイルや爆弾で焼き尽くされたり、ハワイやアメリカ大陸の山火事で森林や畑が広範に焼失したりして、その地の気温は何度か上昇しているという。私は暑いことで有名になってしまったが(2007年8月40.9℃を記録)本来は陶器の街多治見市で生まれ育った。昔はそんなに夏暑い所ではなく、京都・大阪の方ははるかに暑かった。1980年夏沖縄の万座ビーチで34℃を体験して、「さすが沖縄!」と暑さに驚いた覚えがあるから、当時の多治見の最高気温は30℃くらいだったはずだ。約40年間で10℃夏の最高気温が上がっていることになる。が今や北海道や東北でも体温超えの猛暑となり、日本全国boiling状態にあり、むしろ沖縄へ避暑に行くと言う人がいるくらいだ。多治見市は、山から陶土を削って樹を伐採し尽くし、その丸裸になった山の上に名古屋のベッドタウンとして住宅地を量産したため、そこから吹き下ろすエアコンの熱風がV字谷の盆地に溜まるようになって街の気温が上昇したと考えられている。やはり自然破壊だ。
2018.8のマウイ島の夕日 8月8日ハワイのマウイ島の数か所での山火事が発生しラハイナの街が壊滅したニュースは私にも大変ショックだった。5年前マウイ島へ行き海に潜った。私は南西部のワイレア地区のホテルに泊まったが、マウイ島の中でも暑いことで知られる北西部にあるハワイ王国最初の首都ラハイナの街へ一本道をレンタカーで行き、海岸通りをアイスクリーム片手に歩きながら、海上テラスでシーフードランチを摂り、今もクリニックに飾ってある絵画を買ったり、旧裁判所内の監獄に入ってみたり、バニヤン・ツリーの巨木の下で涼んだり、と確かにあの枯草に覆われた山からの熱風で暑かったが楽しいひと時だった。火の手が上がったばかりのニュース画像にはあのギャラリーはまだ健在していたが、全てが焼き尽くされ跡形もなく灰になった映像を見ると何とも言えない悲しい気持ちになった。私が到着した日もハリケーンが来ていて、そうとは知らずにいきなりハレアカラ火山にサンセットを見ようと車を走らせ、余りの風雨に恐れおののいてあと3㎞というところでUターンして大急ぎで一本道を下山した。ラハイナのあの山肌を走る暑くて長い一本道を皆一斉に避難しようとして大渋滞し大勢逃げ遅れたと聞くと、胸が締め付けられる想いがする。人災説や宇宙からの攻撃説がささやかれているが、まずは地球環境の変化による自然災害が主原因だろう。その後もスペインのカナリア諸島やカナダのイエローナイフで同様の大規模な山火事が起こっており、日本も台風が連続して到来し各地で水害が起きている。これから9月台風シーズンを控えている日本にも、更なる自然災害~地球の逆襲ともいえる~が続く危険性を考えておかなければならないだろう。
 一連の自然災害の地が、赤道より上の北緯何度かの範囲に多いことは、偏西風のうねりによるものと考えられている。それは、元来地球は水で覆われた惑星であることを考えると、こういうことが続いていってまた暗黒時代がやってくるのだろうか、と思わずにいられない。その痕跡が、西表島と台湾の間にある沖の神島の海底で見た人為的な神殿跡なのか…浦島太郎の昔話はそれの伝承なのだろうか、と。では本当に地球は生きているのか、これらの自然災害は地球からの逆襲といえるのか。ジェームズ・キャメロン監督の映画「アバター」の第1作に出てきた巨大な“精霊の宿る魂の樹”と第2作ウェイ・オブ・ウォーターの“海底から生える精霊の樹”は、そこに住む生命体がそれにチャージして生態系ネットワークで繋がり、根源的な力を受け精神的な絆を築く生命の根源の象徴として描かれている。人間は資源を求めて地球上だけで飽き足らず、他の惑星まで征服しにやって来る悪者に描かれている物質文明と生命との戦いというストーリーに、私と同じく海に潜ることをライフワークとしているJ.キャメロン監督の強いメッセージに私は大いに共感した。海に潜る人は地球の変化についてよく知っている。この監督は南米アマゾンの先住民の自然環境を守ろうと水力発電ダムの建設反対運動に参加している。海やジャングルの環境に関心の深い監督の考えが「アバター」に繋がっているのだ。
 また以前にも書いたが、魚とアイコンタクトを取るべく潜った折海中でじーっと魚と睨めっこをして、心が通じたら私のカメラに正面の顔を見せて撮られてくれる!と信じてその行動を続けたが、応じてくれたのはまだニモ(カクレクマノミ)しかいない。水中は空中より心が伝わる速度が速いというし、地上の空中より澄んでいる海もある(沖の神島の根)。
 人間や動物・魚だけでなく植物も当然生きている。その変化の速度が人間がじっと待てないほど緩慢であるために、簡単に手折る人や除草剤を巻く人がいるが、長年薔薇や庭や室内の花や観葉植物の世話をしてきた私は、声をかけると反応すること、意志ある成長の仕方・伸び方をすることに気付き始めている。たとえば薔薇は開業以来だから22年、庭木や室内観葉は24年目になるが、弱りかけている時、「頑張れ!頑張れ!」と声を掛けてやって肥料や水を丁寧に与えている内に回復したことが何度もある。今春誰かに手折られた薔薇の若枝は、綺麗に断端を切り揃えてやったところ、その後ジャックと豆の木のように一晩で5㎝位伸び続け、あっという間にまっすぐ天を突き刺すように一番高い枝に成長した。他の枝はそんなに伸びている風ではなかったのに、手折られたことに「こんちくしょう!」と言っているようだった。8月上旬、その突き出た枝先が台風の風で折られないように、慎重に半円状に曲げてアーチ状の枝葉の群れの中に誘引させたが、その後よく見るとその枝先はまた群れの中で下半分の円状に曲がって天を目指してまっすぐ上に成長を再開していた。なんという生命力!声こそ出さないが、強い意志力を感じる樹の成長に感動した。裏庭のプランターで種を植えた朝顔も、今年は初夏にいっぱい葉が出て伸び始め、その先っぽを支柱に絡ませようとするのだが、なかなか私が誘導するように支柱に絡まってくれない。そっぽを向いて伸びようとする茎が多く、朝晩必死になって支柱に巻き付けてみるのだが、晩や翌朝になるとまた支柱を外れて外側の空に漂っているではないか。来る日も来る日もその繰り返しで、「何で言うこと聞いてくれないのよ!」と嘆いてしまった。とある日からちゃんと支柱に絡まり始めたではないか!ちゃんと私の声を聴いてくれたかのかな?すると数日で一気に支柱に絡まりながら螺旋状にてっぺんまで伸び切ってしまい、天空に行き場を失った茎は再び下に成長方向を変えていた。これも植物に意志とその心の疎通性~ある意味“精神”~を感じた場面である。COVID-19により海外へ行かなくなって5年になるが、今これらの植物の世話をほおって長い期間家を空ける海外旅行に行くことを躊躇している私がいる。以前は両親や娘に頼んで気にせず出掛けていたが、母が亡くなり父も足元がおぼつかなくなり、娘は結婚して家を出たため、家の庭の木々・花や室内の観葉植物の水遣りを長期間任せられる人がいない。海に潜るダイビングを通して地球を考えることと、植物を育てることの両立は如何にしたら成り立つのだろうか、と考えあぐね私は行動が止まっている。
上高地1 しかし国内に2泊くらいなら、と8月恩師の3回忌墓参を兼ねて京大の先生方と高山・上高地へドイツ語論文抄読会合宿に行った。暑い暑い外人観光客(スぺイン人やインド人が多かった)でいっぱいの高山(岐阜県北部の飛騨地方:昔はそんなに暑い所ではなかった)のホテルで缶詰め合宿を終えて、二日目は午後から上高地へ移動した。上高地は下界と全く違って涼しく、バスを降りてすぐ私は「なんと空気の美味しいこと!」と叫んでしまった。こんなに空気が美味しいと感じたことは生まれた初めてで、もぐもぐ空気を食べる口をした。岐阜県出身の身で恥ずかしながら上高地に始めて行った海派の私は、山も良いものだと、その景色に心洗われ、再び青空の下で勉強が進んだ。植物がいっぱいで、山や川も生きている!という想いを抱いた幸福な旅行になった。しかしそんな緑いっぱいの日本もいつかアメリカやハワイのように山火事で焼き尽くされてしまうのだろうか…この飛騨も上高地も、と懸念される。上高地2
 地球は生きている/物質も生きている(?)水も土石流も空気も、というと、物質の元である元素・原子から始まって一体どこから生命・心が芽生えて“生きている”といえるのだろう?人間や動物の体及び植物も炭素C、酸素O、水素H、窒素N等の原子を配列させたアミノ酸・たんぱく質や水からできているのだが、もしかして…存在しているのであろうか。では生命が息絶える“死”はどこで“生”と分けられるのだろうか。植物・動物・人間の死は、その組成である元素・原子の存在は同じだが、動きや流れが止まるのだ。生と死の境は“動き”なのだろうか?であれば鉱物などにも生と死があるのか?私は「地球は生きている」と考えているのだが、地球の奥深くにあるマントルやマグマが常に動き続けていることから、その考えは妥当しているのか?などいろいろ考察してみた。答えは出ないが、例えばスポーツ、野球やテニスなど相手のあるスポーツにおいてボールに心が乗って相手と魂のやりとりをしている感覚を持つことがある。ゴルフでもボールに心が乗って思った通りにピン近くに打てることがある。精神論ではないが、無機物であるボールに人間の心を宿せるものなのか、果たしてボールは無機物なの、それともあいだの空気が動いているから、目には見えないが空気を介して心を乗せることができるのだろうか。
 10年の間に「地球は生きている」という言葉が荒唐無稽に思われなくなった変化が次々に起こっているのだから、きっと今後10年の間にも今は想像できないような変化・進化・発見が起こるのだろう。その時「地球は生きている?」という問いの答えは出ているのかも知れない。それまで私には何ができるだろうか。とにかく人間は地球の主人公ではない、近代の人間が自分達に便利なように文明と呼ぶものを発展させ続けてきた結果、地球を傷つけ怒らせ逆襲されているいわば自業自得状態が現在の世界なのだ。これ以上地球環境を破壊し怒らせないために、我々はまず何をしなければいけないのか、もう手遅れなのか、そんな事を考えながら、未来の子孫達のためにできるだけクーラーの電源を切ろうとしている私である。

2023.8.22.

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 2023年も早や3ヶ月が過ぎ、桜は4月を待たずに満開となり、我が家の薔薇は一斉に芽吹いた葉っぱの中に蕾が顔を出し始めています。10日位早い季節の進み方を実感します。
 3月は、日本中がWBC侍ジャパン優勝の歓喜に沸き、生まれてこの方こんなに日本人が一丸となって応援したことは、1964年の東京オリンピックや巨人軍のON時代でもなかった記憶です。そして優勝を牽引した28歳のMVP世界的スーパースター大谷翔平選手、今や日本人だけでなく世界中の人が二刀流という才能はもちろん外見や言動、人柄まで誰からも愛され称賛されている唯一無二(ユニコーン)の日本(及び世界)の宝ともいえる若者に、皆まだ毎日熱狂し続けています。優勝までの道のりも、漫画や映画のような展開が続き、私は予選から決勝までの7試合全て、正座して一球一球を集中して見守りました。幼少時から叔父の影響もあり、ずっと野球は好きで観ていましたが、こんなに真剣に集中して観たことは本当にありません。プロ野球というと、いつもオジサン達がビールを飲みながらヤジを飛ばしたり歌や楽器で応援したり、と騒がしく、何かを発散させるための娯楽だと思っていました。が、今回のWBCは全く違いまるで武道を見ているようでした。ストライク、ボール、ストレート、スライダーなど、両チーム合わせて1試合で250球くらいを両手を握り締めハラハラドキドキしながら見届けたのです。ピッチャーが弓道で、バッターが剣道のような、だから日本人の心性に合っているのでしょうか。NLBが始まっても引き続き日本人メジャーリーガーの活躍が毎日報道されていますが、新ルールのピッチクロックは、武道心性の日本野球人にはベースボールを強要されている感があり、やや難題だなと危惧しています。観る側も、集中して心を統一させるのに時間がかかるのですから。
 WBCについては、もうテレビを始めとするマスコミで言い尽くされた感があるので、ここで私があらためて言及することは避けますが、一つだけ…
準決勝のメキシコ戦、8回裏2アウト満塁の時ネックストバッターボックスで集中力を高めて準備していた大谷選手は、近藤選手が倒れて3アウトになると、皆が守備に就きに出払った後伽藍洞になったダッグアウト内を一人短い猛ダッシュ走りの往復をしていました。その大谷選手の振り返った時の一瞬の表情を私は見逃しませんでした。それまでとは全く違う、獲物に狙いを定めた野獣のような眼光の鋭さから、次の回絶対自分が決めてやる!という確信に近い決意を感じ取りました。それは全盛期のタイガー・ウッズの眼光と同じでした。30年位前パットが苦手だった私はタイガーの本を読み、「パットは必ず入れる!と強い想いで打たないと入らない」と書いてあったため、翌日のラウンドでそれを心に刻んで打ったところ、別人のように不思議なくらいパットが入ったのです。スポーツにはプラスのメンタルが必須です。だから「次大谷君が絶対決める」と信じられました。そして9回裏先頭バッターで出て初球を打って2塁へ、またそれを1点のみのホームラン狙いで強振するのではなく、ヒットで繋いで2点目を取って勝つ狙いで塁に出たのでしょう。ヘルメットをかなぐり捨てて全力疾走し2塁で止まったのも、無理して3塁まで行こうとせず、後続の仲間を信じ、2塁ベース上で両手を下から煽って、3塁側ベンチにいる侍ジャパンの仲間に向けて「俺に続いて来~い!」とばかりに檄を飛ばして鼓舞、その後出た村上選手の奇跡の逆転サヨナラ2塁打も、大谷選手の勝つんだ!という魂の鼓舞から生み出されたものといえるでしょう。チームプレイに徹した一瞬一瞬の判断は素晴らしいものでした。激闘の後のインタビューで「9回は塁に出ると決めていました」という大谷選手の言葉は、あの眼光から感じた私の印象そのままでした。翌日のアメリカとの決勝戦、最後9回表に満を持して登板した大谷投手、映画のワンシーンのように泥だらけのユニフォームのままゆっくりマウンドに向かう姿、そしてエンジェルスのチームメイト、マイク・トラウトを3振に切って取り、優勝を決めた直後の喜びの爆発、どれも劇的・感動的でした。最後の2試合は、試合終了直後思わず涙が込み上げてきました。日本中が一つになって喜びを爆発させた瞬間ですね。私の周りではWBCを観なかった人を探す方が難しいくらい、TV視聴率以上日本人の80%近くが観たのではないでしょうか。その後クリニックに来た漫画家の患者さんは「あんなこと実際にされたら、もう漫画描けないよ」と嘆きました。ほとんどの患者さんがWBCの感動を話されましたが、特に80歳以上のおじいちゃんおばあちゃんが、孫の活躍を見るように手放しで喜び、幾分若返られたように見受けられました。90歳の父も、実家で同世代の友人を呼んで観戦したとのこと、「大谷!大谷は凄い!メッシのW杯サッカーといい、 死ぬ前に良いものを観たなあ、いい冥途の土産ができた」と手放しで喜んでいました~亡き母は大の大谷ファンでした。
 栗山監督もあの優しそうな笑顔の裏で、ブレない勝負師的決断をする姿(実際は物凄い量の勉強をされた結果の理論家です)は、大谷選手同様、以前エッセイにも書いたよう「プラス思考=マイナス思考を封印する」即ち「できるかできないかではなく、やるかやらないか」だけという人なのです。「できるかどうか…」という考え方の裏には、既に「できないcan’tかも知れない不安=マイナス思考」がちらついています。「やるかやらないか」というのは、100か0でつまりは「やるdoのみ!」です。二人はdo!しか頭にない人なのです。それが「勝ち切る」という言葉に込められていたと思います。スポーツだけでなく、受験や人生においても同じで、プラス思考でないと成功は呼び込めない、ということを再確認しました。
PS.)大谷翔平選手がアメリカに渡ってから、日本人選手で一番好きな選手はオリックスの吉田正尚選手でした。あの強く速いボディーターンスイングが好きでした。今のレッドソックスでの大活躍は予想通りで嬉しい限りです。

 またこの春3月13日からマスク着用は個人の判断に委ねられることとなり、さっそく私は患者さんにマスクを取ってもらい、顔全体を見て診療することにしました。心の科の診察にマスクをされると、間にアクリル板があることも支障があるのですが、顔色や表情が全部見られず、心の機微を探れません。医学部の最初の臨床講義で「まず視診、触診から」と習いました。最近では内科診察でも、PC画面の検査数値や画像診断と薬の処方にいそしんで、患者の顔もろくに診ない医者が多くなり、ましてやコロナのせいもあるのか触診などほとんどされなくなっています。母の生前の定期診察に付き添っていた私は、神経難病の母なのに、一度も打腱器で神経学的検査をせず、全く母の体に触らない医師に堪忍袋の緒が切れて、「先生、母に触って診察して下さいよ!」と言ってしまいました。精神科医は、患者の話を聞いただけで、それを鵜呑みにして診断治療するものではありません。顔色や、笑っているか泣きそうなのか怒っているのか脅えているのか、その繊細な表情の変化は心の動きを探る重要な診察道具なのです。また医師と患者のあいだの空気・空間、そこは無ではありません。最新の物理学によると、人と人のあいだには無数の素粒子が超高速で飛び交っており、Aが吐き出した素粒子を他方Bが吸い、またBが吐いた素粒子をAが吸っているといいます。だから人と人のあいだに通い合う何かが生まれ、互いにそれを紡ぎながら心の交流が深まっていくのです。長年苦楽を共にした夫婦は、不思議なことに、歳をとると顔が似てくることがよくあります。診察中の空間には多くの診察・治療材料があるのです。
マスクを取ってもらったら、COVID-19が始まってから初診して通い始めた患者さんの顔は、その間私が勝手に想像していたものとは大きく違っていたことに驚き続けています。まるで福笑いの顔の上下半分を組み合わせ間違いしていたかのように、驚いて内心かなり動揺し、今まで勝手に想像していた顔の下半分を一生懸命払拭しながら、診察に入るのです。本当に申し訳ありません。
マスクを取って診察を始めると、初めは「化粧してないから」とか「花粉症がひどいので」とか「髭剃ってないなあ」と言いながら、少し恥ずかし気にマスクを取って話し始める患者さん達も、診察が進むうちにだんだん表情筋が動くようになり、笑顔が増えてお互い心がほぐれていくのを感じます。やはり顔全部を見て、「あいだ」の空気をシャッフルさせるように会話するのは、とても安心感があり気持ちの良いものです。
しかし、マスクを取ってもらって、一瞬で顔色の悪さと痩せに気付き、質(たち)の悪い身体疾患を見つけてしまったこともあります。やはり医者には患者さんの顔をしっかり見る視診が大事だと痛感しました。5月になったら、いよいよアクリル板も取り除こうと思っています。

 今年岸田首相は、「異次元の少子化対策」として子育て世帯への現金給付を打ち出していますが、少子化が進んだのは、出産や子育てにお金がかかるという経済的な理由からだけでしょうか? 近年、「自己実現のために産むのは今じゃない」と、出産時期を先延ばしするために卵子を冷凍保存する女性が増えているとのことですが、そのことも含めて、現代の若者世代に、“自我肥大”の傾向が拡大してきているように感じます。自己実現~自分のやりたいことや承認欲求・自己評価の向上~(それも大切な事ですが)を優先して、他人や社会(的使命)のこと、更には次世代の子供・子孫のことまで頭が回っていないのではないでしょうか。戦前の全体主義から、戦後欧米の個人主義が入ってきたための変化(自己中心的ともいえる)なのでしょう。もちろん全体主義に戻ろうというのではありません。ただこのまま個人主義が進み過ぎれば、皆個人の夢の実現に邁進して国や子孫のことを考えなくなり、安住する国と未来は消滅してしまいます。若者の自己意識と国や社会への意識のバランスがうまく取れた状態にならないと、少子化に歯止めはかからないのではないでしょうか。
今、巷の40代後半から70代の女性達は、親の介護や孫の世話をしている人達を除けば、時間的余裕のある人が多いはずです。ジム通いに奔走し、ママ友とランチしながらおしゃべりに興じる、こういったオバサン達の子育て経験を社会に生かす方法として、前にこのエッセイにも書いた「乳母制度」を導入してはどうでしょうか。その女性達をベビーシッター制に登録して必要な世帯に派遣する、そういうところにNPOなり国のお金を使う方が、長い目で見て時間の余っている女性達にも社会貢献した上にお金が回り、少子化対策に効果が上がるのではないでしょうか。

COVID-19が治まりつつあるこの春、このような事を一人考える私でした。

2023.4.10.

 11月20日から12月18日まで中東初開催となるサッカーW杯がカタールの地で開催され、メッシ率いるアルゼンチンがフランスとの劇的な決勝戦をPK戦の末勝ち3度目の優勝を成し遂げた。日本チームも予選リーグで、強豪ドイツ・スペインを破り1位で決勝リーグへ進む目覚ましい活躍で、日本中が熱狂した。
 私は、今ハマっているBTSの一押しジョングクが開会式で歌とダンスを披露するとのことで、初っ端から試合そっちのけで熱を入れていた。
 以前2014年ブラジル大会のことを書いたエッセイにもあるように、1978年大会でマリオ・ケンペスに魅了されて以来45年間アルゼンチンファンの私は、’78年、‘86年と2回の優勝場面をon time TVで見て以来バティストゥータ、オルテガ、アイマールなどのスター選手及び2010年以降マラドーナに次ぐ神の子メッシを擁しながら36年間優勝から遠ざかっているアルゼンチンに何とか勝ち進んでほしい!と願っていたが、予選の初戦サウジアラビアにまさかの負けを喫し、またダメかなあ?との想いがよぎった。一時はマラドーナが監督になり、そのマラドーナが2020年に亡くなり、いつしかスペインやフランスが強くなっていた。日本サッカーも海外でプレーする若者が増え、ブラジル大会の時危惧していたメンタル面はかなり強固になっていた。まさかあの1990年イタリア大会、2014年ブラジル大会でアルゼンチンに勝って優勝したドイツに勝つなんて!そんな日が来るとは夢にも思っていなかった。そしてスペインにまで…。しかも逆転で後半2点も取るなんて!技術もだが、完全にメンタルが強くなったことが勝因だろう。しかしコスタリカ戦は少し気が抜けた一瞬を突かれたようだ。私はバックパスにイライラし、緩いクリアミスに檄を飛ばしていた。三苫薫選手と田中碧選手が我が家近くの鷺沼兄弟として一躍有名になったが、実はコスタリカ戦に右SBで先発出場した山根視来(みき)選手は、我が娘の中学時代の同級生クラスメイトで隣の席の子だったのだ。当時娘はクラスにベルディ―のユースに入っている男子がいる、と言っていたが、それが山根君だった。第2戦ではなかなか渋いプレーをしていた。あざみ野中学校に山根君の横断幕が張られていなかったことを娘は「薄情だな」と呟いた。三苫選手は、川崎フロンターレに入団直後の試合をTVで見て、左SBを駆け上がってドリブルで鋭く切り込みえぐる凄い選手が出てきた!と、一目で最近のJリーグの中で唯一ファンになった選手である。
 次のスペイン戦は、実は私は日本チームの熱狂的なファンではなかったが、初めてW杯で日本チームの試合を見なかった、というより怖くて見られなかった。ドイツ、コスタリカ戦を見てハラハラドキドキが続き心臓に悪い!と寝ることにした。起きてテレビを付けたら、夢のように「日本が勝った!」となっていればいいや、と「自分が見ると負ける」というジンクスを言い訳にして。しかしどうやらこれは齢のせいのようだ。まるで我が子がボクシングの試合で殴られるのを見ていられない母親のような気持ちで、90分間続く高い緊張感は心臓に悪い、寿命が縮む!と逃げたのだ。若い時はとにかくずっとサッカーの試合を熱狂して見続けていた、しかしもうそれはできない年齢になったことを痛感した。渋谷のスポーツバーで皆と熱狂して観たり、試合会場へ行って楽器片手に大声で応援したりするのは若さ故のことなのだ。90歳近い父などは、Jリーグが始まった時でさえ「このスポーツは息がつけんなあ、トイレにも立てん!」と言っていたものだ。しかし決勝リーグになると、ここからが面白い!とばかりに全試合を観た。午前0時と4時から続けて2日間観るのはとにかく大変だった。特に0時の試合が二日続けて延長PKになったものだから、間1時間しか仮眠が取れず、翌日は逆説的超覚醒状態で診療に当たった。
 大会前私は、アルゼンチンに優勝して欲しかったが、実は内心優勝候補に挙げていたのはクロアチアだった。前回準優勝ながらMVPを取ったルカ・モドリッチを中心にしぶといサッカーをするチームで、それまでもユーゴスラビア時代からストイコビッチ、オシム監督などからも分かるように、常に走り続けて気を抜かず一瞬を見逃さず閃光のようにゴールする地味だが粘り強い印象の強いクロアチアが不気味だった。そのクロアチアと決勝トーナメントの最初に当たった日本、まずいな~と思っていた。日本は良く戦った、良い試合だった、しかし延長の末PK1-3で敗れたのは、メンタル的底力というか国民力の差なのではないか。「ウクライナ」の章で書いたように、1991年ハンガリーに滞在中中学生に「あの山の向こうでは戦争が起こっているんだよ!」と言われたその戦争が当時のユーゴスラビアの内紛で、その時祖父を殺され難民となってもサッカーをし続けていた当時6歳の少年モドリッチが山の向こうにいたのだ。その命の際を生き抜いてサッカーを続け、国民的英雄となっている。人間力というか、国民力というか、最後のPKは運ではなく、歴史に裏打ちされた決死の勝利への意欲の差が出るのだろう。クロアチアのキーパーが凄かったともいえるが。アルゼンチンとフランスの決勝PKもその差が出たのだと思う。
 スポーツに政治を持ち込まないのが原則だが、サッカーの場合頻繁に政治が絡む。それは、国と国が武器を使う戦争の代わりに、サッカーボール一個で国を背負った男同士が戦いをするのだから、微妙な感情と歴史性が交錯するのはやむを得ないだろう。マラドーナがアルゼンチンの英雄となったのも、1986年準決勝であの神の手と5人抜きでイングランドに勝ったことが、アルゼンチン国民にはフォークランド戦争でイギリスに多くの青年を殺戮された報復のように映ったからである。
 その後クロアチアは優勝候補のブラジルにもPKの末勝ち、4強に進みアルゼンチンと戦った。本当はアルゼンチンとクロアチアで決勝を戦って欲しかった。私はメッシの次に好きなのがモドリッチなのだ、メッシと同じくらいサッカーテクニックは巧いし人柄からも。しかしこの辺りからアルゼンチンは優勝モードに入ってきているように感じた。モドリッチは風貌が往年のオランダ代表ヨハン・クライフに似ているとして“バルカンのクライフ”と言われているが、試合を重ねる毎に常に変幻自在に走り続けていた運動量のせいか、ハリー・ポッターに出てくるドビーに見えてきた。クロアチアは疲労もあったと思われるが、やはりメッシが一枚上手だった。
 決勝は、45年間サッカーを見てきたが全く見たことのない最高に素晴らしいmiracle,amazingな試合になった。漫画のような漫画以上の漫画家さえ思い付かないような展開で、延長後半私は一人で「これ本当なの?映画じゃないの?」と叫んでいた。アルゼンチンの2点目は、これぞ私が大好きなアルゼンチンサッカー!という点の取り方だった。ブラジルのようにカナリアがさえずるような華麗なパス回しではなく、ドイツやイングランドのような長めの強いキックの炸裂ではなく、短く強めのパスでカウンター的に進んで最後にズドン!と蹴り込むゴール、これが45年前に魅了されたアルゼンチンサッカーの真骨頂なのだ。久しぶりのディ・マリアも切れ味鋭いドリブルで良かった。PKになればアルゼンチンの勝ちだろうと思っていた。最後に残った選手を見ると、疲労度とキーパーとの駆け引きや小技の差が感じられた。そしてアルゼンチンの方がどうしても今勝ちたいという気持ちが強かったのだ。かくして念願のW杯トロフィーをメッシが高々と掲げ上る姿を見届けるまで起きていて興奮醒めずAM5時まで寝られなかった。感動的な絵に描いたような幸せなフィナーレで、もうサッカーを見納めにしても良いくらい満喫した。メッシは本当に心から安堵したことだろう。一時W杯で勝てないことから母国民の酷いバッシングを受けて、ピッチ上で吐いている悲痛な姿があった。しかし今はもうサッカー選手としても人柄からもマラドーナを超えたと思う。まさに神の子が神になった…そして年末の12月29日王様ペレが亡くなった。
 かたやフランスのエムバペは、ハットトリックを達成し得点王も取りながら、負けて長い時間顔を覆い肩を落としていた。しかしまだ若い!この悔しさからこの後どれ程強くなるのか末恐ろしい限りである。日本の若い選手達も、今回の悔しさから一段と強くなるだろう。またいつの日か、ウクライナのサッカー選手が今の惨事を乗り越えて、メンタル強くモドリッチの如くW杯で飛躍する時が来るのではないか、と内心期待している。
 しかし1か月に及ぶ熱狂のW杯が終わってすぐクリスマスとは?いつもは夏真っ盛りなのに、余韻に浸る間もなく新年を向ける準備に入る私だった。
 これが出る頃はもう2023年だろう。 Happy new year !
 そして今年こそ、COVID-19が終息し、ウクライナから戦禍が無くなりますように!

PS.)4年後、北米大会観戦に行こう!

2022.12.31.

 2022年もあと3ヶ月を切り、長く暑かった夏が10月初めまで続いて、秋はもうこのまま来ないのだろうか?と思っていたら、急に気温が20度近く落ちて一気に冬の到来を感じて慌てている今日この頃です。
 ロシアのウクライナへの一方的な侵攻は、クリミア大橋の爆破の報復措置として即連日ウクライナ全土に計112発のミサイル攻撃をする非道暴挙に至り、地球上で毎日罪もない尊い人命が奪われ続けている。部分動員令を始めプーチン大統領の偏執ぶりは悪化の一途を辿って核戦争への危機が現実感を帯びるようになり、未来への人類の発展とは逆行しているようだ。第〇次世界大戦というのはこうして始まるものなのか…と不気味な無力感に襲われている。 
 
 COVID-19も軽症化してきたとはいえ、地球上で未だ完全収束までにどれ程の時間を要するのか分からない。経済も世界的不況が続き、極度の円安から各方面で悲鳴が上がっている日本。『疫病・戦争・飢饉』~ユヴァル・ノア・ハラリが「ホモ・デウス」で述べている人類が何千年もの間取り組んできた三つの課題~又は以前書いたエッセイの中で我が父が言っていた「百年に一度は遭遇する危機的事態」の真只中に現在我々は生きている。疫病はCOVID-19、戦争はロシアのウクライナ侵略、飢饉は経済不況と地球環境問題といえるだろう。
 そこにまた誰も想像しなかった事件が起きて日本中がひっくり返った。安倍晋三元総理大臣の旧統一教会信者の被害家族による暗殺事件。事件の一報を聞いて真っ先に私の脳裏に浮かんだのは「あの人(安倍さん)の終わり方はこういうことになっていたんだ」という言葉だった。安倍さんほどその政治的評価が二分される毀誉(きよ)褒貶(ほうへん)(ほめることとけなすことの両極)な総理大臣はいなかったといわれる。確かに世界に向かっての外交や安全保障に関しては評価できるかも知れないが、国内政策特に女性の社会進出や定年75歳制提唱には、驚きから絶句した。この方は上向きの理想論ばかり掲げて日本国民の現実社会生活を知らないのではないか?と。社会・会社で働くことが不向きな本来の女性らしい女性達に強制的家外就労の苦痛を産み、長年会社勤めをしてきて疲れ果てている60歳代を更に75歳まで働かせるなんて老後の楽しみもなく過労死させるつもりなのか、(政策の負の部分を考えていない)と危機感を抱いたものだ。実際そう訴える患者さんが多く来院した。
 常々「人間の幸と不幸は足して二で割れば皆大体同じくらい」と思っている私は、またその自説に頷いた。
 岸田総理が「民主主義の根幹たる…」「丁寧な説明」「テロに屈しない…」と何度も仰っていることにも、毎回とても違和感を抱く。選挙のたびに「清き一票を!」と連呼され、選挙期間中一生懸命街頭で候補者の演説を聞き、選挙会場へ足を運んで真剣に「誰を選ぼうか?」と考えて一票を投じてきた人には「なのに、選挙に勝って議員になる為に、より多くの党員を当選させて政権を取る為に、一部の国民を不幸にしている異国人が教祖の新興宗教と癒着して勝っていた汚い選挙を、民主主義といえるのか!」と今までの自分の真摯な想いを踏みにじられた悔しさ無念さが湧いてくるだろう。いくら「丁寧な説明」を繰り返されても、間違っている!との思いは決して変わらない。もちろん暴力・殺人は容認できないが、「テロ」という言葉も「政治的目的を達成するために大勢の人々に暴力・脅迫を用いること」という定義に合わないはずだ。国葬の本来の喪主は国民であるはずだが、その半数以上が反対した国葬を取り止めにしなかった岸田総理の判断力と民意に対する感性を疑ってしまう。また国葬の献花の列に並んだ人が全員国葬に賛成していた訳ではなく、野次馬根性で献花体験に行ってみたという人も多いという。私は10月から新聞をその論調のあまりの偏り方から産経から朝日に変えた。
 そんな9月、私は3年振りに感染症対策をしてマスターズ水泳に出場した。何と200m個人メドレーはベストタイムから10秒も遅れてしまった。飛び込みとターンで失敗し、ダッシュも気合の入れ方を忘れてしまったのか…。大阪のジャパンマスターズ(全国大会)では、直前に水着が破れるアクシデントがありバタバタのままゴールし5秒縮めたものの、コロナ禍でのフォーム改善と技術向上の成果は出ず。帰りに会場のすぐ近くにあるユニバーサルスタジオジャパンUSJへ初めて一人で行って、真っ先にお目当てのハリーポッターのアトラクションに乗ったところ、三半規管の弱い私は最初から吐き気とめまいに翻弄され続けて、降りてトイレへ直行、体中空っぽになってしまった。その後もパスを買っていた残りの3つアトラクションに乗ったが、泳いで疲れた上に全身吐き気の苦痛のみで何も楽しめず、結局飲まず食わずでフラフラのまま一銭も使わずに退場した。この歳になって行く所ではない、と痛感した。
 コロナ禍の福音としては、活動休止を宣言してからのBTS(韓国のK-POPアイドルグループ防弾少年団)にハマったことです 家で過ごすことが多い生活になり、数年前から娘に「このグループいいよ、見て!」と勧められていたBTSが、グラミー賞やら国連で演説やパーフォーマンスをするなど絶頂期に突然活動休止するとのニュースが流れ、どういうアーティストなの?と興味が湧きCDを買ってみた。車の中で初めて聞いた時から何?この曲と歌詞と乗りの新鮮さ!と驚嘆し、ダンスパーフォーマンスを映像で見てまた何?この7人一糸乱れぬキレッキレの踊りと歌唱の表現力!と心臓を射抜かれた。実は私も若い頃一時音楽、特にブラジル系ラテン音楽にのめり込んでいたことがある。ピアノやフルートなどの楽器もやっていたが、ダンスはバブル期のディスコにも行ったことがなく、娘のバレエくらいで距離の遠いものだった。幼少期のピンキーとキラーズ、テンプターズ以来、たちまち還暦ARMY(BTSの熱狂的なファン)になってしまった私は、初めは7人の区別がつかなかったが、この私がYouTubeなるものを見始め、歌と踊りの熱量とは全く違うメンバー一人一人の性格の違いや良さが見えてきて、急に可愛い息子が7人できたような幸せ気分になった。そしてなんと!今では毎晩BTSの歌と踊りを見てから眠りにつくようになっている。若い子達が夜中YouTubeを見続けてしまい朝起きれず学校に行けない、ことが少し分かる気がしてきた。またこんな毎日嫌なニュースばかり流れて出口が見えない時代だからこそ、BTSに魅かれ癒されるのかも知れない。7人が各自成長し再結集後一度はライブでコンサートを見てみたい!と思っている。
 そして私は、恩師の死から奮起して、10年振りに日本精神病理学会に復帰し9月京都で追悼の意を込めて恩師の学問絡みの発表をした。今まで余りしなかったがシンポジウムで質問にも立った。新鮮だった。やはりこれぞ私の生きる道!という気持ちの高まりと充実感で一杯になった。やっぱり私は学問が好きなんだ、学問を追求したいんだ、と。恩師の「精神病理(医)学には女性の学者も必要なんだ」という言葉に答えるべく、そのためにもっともっと勉強しなければ!と決意を新たにしている

2022.10.16.

 今年2月世界中でまだCOVID—19の治まらない中、北京冬季オリンピックが終わって4日後の24日突然ロシアがウクライナへ軍事侵攻した。現代の日本人には映画やアニメの中の物としか思えなかった戦争が現実に始まったのだ。皆口々に「21世紀の現代においてこんな戦争が起こるなんて!」と言った。しかし以前から私は患者さんや周囲に「北朝鮮からテポドンが飛んでくるかも知れないよ」「中国が海から戦争を仕掛けてくるかも」「第三次世界大戦があるかもね」「飢饉や飢餓が起こり食べ物に困る世の中になるかも」~『未来は予測不能に変わる』と真剣に言っていたが、皆「まさか今時そんなことがあるわけないでしょ」と鼻先で笑い、時代錯誤な変人とあしらわれた。そのため、侵攻直後から「先生の言っていた通りのことが起こった!」と恐怖を混じえて真顔で言う人が増えた。

 そうなのです、以前にも書いたように、流行り病や戦争といった地球規模の大惨事は、歴史を振り返ると100年に1回位は起こっているのだから、人生100年時代に入れば一生に一度は体験することになる。たまたまこの76年間日本では戦争がなく平和だったが、世界では、ベトナム戦争や湾岸戦争、シリアの内戦などが起こっていた。前章で書いたように、男性という雄♂は元来戦いが好きな動物で、小さい頃からチャンバラや戦争ごっこが好きで格闘技に燃える。ままごとやお人形さんごっこが好きな女性♀雌と違い、他者を力で圧倒して優位に立とうとする闘争本能が強い。前の章のジェンダー問題で論じたように、ここ戦争という事態において、ウクライナの18~60歳の男性は国外に出ることを禁じられて戦い、女性は子供や高齢者を連れて国外へ避難する、という性差がはっきりした。ウクライナ国内に留まって戦う女性戦士も少数いるが、戦いにおいて圧倒的に力を発揮するのは男性である。男女の性差は歴然とあり、適材適所で役割分担すべきである。決して男女は同等・同質ではなく、それを叫んでいられるのは平和な世においてだけであろう。

≪ 欲望の階層理論  Maslow.A.H. 1951 ≫
5.自己実現の欲求―大切なのは“自分の満足”

4.誇りと褒められる欲求

3.愛と所属の欲求

2.安全と安定の欲求

1.生きるための生理的欲求―食・住・衣服・睡眠・性など

 上記の欲望のヒエラルキ-理論によると、当の独裁者は最も高い第5段階におり、自己満足のために無辜のウクライナ市民を、欲望の最も低い第1段階の「生死の恐怖」まで貶(おとし)めているのだ。他の人間を自分と同じ人間と感じず欲の権化と化すのは、他者への共感能力の乏しいアスペルガー症候群(裸の王様もそうかも)に近い人格・DNAだろうか。ユーラシア大陸の北~中央部辺りには、こうした同じ人間を殺しても何とも感じず、自己利益の為に平気で噓をつき、するとそれは真実となり、逆に騙(だま)される方が愚かだと言い、約束は約されず平気で破る人種のDNAが脈々と受け継がれているように思える。そんな暴挙が許されてはならない。

 ロシアのウクライナへの軍事侵攻により、32年振りに欧州への飛行機がアンカレッジ経由(JAL)と南回り(ANA)になったと聞き、そういえば私の最初の海外旅行は、行きが南回りで、帰りはアンカレッジ経由だったことを思い出した。それは1989年アテネでの世界精神医学会出席兼欧州旅行だったが、当時はまだ冷戦の最中(さなか)でソ連の上空を飛べず、成田→香港→ジャカルタ→アブダビ→カイロ→アテネと飛行機の各駅停車で23時間かかったのだ。深夜アブダビ空港で数時間トランジットした際空港のトイレに入ったのだが、入り口に本物の大きな機関銃を脇に携えた警備の兵士が銅像のように立っており、恐る恐る入ったブースの扉は厚さ5㎝以上のジュラルミン製で上下がかなり開いていて戸惑った。入っていると数人の女性の声がした、扉を空けて出ると、皆頭と顔の下半分を黒い布で覆い隠している様に驚き、息が止まりそうになった。これが異国というものか、いきなりパンチを食らった気分だった。23時間かかってアテネの空港に到着し、浮腫んだ足を靴に入れるのに四苦八苦しながら、皆疲れ果ててタラップを降りると、仲間の先生が「まるで北京ダック製造機だな、食っちゃ寝食っちゃ寝の末…」と仰ったことがとても印象に残っている。帰りは確かアンカレッジでトランジットして、テレビで話題にされていたうどん屋さんは記憶にないが、とても寒い暗い所でビーフジャーキーを買って帰った覚えがある。その2ヶ月後東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊し、ドイツは統一された。飛行機の欧州便はロシア上空を直行便で飛べるようになり、南回りやアンカレッジ経由はなくなったのである。

 次の海外旅行は、1991年8月当時東欧で初めて民主主義国家となったハンガリーのブタペストでの世界精神医学会に出席した時である。出発時(8/20)ちょうどソ連のゴルバチョフ大統領が保守派グループの反改革派によりクリミアの別送に軟禁されたソ連8月クーデターが起こったところだった。行きの飛行機が当時のレニングラード(今のサンクトペテルブルク)上空を飛んでいた時、ルフトハンザ航空の機内でドイツ語の「たった今ソ連のクーデターが終わりました」というアナウンスがあり、乗客が一斉に拍手喝采して喜びを爆発させた。詳細が分からないままフランクフルトのホテルに到着してすぐテレビをつけると、ゴルバチョフが黒海沿岸で解放された姿が目に飛び込んできた。「ゴルバチョフは生きていた」と驚いたものだ。

 その後ブタペストへ移動して学会を終え、観光としてブダ地区の丘の上に登り、王宮やマチャーシュ教会の前の広場で、手作りの皮の鞄を見ていると、その店の女性達は皆マジャール語しか話せないようで、代わりのその息子らしい13歳の少年に英語で話しかけられた。「貴方はゴルバチョフとエリツィンのどちらが好きだ?」と。その頃まだソ連の政情をよく知らなかった私は答えに迷い「…ゴルバチョフかな…」と答えると、少年は顔をまっすぐ見据えて「僕はエリツィンだ!」声高に言った。そして南の山の方を指さして「あの山の向こう(ユーゴスラビア)では今実際に戦争が起こって毎日煙が上がっているんだよ!」と、当時ユーゴの内戦が起こっておりその危機感から政治的熱弁を振るう姿に圧倒されて、私は鞄を買うのを止めてしまった。今思えば危機感の乏しい日本人の代表のようで恥ずかしく、賢く意志の強いハンガリーの少年(現在44歳)に、今のウクライナ国民の強固な精神が重なった。西と東、民主主義と共産主義の境界に陸続きで生きる人々の鬼気迫る精神は島国日本の民族とは全く違うものである。

 またペスト地区の郊外へバスで1時間ほど東へ移動して広大な蚤の市へ行った。移動中東欧の荒涼とした原野を眺めながら、もう少し東に行くとソ連があるんだなあ、と考えていたが、それは今難民が逃れてきているウクライナとの国境だったのだ。蚤の市には家具やアンティークに交じって今まで見たことがないソ連製の品物(軍服や水筒まで)がいっぱい陳列されていた。ブタペスト市内にはソ連製の車トラバントが真っ黒な排ガスを吐きながらかなり煩いエンジン音を立てて走っており、建物の外壁はその煤(すす)でみな真っ黒になっていた。またその南東には、当時チャウシェスク大統領の独裁政治に苦しんでいた体操の元金メダリストのナディア・コマネチが、荒野を駆け鉄条網を潜り抜けて亡命したルーマニアとの国境があった。

 ブタペストを離れウィーンまでドナウ川を下って移動すべく乗船したところ、異様に多くの日本人ツアー客と一緒になった。聞くと、モスクワ滞在中にクーデターが勃発し、ずっと日本領事館に身を潜め、赤の広場で多くの戦車が行き交う光景を目にしながら過ごし、命からがら何とかハンガリーまで逃げてきたところだとのこと。「食べる?」と言われて開かれたスーツケースの両面にはカップヌードルがびっしり詰め込まれていた。これで食い繋いでいたということだった。その4ヶ月後の12月ソビエト連邦は崩壊した。東欧という異文化に初めて触れ、ロシアを強く実感した旅だった。私は幾度か世界の歴史的転換点に遭遇していたようだ。

image001 近年私はウクライナと少し縁があり、身近に意識しつつある国になっていた。数年前フィンスイミングの練習と競技をしていた。モノフィンといって人魚のように両脚を揃えて大きな扇型の足ヒレに入れて水中無呼吸や水面をシュノーケルをつけて泳ぐモノフィン、片脚ずつ長い足ヒレをつけてバタ足で泳ぐビーフィンがあるのだが、その競技用の両フィンは、私の足型に合わせて型取りし、硬さやデザイン・色の配色まで私の好みで指定して、フィンスイミングが盛んな国であるウクライナに特注して作ってもらった。3ヶ月程で私オンリーの完成品が船便で送られてきたが、よく解らない文字で送りが書いてあった。ウクライナ製のロケットフィンというものなのだが、それがウクライナのどこで作られたのか今となっては分からない、が確実に私のフィンを作ってくれた人がウクライナにいる、その人は今無事に生きているのだろうか?工場は破壊されていないだろうか?と、毎日気が気でならない。

 またオリンピック2大会で競泳1500m男子の銀メダリストとなったウクライナのミハイロ・ロマンチュク選手、リオオリンピックでその美しい泳ぎを見て一目惚れし、東京でも応援していた選手である。長距離をその無駄のない流れるようなフォームで淡々と泳ぎ抜き、最後デッドヒートの末2位になったロマンチュク選手のフォームを一時真似して練習していた私は、ロシアによるウクライナ侵攻が始まって真っ先に同選手の安否を心配した。兵士として戦っているのだろうか、無事なのだろうか、再びあの美しい泳ぎを見ることはできるのだろうか、と私の心はずっとズーンと重いままである。

 ここ最近クリニックには「楽しいことが何もない」「将来の事を考えられない」「暗いニュースばかりでテレビも見たくない」と不安・憂鬱を訴える人が多くなった。新型コロナがまだ一向に治まらない中、ウクライナのニュース、更には最近頻発している地震といった人類の三重苦『災害・疫病・戦争』がいっぺんに来た今、気分が晴れないのは皆同じだろう。「ウクライナの人々に比べれば大したことないですけど…」と言うが、自殺を含めて病死老衰という自然死が増えているのも、人間の生のエネルギーが低くなっているせいだろう。いや、むしろ昨今幸福で平和ボケした危機感の乏しい時代が続き過ぎたのではないか、「この21世紀にこんなことが起こるなんて…」という言葉の通り。しかしウイルスや細菌は変異や菌交代現象を繰り返して現れ、時に権力欲の強い男性が表れて戦争を起こし、地球は暴挙を続ける人間に対する怒りから警鐘を鳴らすのである。その果てに核が使われるとまた暗黒時代がやって来るのだろうか。ウクライナの人達の終わりの見えない心境は想像を絶するものだろうが、幾分か私達にも共感される。私は当初即刻義勇兵に加わりたいと思ったが、現実には寄付くらいしかできず、専門域の「心のケア」なぞ実体験していない平和な国の医療者が軽々しく対応できるようなレベルではなかろう。

 日本はGWが間近に迫っているが、私の予定は白紙である。同じ地球上の8200㎞離れた場所で、毎日夥しい数の無辜の人々が殺されているというのに、享楽的にはなれないのだ。いつも私は世界で悲惨な事が起こると旅行やダイビングはキャンセルする。

 ここで私ははっと思いついた。「徳川慶喜は、賢い優れた人物だったのではないか」と。幕末ペリーの黒船が到来して、徳川幕府・武士の世はもう終わり時代は変わる、との先見の明から、鎖国を解き異国の文明を取り入れて新しい世を切り開くべく、大政奉還し江戸城の無血開城を、蟄居生活に入り何も語らなかったのだ。そして日本は明治から現代へと進化してきた。時・歴史は過去には戻らず新しい未来へ向かうものである、徳川慶喜はその真理を賢知していた、が現代の露の独裁者はそれを知らず、過去の大国ソビエト連邦を復活させる独我夢実現に妄執して罪なき同胞隣人を動物以下の如く殺戮し続けている。彼は、精神病を発病しているわけではないだろう。また疑われているパーキンソン病の人の性格は真面目で硬く大人しいため、振えだけでそうとはとても思えない。基底に重症のパーソナリティーの問題がありそうで偏執妄想狂的な印象は受けるが、直接対面したことがないので断言は控えたい。今では、第二次世界大戦時のドイツ・ナチスのヒトラーより凄惨だという声が大きくなっている。

 1999年以降の世界学会で、ロシアの精神科医の発表を聞いた折、私はその拙い英語や発表内容から、「これが大国ロシア? 今時まだこんなレベルの研究をしている国なのか…」と訝しく思った覚えがある。学問的には世界のその他の国々(フィンランド、スウェーデンやインドの方が高いレベル)よりかなり遅れていると感じられた。やはり閉ざされた国なのだろうか?と。その印象は当たっていたと今回確信した。

 しかし日本にも露の脅威は現実味を帯びてきた。露艦隊が津軽海峡を通り、ICBMが西部から極東のカムチャツカまで飛ばされ、北朝鮮が日本海にミサイルを撃ち込んできた。スワッ!一気に国防力アップの意見が増え、核のリースを含めた安全保障問題・憲法改正論、自衛隊の緊張感が高まっている。その論争は専門家に委ねたい。

 現在NHKの大河ドラマで放映中の「鎌倉殿の13人」は執権北条義時が主人公である。その8代目北条時宗の時代に日本へ押し寄せた2度の元寇(1274年文永の役1281年弘安の役)は、第二次世界大戦をも超える我が国史上最悪の国難とされている。それを退けたのは、偶然吹いた「神風」のお陰もあろうが、一番の勝因は得宗時宗の毅然とした決断力と鎌倉御家人武士団の決死の国土防衛心だと考えられる。(令和4年4月4日産経新聞オピニオン清湖口敏より)もし近い将来大陸の他国が日本に軍事侵略を開始したら、今の日本に鎌倉武士団(及び執権)やウクライナの人々(及びゼレンスキー大統領)のように自国を守ろうとする強い想いや決断力・団結力は沸くであろうか。今まで海に守られてきた島国日本は、国境が地続きのため頻繁に侵略の危機に晒されてきた国々と違い、危機感及び強固な国防信念が乏しい。現代は地球を半周以上飛んで正確に命中するミサイルが開発され海の防衛力は機能しなくなった。軍事的防衛力の低い日本はイチコロである。俄然日本国民の命の保証はなくなり不安と危機感が高まってきた。そして資源エネルギーが乏しく他国頼みの日本は、この点からも弱小国なのは明らかで、今後自然エネルギーやバイオマス、原子力の安全な再稼働や国産品回帰を進めなければ、危機を乗り越えられないのではないだろうか。

 とにかくウクライナの惨状は遠くの国で起こっている他人事ではないのだ。「もし徴兵されたら行きますか?」と周りの男性に何人か質問したところ、中年以降の人はほぼ「仕方ないね~行くしか」という答えが返ってきたが、若い人々は全員「逃げます!」と即答された。今後日本はどうなるのだろう。ただ自分の命さえあれば生きていさえすればいいのではなく、自分の生が存在する場を死守しなければ、より良い質の生を続けられないではないか。ウクライナと同じ危機感を日本の若い人も持ってほしい、そして一秒でも早く戦争が終わって欲しい<正義は勝つ>、と切に願う私である。

2022.4.24.

 2021年、地球世界の人類は2年間に渡る新型コロナ感染症との戦いに明け暮れながら終わろうとしています。日本は夏に東京オリンピックを無観客で開催したものの、金メダルを期待視されていた選手が、バブル方式による地元開催のプレッシャーなのかCOVID‐19で国際大会経験が少なかったせいなのか、序盤から次々と不本意な結果に終わり、テレビで観戦する側も興奮や感動の盛り上がりがないまま閉幕した感じがします。
 ただ、開会式の聖火リレー入場で、私が最終ランナーに予想していたONつまり長嶋さん王さんが、松井秀喜さんと共に現れた時は胸が熱くなりました。東京でスポーツを代表するレジェンドといえばONだ!と思い、母のリハビリトレーナーだった方が、その前に長嶋さんのリハビリに携わっていらしたことから、長嶋さんの鬼気迫るトレーニング努力を聞いていた私は、多分かなり具合が悪いのだろうと思われるお姿ながら、短い距離を懸命に自分の足で歩こうとされている長嶋さんの姿を見て、7ヶ月前に亡くなった母を思い出しつい拳を握って応援していました。昭和の現役時代は王さんの大ファンだった私ですが、やっぱりONだったなあ、と。
 12月に入って毎年恒例の清水寺の住職が今年を現す漢字一文字として「金」を書かれたことに、私は「えっ『金』?そうかなあ?」と初めて今年は同感できませんでした。そんなに沢山金メダル取れなかったし、お金は動かなかったのに、と。
 またオリンピックを通じて盛んに叫ばれるようになった言葉が、「人種差別・性差別のない世界」でした。最終聖火ランナーの大阪なおみ選手、日本選手団入場行進で旗手を務めた八村塁選手、性転換後の性で出場した選手などがその例として挙げられました。人種差別をなくすことは然りですが、性差はどうでしょうか? 本来XX染色体の男性として生まれた人が、心は女性だといっても、筋力や骨格系はやはり男性の質です。それなのにXY染色体の女性とその男性質の肉体を使って競うのは、物理的に絶対的な差があり平等とはいえず、“フェアプレイのスポーツマン精神”に反するのではないでしょうか。
 その後もテレビや新聞では、盛んに「ジェンダー平等」とか「Xジェンダー-」という言葉が飛び交い、「人間に性差はなく、男性と女性の違いはグラデーションだ」というNHKのテレビ番組がある一方、「女性の月経に対する正しい認識を!」と男性社会に呼びかける番組や、女性の社会進出・働く女性の地位向上、家事・育児の夫婦平等など、近年は女性に有利な傾向が強く、男性は肩身の狭い思いをされているのではないでしょうか。
 果たして男女は本当に平等なのか!? 男性と女性は、染色体だけでなく、外見の姿、体の中の生殖器や性ホルモンは明らかに違います。もちろん男性にも女性ホルモンや女性にも男性ホルモンはありますが、有意な差があります。何せ、女性は子供を産めますが、男性は種まきだけです。脳も脳梁という部分が男性より女性の方が大きいという違いがあるといわれます(反対意見もあります)。生物学的には明らかな違いがあるのです。
 しかしながら精神面はどうでしょうか?精神疾患では、ヒステリーは女性に多く、出産後の精神疾患や月経に伴うPMS・PMDDは女性特有であり、うつ病でいうと、昇進うつ病は男性に多く、女性には引っ越しうつ病が多い、等明らかな男女差があります。
 古来人間界の戦争は、男性がその闘争心と支配欲・征服欲から始めたもので、女性は戦争には反対で平和を求めます(少数の闘争家もいますが)。今叫ばれているジェンダー平等は、男性と同等に評価されたい男性的なというか男性に比肩する少数派の女性が叫んでいる傾向があるのではないでしょうか?女性の地位向上、女性の評価が上がること、それはそれで良いのですが、大多数の女性らしい女性、男性らしい男性の立場から見ることも忘れてはならない!と強く思います。女性の社会進出、それは結構ですが、女性皆が働く女性を目指しているわけではありません。社会で働くことが苦手な不向きな女性は多いのです。今40代以上の女性はまだ結婚して専業主婦やパート務めの方が多いかも知れませんが、30代以下の女性たちは、学校卒業後就活して正社員として社会で働き続けることが普通の人生経路だと思うようになっています。最近発表された生涯非婚率が高くなっているのもその表れでしょう。女性には純粋に家庭向きの人が多くいます。一旦は社会に出て働くものの、会社の仕事にやりがいを感じず、昇進欲はなく、上司や同僚(特に女性の)との人間関係に疲れ、家で家事や育児をしていた方が性に合っていると気付いて早くに退職していきます。仲にはバリバリ働いて同期の男性と張り合ってもしくは男性以上に仕事をしてしまい、気が付いたら30歳過ぎ、同期の男性社員は先に出世して、自分は恋人もおらず、結婚の機会を逃し、このままでは子供も産めない人生で終わってしまう!と焦って受診してくる女性がいます。こうして30半ばにして、仕事の評価より女性としての幸せな家庭生活の方が大事だった!と気付いて婚活に入り男性との張り合いを止めます。また女性の社会進出により、女性社員同士の空気を読む不協和音が増え、会社の仕事に感情を持ち込む問題~対人関係による適応障害~が俄然増えています。最近は男女間でもそれは増えています。私は若い頃、「仕事に好き嫌いを持ち込むな!」と教えられました。が最近では、職場で仕事をする事より、人間関係を気にすることの方が主体になっている人達が増えていることが懸念されます。
 また女性に向く仕事、男性に向く仕事、の別はあると思います。家事・育児と会社・力仕事など。しかし少数派の男性的な女性や女性的な男性はいるので、彼らを尊重する事は大切な事ですが。いくら男女平等といっても、女性に50㎏もある重い荷物をいっぱい運べるでしょうか? 男性の力なくしては、家財も動かせない不便が付きまといます。男性に毎日コツコツ同じ作業(家事)を繰り返しこなし続けることができるでしょうか?「女工(じょこう)さん」という言葉はあっても、「男工(だんこう)さん」とは言いませんよね。昨今男女平等の御旗の元、夫に家事や育児を強要する妻が増え、料理や子供が好きな男性は苦ではないかも知れませんが、それでも一日中会社で働いてエネルギー枯渇状態で帰宅後、またそれから家事・育児をするなんて男性にはたまったものではないでしょう。その夫の大変さを妻は分からないのでしょうか?そんな“鬼嫁”となる妻は専業主婦かパート務めの方に多い傾向があり、ただ家事・育児を楽して怠けたい妻だけのように思えます。正社員で共働きの妻は夫に家事を強要せず、そのため夫も家事に協力的な家庭が多いように思われます。愛があれば共に思い遣れるのではないでしょうか?最近“鬼嫁”により人生疲れ果てた夫の受診が増えています。声を大きくして反論すると、「パワハラだ」「モラハラだ」と言われ黙って我慢するしかない、と嘆く夫。こうなると妻の逆パワハラですね。「子供が成人したら離婚します」と夫は言い、こうして愛のなくなった家庭は崩壊していきます。「男女平等」というのは、権利を主張したり楽をしたりするためのものではないはずです。
 “男女平等”ではなく、“男女は異種平行(交わらない)・平衡(釣り合う)・並行(並んで進む)”と私は考えるのです。男性と同じ事をして同じ高さに上って評価されることが、女性の地位向上では決してなく、女性は男性にできないことで能力を発揮して世の中に貢献すればいいではないか、男女は違いを尊重して補い合うことで評価し合うべきである、と。男性と比肩して働き同等に評価してもらいたいという有能な少数派女性の不満解消のために、元来多数派女性の適性適所の世界を剥奪してはならないと考えます。私がこのようなことを講演で話すと、決まって会場にいるフェミニストの女性達から「なぜ貴方のように女性として成功している人が、このように男女平等を否定し男女差別を推奨するのか!?」と言われることが多いのですが、私は今まで男性と張り合って仕事をしたことは全くありません。それでも分相応に評価されてか満足のいく扱いを受けてきました。小さい時からよく男子に「こいつを女だと思うなよ~!」と言われ、スポーツでも男性と一緒に練習することが多く、行動上及び性格的には男性的な少数派の女性なのでしょうが。前章でも書いたように、木村教授の指導のお陰かも知れませんが、常に男女には違いがあり補い合うものだ、と考えてやってきました。今後もそれは自然体で変わりありません。

 女性的な女性の人生で何が悪い!他者評価を高めたい上昇志向の強い女性はそうしていくがいい。自己評価で満足できる女性の人生を進めばそれでいいではないか!男女差をなくしてグラデーション化することが今後の人類に推奨される理想的な事だとは私には決して思えない。必ずその歪(ひずみ)が現れる日が来ることを懸念している。

2021.12.20

 新型コロナウイルス感染症デルタ株が猛威を振るう中、東京オリンピックが無観客で開催されている8月4日、私の学問上の父といえる恩師京都大学名誉教授木村敏先生がこの世を去られた。一報を聞いて、「えっ……」と言ったまま言葉を失い、しばらく呆然として天を仰いだ。『遂にその時が来てしまったのか…』と。
 2017年6月名古屋の研究会の帰りに転んで腰椎骨折し、京都での手術後急に具合が悪くなり京大病院に入院されたとのことで、8月末私は木村先生のお見舞いに駆け付けた。しかし散歩中で病室にはおられず少し待った後、車椅子に乗った木村先生が帰っていらっしゃった。しかし私を見てもいつものように相好崩して笑顔で出迎えて下さる様子はなく、暫く無表情で私の顔をじーっと見てからやや視線を落として「…申し訳ないけど、誰だか判りません、…私の頭は駄目になってしまいました……私の頭は駄目になってしまいました…」と何度もリフレインされた。私の事が判らないとは、ショックだった。その後無言が続いたため、長居は互いに心が苦しいと思い、短時間で病室を後にした。それが木村先生との最後になってしまった。その後施設に入所されたが、COVID-19の到来もあり、面会に行けないでいた。今年10月に京都で開催される木村先生が創始者である日本精神病理学会に出席しながら、面会に行こう!と心に決めていたが、間に合わなかった。最後は眠るように静かに息を引き取られたとのこと、90歳だった。

≪ 出会い ≫
 小中学校時代今考えてみるとかなりひどい“いじめ”を受けていた私は、いつしかその苦しみから「“人の心”とはどうなっているのだろう?」と考え始め、「そうだ!心の医者になって解明すれば、少しは生き易くなるのではないだろうか?」と思いつき、医学部に入って精神科医になる決心をした。高校時代、学校の図書館や本屋の書籍に自分の追い求めている“心”を教えてくれるものを探し回ったが、一向にそれに出会えず、目標をクリアして医学部に入って2年生時、医学部の図書館で一冊の本に出合った。『分裂病の現象学』という難解な本だったが、引き込まれるように読み「これだ~!私の求めていたものは!!」と歓喜した。いったいこの著者は誰なんだろう?と最終ページの著者欄を見ると、『木村敏』何と我が名古屋市立大学の精神科教授ではないか!ここにいらっしゃるんだ!と二度驚いた。その後学生のうちから参加できる木村先生の精神科の勉強会があると聞きつけて参加したり、私の身近で精神的変調を来す学生が複数現れたため先生に直接相談するようになったりして、木村先生と身近で接する機会が増えていった。当時“女は入局させない”という公言する他科教授が多かった中、木村先生はいつも「精神医学には女性も必要なんだよ」と仰っていた。
 当然卒業したら精神医学の道に進むつもりでいたが、どうせ最後は精神科医になると決めていたので、初めは昔のインターン制(今の研修医制度)のように医学全科を回って勉強しておこう!と、木村先生に断って武者修行に出た。国立静岡病院のレジデントとして神経内科を中心に全科及び夜間救急外来や病理・解剖学まで昼夜を問わず医学の勉強に没頭し、東京大学や大阪大学の高名な先生方の指導の元1年目で厚生省・文部省の班研究に携わり、学会発表や論文に多数従事したため、東大出身の宇尾野院長から東大神経内科に入局しないか、と強く誘われ少し心が揺らいだ。しかし昭和61年木村先生が京都大学精神科教授に就任されることになり、何かの研究会出席のため先生が静岡に来られた折、直接会って話し合うことになった。そこに宇尾野院長も同席し、私の目の前で二人の火花が散っている光景を目の当たりにした。「東大と京大が…こんなひよっこ新米医者の引き合いなんかしないで下さい」と間で身を小さくしていた。悩んだ末、やはり精神医学をやりたい!という気持ちが強く、結局昭和61年4月名古屋市立大学精神科へ入局することにした。が木村先生は1ヶ月後の5月京都大学へ赴任してしまった。その後も木村先生に師事するために、京都大学へ移ろうか画策したが、まだ学園闘争の残煙がくすぶる京大の精神科ではちゃんとした学問はできないだろう、という木村先生の意見から名古屋に留まることにした。しかし先生は名古屋の弟子達のために、定期的に精神病理学の勉強会を名古屋で開いて下った。私はその勉強会に断続的に参加、静岡~横浜、子育て、開業などの事情からなかなか思うように参加できなかったが、最後までメンバーに加えて下さった。2010年発行の大著『パトゾフィーPathosophie(ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーVictor von Weizsacker)木村敏訳(みすず書房)』の巻末に、こんな塵(ちり)のようなゴースト訳読者である私の名前を忘れずに加えて下さったことは、光栄至極ながら甚だ恐れ多い気持ちである。

≪ 木村敏の学問~世界の木村 ≫
 木村先生の精神病理学は難解な文章で知られるが、直接お話しすると、一つ一つの言葉をその語源を大切にしながら、ゆったりと間をおいて話され、また相手の考えもよく聞いて下さるため、とても解り易く、思考の対話をしながら思索が深まっていくのが楽しかった。私は「あなたの脳波はきっとぐちゃぐちゃだ」とか「本当に色んな事をする人だねえ」とよく言われたが、学会や研究会でお会いする度に真摯に問答を重ね、いつも私の神経内科での経験と知識を重視して下さった。そして常に精神医学には女性の立場からの物の見方も大切だとして、よく私に意見を求められた。男女の違いを大切にする学問分野に従事したせいか、私は医者になって“女性だから”ということで不遇な想いを抱いたことは殆どない。男女平等ではなく、男女異種平行(並行・平衡)だと考える。それは木村先生の教えのお陰かも知れない。
 1993年9月第14回精神病理学会(神戸)の時、木村先生と並んで座って話していると、当時木村先生と双璧をなした中井久夫神戸大学名誉教授(元名古屋市立大学精神科助教授でもある)が私のもう一方の横に座られ、木村先生に話しかけられた。学会長の中井先生はややハイテンションで意に介していないようだったが、珍しく木村先生が中井先生にライバル心を剥き出しにして対峙される姿をライブで見た。私は双璧に挟まれ背中が凍る想いがして身をすくめた覚えがある。
 海外の学会でも何度かご一緒した。1989年のギリシャ・アテネでの世界精神医学会では、木村先生夫妻と当時の名古屋大学精神科教授笠原嘉先生夫妻と我が夫婦の3組6人で、帰りのタクシーを拾おうとして、両教授奥方が広い道路の真ん中に出て大奮闘されているのに、男性3人は何もせず道端に佇んでいた光景が懐かしく思い出される。
 1999年第3回哲学・精神医学・心理学の国際会議PPP(仏ニース)では、先生は世界の精神病理学のもう一人の雄ドイツのブランケンブルク先生と共にメダイユ賞を授与された。そこで私は世界の高名な精神病理学者達と直にお話しする光栄な機会を得た。最終日他の日本人参加者が殆ど市中へ遊びに行ってしまい私一人学会出席していたところ、先生に厳しい眼差しで { 私の横に来なさい ! } と指示され、横の席に座らされた。その日は一日中つきっきりで世界の名だたる学者の発表を全部私に解説して教えて下さり、身が引き締まる思いで集中して聞いた。今考えてもあり得ないような貴重な貴重な時間だった。その時私は真剣にフランス留学を画策していた。木村先生の伝手で、娘を連れてパリ(大学)へと。しかし先生はあっさりと「ニース大学にしなさい。そうしたら私がニースへ遊びに来られるから。今パリに私の紹介できる知り合いはいないんだよ」と仰った。「いやこんな明るいコートダジュールの街では、呆けてしまって学問なんてできない」と私は諸事情からフランス留学を断念した。
 2004年ハイデルベルク(独)での第7回PPP会議には娘を連れて出席した。そこで娘は木村先生と初めて対面したのだが、先生は11歳の娘を見るなり相好崩して満面笑みとなり、まるで自分の孫を見るように好々爺としたお顔になられた。その当時先生は既に4人のお孫さんのお爺様だった。
 私の学会発表は必ず聞きに来て下さった。しかしいつも「私はちゃんと書かないと認めない。口で偉そうなことは誰でも言える、が文章にしないとだめだ」と仰っていたため、私もいくつか書いたが、結局2011年第14回PPP世界学会(スウェーデン、ヨーテボリ)で発表したものを論文化してパソコンで先生に送ったところ、「それはとても読みたいんだけど、今プリンターが壊れていて読めないんだよ」と言われたままになってしまった。ただ2006年に私が出したエッセイ集『徒然花』だけは読んで帯文と巻末の寄稿文を書いて下さった。今読み返しても有り難い言葉の数々である。2冊目の『新版徒然花』(2019)はもう寄稿文をお願いできる状態ではなく、完成した本をお送りしたものの、果たして施設内の先生に読解してもらえたかどうか…。
 木村先生には、日本中いや世界中にものすごい数のファンがいる。精神科医、哲学者、社会学者、学生、患者さん等々。ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学と渡り、名古屋市立大学・京都大学精神科教授を歴任され、精神医学のノーベル賞と言われる1981年シーボルト賞(ドイツ)1985年エグネール賞(スイス)を受賞されたため、世界学会でも木村先生の横にいるだけで、木村先生の弟子だというだけで、世界中の学者から一目置かれ、高名な世界の精神科医から声をかけられた。先生は、「僕は日本でよりも世界での方が有名なんだ」と自ら仰っていたが、長年私が見る限り、先生のファンは女性よりも圧倒的に男性の方が多かった(先生に言っていたらがっかりされたかも知れないが)。ある時先生は「僕には磁石があるらしい。人を惹きつける磁石を持っている人間がいるという人がいるんだけど、その人がそう言うんだ。」と仰っていた。確かに!木村先生は”見えないものに興味を抱く人達(特に男性)を惹きつける磁石を持っていらしたかもしれない。先生の話し方は、語と語の間に絶妙な間を取って話されるため、皆一瞬はっと惹きつけられる。昔それを真似していると思われる男性先輩先生方を何人かお見かけした。尊敬の念から似てくるのであろうか。言葉一つ一つを語源から大事にして脳内で戦わせながら思索し話されるために、間(ま)が少し開くのだろうか。私も先生の本を読んだり、先生の話を聞いて問答したりする時、頭がくちゅくちゅする感覚が気持ちよかった。脳細胞がこんがらがってからほどける感じか。先生の脳の思索に共鳴したい人が惹きつけられファンになっていたのだろう。東京の講演会でも、私はワクワクして聞き質問に立ったが、終わってから周りの精神科医から「いつもあんな話を聞いているの?授業もそうだったの?」と言われ、「そうだよ」と答えると、「僕は7分で(講演を聞くことを断念して)寝た。」と言われた。私は数少ない先生の女性弟子であり、名古屋市立大学の医学生として先生の講義を受けた最後の弟子であるが、女性弟子は皆やや男性的だったような気がする。精神病理学自体が男性脳的な学問であろうが。

≪ スーパーカウンセリングの恩 ≫
 私が人生で一番辛い時、地獄の淵から救って下さったのは紛れもなく木村先生である。1998年心も体もボロボロな時、「すぐ京都にいらっしゃい!」と言われて京都市内の河合文化研究所で、私は“世界の木村”に”スーパーカウンセリング”を受けた。辛らつな言葉の数々だったが、私の心にぐいぐいと突き刺さり、私は目から次々と鱗が落ちた。私の心はリセットされ、その後の人生を生き直すことができた。よく「木村先生は世界的な精神病理学者だが、治療は…?」と言う先生方がいるが、とんでもない!治療も天下一品ですよ!と声を大にして言いたい。あまたの弟子達の中で、世界の木村先生から直接こんなすごい治療(精神療法・カウンセリング)を受けた人は私以外いないだろう。今でも心から感謝している。私の命の恩人と言ってもいいくらい。そして私のその後の治療スタイルは、その時の木村先生の手法が元になっているのかも知れない。ただ傾聴して同調するだけの“よしよし療法”では何も変わらない、外科手術でメスを入れて痛みを伴って病巣を取るように、精神療法でも心の急所にグサっと来るがそこを内省して立ち上がらせる、という手法が患者さんのため(根治)になる!と考えるようになった。
 2010年に出版された先生の自伝『精神医学から臨床哲学へ』(ミネルヴァ書房)は、毎日出版文化賞を受賞されたが、その本の303ページに私を登場させてもらっている。2002年秋、横浜に住む同い年だった娘のまり子さんが心身不調だとのことで治療を頼まれた。多くの弟子の中から何故私に娘さんを託されたのだろう?と身を引き締めながら診察に当たった。暫くして精神科医としてメンタルな要因はほぼ解決したはずなのに、身体症状が再発したため、不審に思って血液検査をしたところ、医者一年目で身体科の研修をしたとしか言えないが、嫌な予感がした。すぐにCT検査を依頼したところ、図星だった。何故私の前に診ていた内科医が見つけられなかったのだろう!すぐに木村先生に電話した。まり子さんは余命3~4か月とのことであったが、抗癌剤を使わず民間療法で3年間以上生きられた。私は療養中のまり子さんを時々往診してお孫さん達とも交流したが、偉大な父を持つ子供の苦悩も垣間見た気がする。先生の前述した自伝書の巻末の人名索引に、ニーチェとハイデガーに挟まれて私の名前が掲載されているのを見て、驚き恐れおののいた。

あざみ野うかい亭にて

あざみ野うかい亭にて


≪ 縁 ≫
 2006年12月私の初版エッセイ集『徒然花』の出版記念パーティーに出席できなかった(代わりに主賓の祝辞として先生の手紙を読み上げさせてもらった)木村先生は、東京のシンポジウムの帰りに我が家に来て下さり、父を交えて三人でお向かいのうかい亭で会食した。初めは「僕は単品でいいよ」と言っていらしたのに、コースを頼んだ私と父の一品目を見て「美味しそうですね~、私も同じコースに…」とあっさり変更され、あまりグルメではなかった木村先生ですら、うかい亭の料理には舌鼓を打ちながら完食された。そして徐々に意気投合したのか同じ岐阜県人の父(昭和20年当時、先生は高山市、父は可児市在住だった)と戦争中の話に花が咲き、「岐阜市大空襲の時、南(父は西)の空が赤く染まったのが見えたねぇ」と61年前奇遇にも同じ時同じ光景を見た話をされていた。
 2004年ハイデルベルクの後、娘と京都旅行をした際、嵐山にある先生のご自宅を訪問して再会した。奥様を含めて大人三人が話している間黙っていた11歳の娘が、大人の話の間が開いたところ、おもむろに先生に向かって右掌を上にして差し出し「あの~、有名な方ですか?」と真顔で聞いた。呆気に取られている私と先生の間を縫って、奥様が「いいえ~、ただの爺さん!」と絶妙な合いの手を入れられ大爆笑した。まり子さんの病気療養で体調を崩された奥様に再ショックを受けられていた先生、そのお二人が娘を交えて元気に笑っていらっしゃる姿を見てほっとした。その娘の受験に際しては、高校受験や大学受験で、木村先生の文章が国語の試験(評論文)に度々登場した。模擬試験中塾の国語の先生に「本当にこの文章の先生知ってるの?どんな先生?」と問われて、「うん。ただの爺さん」と娘は答えたという。それを木村先生に話すと、「そうなんだよ、日比谷高校の入試に使われて、終わってから二千円送って来たよ。筆者には事前に連絡なしだね」と笑っていらした。2012年の大学入学センター試験の初日帰宅した娘が、私に現代国語の問題に出た漢字〈セッショウ〉について質問した。軽く前後文を聞くと生物学的な内容だったので、〈殺生〉かなあと軽く話していた。試験二日目の昼パソコンを開くと、久しぶりに木村先生からメールが来ていた。『昨日のセンター試験に僕の分章が使われたらしい。筆者の僕がどこに書いたか全く覚えていない文章なんだけど、梨都ちゃん受けたんですよね?出来はどうでしたか?』とのことだった。『えっ!』と驚いて、新聞を開いて前日のセンター試験の国語欄を見ると、確かに評論文の作者は<木村敏>とあった。似たような内容の本は我が家の本棚にもあるが、先の漢字は〈折衝〉だった。試験から帰って来た娘に事の顛末を話すと、「え~っ、木村先生の文章だったの? 全然できなかったって先生に言っといて!」と驚き肩を落とした。いやはや縁があるものだ。その後先生に会った時「謝礼はまた二千円でしたか?」と尋ねると、「…いや~、あれは“万”はいったよ」と笑って答えられた。

≪ 教え~最期に ≫
 木村先生は最晩年まで患者さんの診療をこなし、とにかく臨床の診察を大事にするよう教えられた。少年犯罪が続発して私がテレビや新聞によく出ていた静岡時代、「先生のような高名な精神科医がマスコミに出てちゃんとしたことを話して下さいよ」と進言すると「いやぁ、僕なんかが出ても視聴率上がらないからね、断り続けていたらマスコミも諦めて来なくなったよ」と言われた。一方で「診てない人の事を聞いた情報だけであれこれ推察して言うのは失礼なことだ!」と語気を強くされ、「…まあしかし、マスコミが君を放っておかいないだろうなあ…しかし精神鑑定はしなさい。実際に(被疑者に)会って診察するのはとても勉強になる」と教えられた。先生は重大事件犯の精神鑑定を数多くされているが、その教えから私も精神鑑定を幾つかしてきた。そしてマスコミからは遠ざかった。
 今40年以上教えを乞うた唯一無二の恩師木村敏先生がこの世にいなくなってしまわれた。がまだ京都に行っていないので、実感がない。あの大きな何にも動じない先生の頭と体が止まってしまうなんて…。もう難しい問答もできなくなってしまった。頭がくちゅくちゅする快感も得られない。いま改めて先生の著書『あいだと生命』を読み直している。そしてやはり「人と人との間」(昭和47年弘文堂)は名著である。振り返ってみると、私もずっと精神医学・精神科の医療をしながら、人と人の間~患者さんと自分の間~の何かに拘り魅了され思索し続けているようだ。娘が「コロナが治まったら一緒に木村先生のお参りに京都へ行こう」と言ってくれている。
 こんな偉大な世界的精神科医に巡り合い指導され、私は本当にラッキーだったと思う。私の人生において、木村敏先生との出会いは必然であり、先生はその要所で必ず現れる道標のような、そしていつもその上で導いて下さっている風のような存在だった。
精神医学の巨星が堕ち、一つの時代が終わったような気がする。
長い間本当にご指導ありがとうございました。 安らかにお眠りください。

2021.9.7

20210908-2

https://www.asahi.com/articles/ASP866RT5P86PTFC00X.html
https://mainichi.jp/articles/20210807/k00/00m/040/189000c

木村 敏 (きむら:びん) 略歴 著書・訳書多数
1931年(昭和6年)生まれ
1955年 京都大学医学部卒業
1961-1963年 ミュンヘン大学精神科に留学
1969-1970年 ハイデルベルク大学精神科客員講師
1974-1986年 名古屋市立大学医学部精神科教授
1986-1994年 京都大学医学部精神科教授
1992-2001年 日本精神病理学会理事長
1995-2001年 龍谷大学国際文化学部教授
2004-2005年立命館大学文学部哲学科客員教授
1981年 第3回シーボルト賞(ドイツ)
1985年 第1回エグネール賞(スイス)
2003年 第15回和辻哲郎文化賞
2010年 第64回毎日出版文化賞
2012年 第30回京都府文化賞特別功労賞

 令和2年12月25日クリスマスの朝、10年以上進行性核上性麻痺(PSP)という10万人に6人といわれる神経難病との闘病の末、母が亡くなった。84歳の誕生日の前日だった。父が用意してくれた朝食のパンの一口目を喉に詰まらせて窒息したという。9ヶ月に及ぶ横浜生活を終え、名古屋の難病専門施設へ入所すべく、人生の62年間を過ごした多治見の家で最後の正月を過ごさせてやりたい、と19日に車で運び21日に私と別れた4日後だった。あまりに呆気なく突然で、全身不自由になった母の体をいつも抱き抱えながら移動させていた私の腕は、まだ母の温もりを覚えているのに、急にそれをもう永遠に感じられなくなったことを現実として受け入れられず、空虚でとてつもない寂しさのまま年末年始を過ごした。

 10年前に右足が震え出し、初めは何の病気か分からなかったが、4年前リビングで転んでストーブの上で沸騰していた熱湯をかぶって左腕にⅢ度の熱傷を負い、右太腿からの植皮術を受けるために入院していた病院でPSPと診断された。医者になり立ての頃神経内科を主体に国立病院でレジデント研修をしていた私は、専門の神経難病病棟でも診たことがない病気を母が患い、筋萎縮性側索硬化症(ALS)やパーキンソン病のような末路を辿ることを俄かには信じられなかった。3年前早朝トイレで転倒し左大腿骨大転子部骨折して入院、全身麻酔で手術後、激しい夜間譫妄と一時易怒的性格変化を来たしてから記憶力・見当識障害や幻覚妄想といった認知症が急に出現し始めた。歩行障害も進み、度重なる転倒の度にまた“いつの間にか”も含めて、その前後で合わせて全身13ヶ所を骨折(脊椎5本、肋骨5本、股関節1、胸骨、手首1)、体重は28Kgまで減り、車椅子生活になってしまった。
 高齢の父には介護困難となり、母は3年前から多治見の実家とあざみ野の我が家を約3ヶ月毎に往復することになり、私は車の後部をベッドにしてエアウィーブを敷いて母を300㎞運んだが、新東名高速道路のSAで母をトイレに行かせることは難儀だった。
 令和2年3月末から母の住民票を横浜に変えて、デイサービスや訪問看護リハビリ、福祉用具のレンタルを受けながら、私が我が家で介護することになった。当初デイサービスにあまり乗り気でなかった母も、徐々に慣れて週3回通うようになり、リハビリにも懸命に取り組むようになった。横浜では介護・福祉の方々が皆とても良い人に恵まれ、母は心穏やかに過ごしていたと思われる。
 私は、外出中母が勝手に庭や玄関から出て怪我をしたり家の中で転倒したりすることを恐れて、母の部屋の前にバリケードを築いて出掛けたが、あえなく壊され、キッチンに侵入されたり、庭や玄関で転んで顔面流血されていたりした。
 歩行障害・体の不自由さと見当識障害(時・所・人が分からなくなる症状)以上に嚥下障害(飲み込みや食道の動きの悪さ)が急速に悪化して、11月中旬は誤嚥と通過障害で短期間入院(コロナの流行で面会できないため私が退院させた)、下旬には干し柿を詰まらせ3分間程呼吸停止したが、殆ど死に顔になっている母を見ながら、私は「ここで死なせるわけにはいかない!」と必死に救急蘇生し何とか一命を取り留めた。生還した母は「意識がなくなっていく時、こうやって死んでいくのかなあ?と思った」と語った。私はその後の24日間、何とか生きて実家に戻さなければ!と毎日毎日薄氷を踏む思いで母と暮らした。寝ている時息をしているか鼻口まで顔を寄せて確認し、深夜物音がすると反射的に起きてトイレに付き添い(1晩に4~5回)、物を食べる前は窒息防止のために必ず経管栄養剤を飲ませるようにした。母は多治見にいる父が家の中や外にいると毎日言うようになり、最後の方は40年以上前に亡くなった両親が生きているとも言い始め、度々呼ばれて診察を中断せざるを得ず患者さんを待たせてしまった。12月18日最後のデイサービスで送り届けて下さった所長さんの顔を見上げられず「ありがとうございました。ありがとうございました。」と繰り返す母の姿に胸が詰まった。「ええ人ばっかやった。ええ人ばっかやった」と頭を垂れたまま。後で所長さんも「顔上げられなかったですね」と仰っていたが、母は顔を上げると泣いてしまうと必死に抑えていたのだろう。こんなに横浜の土地と人に馴染んできた母を9ヶ月という短期間で終わらせ、所縁の無い名古屋の施設に入れてしまって良いのだろうか?と私の心に罪悪感が沸き起こった。「本当は施設に入りたくないんでしょう?」と問うと、「…仕方ないわ~」と力なく答える母に、もしかしてこの選択は間違っているんじゃないだろうか、母が施設を嫌がったらまた横浜で介護しよう!と思った私だが…、そして無事12月19日車で母を実家へ送り届け、ひとまずほっと安堵した。
 20日は、母が育った家の住所へ連れて行き、母の両親の墓参りをした。私が抱きかかえながら墓前で母は「あと2~3年は呼ばんで下さい」と声を出して祈ったが、4日で呼ばれてしまうとは…。「あなたの死因は窒息死だからね!」と私は予言までしていたのに。21日午前母の主治医の診察に付き添ったがとても混んでいて、私の午後診療に間に合うために出発すべき時間ギリギリになってしまったため、母にちゃんとした挨拶をしないまま急いで実家を発った。後ろ髪を引かれる思いで何度か引き返そうかと思ったが、診療時間に遅れることを恐れて車を前に進めてしまった。本当に悔いの残る別れとなった。その後の4日間は母がいなくなって人の体温が感じられない家に一人、ご飯を作る気になれず食べる気も起らず、夜中ちょっとした物音で起きてしまう癖がついてしまったようで眠れず、たまらず生まれて初めて母に「寂しいよ~、寂しいよ~」と年甲斐もなく毎日電話で露骨に甘えてしまった。私の電話で母は「和賀美が寂しがっているからまた横浜に行かないかん!」と行く気満々だったそうな、最後まで母だった。手が掛かってもやはり母がいてくれた方が良かったか、寝たきりになっても私がここで介護しようか、施設入所撤回しようか、と急に手持ち無沙汰になった私は思ったものである。24日クリスマスイブの夕方最後の電話でも同じことを言い、「ちゃんと食べるんだよ!年末また行くからね」と念を押した。それで翌朝パクっと食パンを口に入れてしまったのか…。
 24日の夜も全く眠くならず、時折下から聞こえる「ドン」「カタッ」「ピシッ」などの音に『母がいるのか?』と思われ玄関や母の部屋まで起きて確認しに行った。「誰もいない…」とまた布団に入るのだが、再び音を拾ってしまい、25日午前3時まで眠れなかった。ピンポ~ン!という音ではっと目が覚めた私は『何?ここはどこ?今私は何をすればいいの?』と母と同じ見当識障害状態にあった。午前8時15分!いけない!クリニック開けなきゃ!職員たちが出勤してきてしまった!と寝過ごしたことにようやく気が付き、慌てて起きて準備に取り掛かった。8時50分診察直前の化粧中、職員が「県立多治見病院の高木先生からお電話です。」と呼んだ。「???高木先生はもういないよ。母の最初の大好きだった昔の主治医だけど、突然転勤しちゃってショック受けた先生だよ。」と言うと、「間違いなく高木と言っています」とのこと、「亡霊か何かなあ?」と言いながら電話を替わると、間違いなく昔聞いた高木先生の声で「今年帰って来たんです。今朝救急外来に運ばれてきた患者さん、見覚えのあるお名前で…」「えっ、母が?詰まったんですか?」「はい」「何が?」「パンを詰まらせて…、心肺停止状態でしたが一旦蘇生しました。がもう時間の問題です。挿管して人工呼吸器に繋ぐことを希望されますか?」と。『そんな馬鹿な!あ~あの顔か~、駄目だ~、もうアウトだ~!』と1ヶ月前に見た母の死に顔が浮かび思ったが、「私が行くまで持たせて下さい!」と言っていた。これは夢か、夢の続きか、色の付いたやけにリアルな夢なのかも、と思った。そうあって欲しい、こんなことがあるはずない!あんなに必死に9ヶ月間母を介護してきてやっと多治見に帰せたのに、まだ4日でしょ!そんな馬鹿な!ありえない!と。しかし生前母は延命治療を希望していなかったので、挿管するのは私だけのわがままだ、と断念した。その後窒息の経過はどうなるか医者なので承知していた。年末一番の繁忙期で診察室に溢れかえっている患者さんを放置して実家へ飛ぶことはできない!もう間に合わない!母の死に目には会えない、と悟り、自分の診察を始めることにした。その後の診察がちゃんとできたか自信はない。午前10時再び高木先生から電話が入った。「今息を引き取られました」と、奇遇にも大好きな高木先生に看取られながら母は逝った。夕方までびっしり詰まっていた患者さんの予約を昼休み無しで押し上げ、早目の午後に診療を終了させ、娘と車を飛ばした。夕方実家に到着すると、母は綺麗な白い着物を着て布団に横たわっていた。母の顔は皴が伸びてつるんとした綺麗な顔になっていた。額をなでると、いつも抱き抱えていた母の温もりとは打って変わって、石かコンクリートのような冷たさだった。胸の奥から涙が溢れ出し、前日夜までいつもと変わらず電話で話していた母なのに…、もう動かない、もう喋らない、やはり私から離すべきではなかった…、「ごめんね、ごめんね」と詫びていた。父に吸引の仕方を教えておいたが、やはり素人には無理で、急変時真っ先に私に電話するように言っておいたのに、動顛した父は近所の母の親友に電話し、救急車の番号も分からくなっていたという。ちょうど私が飛び起きた8時15分頃呼吸が止まったようだ。
 その日は一晩母の隣で寝て、翌早朝多治見を出て、新幹線であざみ野へ戻り、年末最後のいっぱいの土曜日診療を昼過ぎに終えてとんぼ返りし、出棺・通夜を、翌日曜日葬儀を終え、深夜にまた28日最後の診療に向けて車で自宅に戻った。正月は一人になった父の元へまた新幹線で行ったので、年末年始2週間で計4往復したことになる。
 昨秋、「こんな病気になって、こんな体になってしまって、もう早く死にたい」と繰り返す母に、「じゃあ、一緒に無理心中しようか?」と当時芸能人の相次ぐ自殺から簡単に自殺しても良いような気がしていた私はそう言うと、「…やっぱり自殺は後がみっともないから嫌や」と答える母だった。12月12日夜私と叔母(母の妹)が電話中、叔母の背後で脳幹梗塞を発症して倒れ、翌朝急死した叔母の夫に「良い死に方だなあ」と言っていた母は、後を追うようにそれよりもっと短い2時間で亡くなったのだ。今日死ぬとは思っていなかっただろう。奇遇にも、前日長らく行けていなかった美容院へ行ってカットと髪染めをし、父に顔を剃ってもらった母,だから死に顔があんなに綺麗で化粧乗りも良かったのだ。不思議なことがいくつも重なっていた。

 実は私は、大学の心理学でも臨床の精神医学でもよく母性なる概念が出てくるが、よく解らなかった。実感がなかった、という方が正しいのか。父性というのは否が応でもよく解った。強烈な個性の父親の方が、私の人生には多く登場し影響が大きかった。母に可愛がられたとか、母に甘えたという記憶がない。母も私の事を「育てにくい子だった」と言ったことがある。22歳で陶器商を営む父と結婚し、強烈な個性集団である丹羽家の長男の嫁として姑小舅のいる家に入った母は、まもなく私を産んだ。私は2歳3ヶ月の時、突然昔の家の奥の和室に得体の知れない小さな動く生き物が寝かされていたので、「何だこれは?」と興味本位で手を出して頬をパチンと叩いたところ、横から「何すんの!!」と烈火の如き母の平手ではたかれた。生まれたての妹だった。その光景だけはっきり覚えている。後にそのことを母に聞いたところ、「昔は上の子が下の赤ん坊を殺してしまうことがあると聞いていたので、そうなってはいかん!とびっくりして止めた」という返事だった。それ以後私は2段ベッドの上で(下に)祖母と寝るようになり母と離された。妹は母べったりになった。元々父や父方親族に可愛がられていた私は、母に甘えることがなくなっていった。褒められることも干渉されることもあまりなかった。母は常に強烈な父のブレーキ役で、家業の景気が良い時も、同業者に税務署へ通報されないよう車好きな父が買った外車を隠すよう促したり、私が成績や競技で優秀な結果を出した時も喜んで自慢する父とは反対に冷静に感情を抑えているようだった。常に父の陰(後ろ)にいて冷静沈着に行動する丹羽家の要の役割を果たしていたような気がする。地味でこれといった趣味もなく、「外へ出て遊ぶとお金を使うし疲れる」と言って質素倹約まっしぐら、昼間は自営業を手伝う(座ったまま陶磁器の包装をする事が主)唯一の社員(昭和59年までは祖母も)として働き、ひたすら毎日家族のために三食作ることが母の仕事だった。姑の祖母とは仲が良く、父の出張中は留守を預かり女4人の粗食だった。繁忙期は家族(幼い私と妹も)総出で早朝から夜鍋をして働いた。私には「この人は何が楽しくて生きているんだろう?」と常々思われた。しかし晩年母に「人生で一番いい時はいつだった?」と聞くと「そりゃあ、あんた達が片付いて世界中あちこちお父さんと海外旅行していた時だねえ」と答えた。スペインやNZ旅行などか。
 思春期色々悩んでいた私だが、とにかく何も言わず干渉しない母だったことが有難かった。後に「どうして何も言わなかったの?」と聞くと「自分の子供を信じるしかないでしょう?」と母は答えた。
 母が私の人生に色濃く登場し始めたのは、私が結婚して子供を産んでからである。1992年秋一人でヨーロッパ旅行に行くと言い出した私に、危ないからついて行く!と言って、二人でフリーのヨーロッパ珍道中に出た。喧嘩しながら南フランス~スイス~北イタリアとトーマスクックの時刻表片手に電車やポストバスで自由に周った。ベネチアでは母だけ乗って待っていた電車がベルも鳴らずに急に発車し、売店にいた私は慌てて駅員さんに飛び乗らせてもらったが動顚して腰を抜かした母、スイスのブベイでは母のスーツケースだけホテルに届かず翌日になったこと、フィレンツェではイタリアファッション業界副会長に突然イタリア料理のディナーをご馳走になったこと等々、後になって母はすこぶる楽しかったと喜んだらしい。帰国後私は即妊娠、産後母は月1回遠路静岡まで子育ての手伝いに通ってきてくれた。またその後は静岡にマンションを買って父と二人で移り住み仕事と子育ての手伝いをし、私が人生で一番苦しかった時、横浜に居を構えることを告げると、「私は行くよ!」と母が率先して父を引っ張り同居を選択してくれた。しかし引っ越し当日あざみ野の新築の家を見るなり「60過ぎてこんなハイカラな家に住めって言われても落ち着かんわあ。。。」とブツブツ嘆いていたが。
考えてみたら、常に母は子孫のことを考えている人だった。子供・孫・曾孫・兄弟姉妹・甥姪と下の血縁の事ばかり思いやって生きていた人である。第1子長女として両親がやや早くに亡くなったため、年の離れた下の同胞の子供達には“おばあちゃん”の役割をしてきた。私は、エッセイ本の14章にも書いたように「女は女の子を産んだら、その娘が子供を産むまで生きなければならない」という宝石のような言葉を母から教わった。母は子孫の心配事が生じると、いつも親身になって心配し、父には内緒でお金の工面をしようとしていたようだ。だから母方の親戚は仲が良い。とにかく父とは正反対だった。また勘の鋭い人で(特に父に対して)、女の業の強い面があった。細かい事の記憶力もとびきり良かった。晩年それらが全部裏目に出てしまった。60歳代後半、それまで(昭和の主婦には当たり前の)父が「お茶」「灰皿」と言うとさっと差し出していた母が、食後父が「お茶!」と言った時、「…自分でやったら?」と言い放った。呆気に取られて母を見上げる父、びっくりして母を振り返る私、滑稽な図だったが、初めて母が、父の家政婦的な存在ではなく自立した女になろう!とした瞬間を見た。“女子会”なる町内の女性飲み会にも参加して楽しむようになった。これも時代の変化か。
平成21年3月母が72歳の時、私は娘と共にタヒチのボラボラ島の水上チャペルで両親のサプライズ金婚式を企画して祝福した。二人はとても驚きそして喜んでくれた。
 母は温泉が好きだったので、箱根の障害者専用温泉宿へ連れて行ったり、令和元年8月には青森の十和田湖(母が最後に一番行きたがった)・奥入瀬・酸ヶ湯温泉・八甲田山へ車椅子を使って飛行機とレンタカーで回る旅行をしたりした。ここ数年、特に最後の9ヶ月間はコロナ自粛もあり毎日べったりくっついて暮らしていた母と私~夏には海泳ぎの練習に葉山の海へ連れて行き猛暑の中松の木陰で眺めていた母、ウッドデッキができてから天気の良い日は三食二人で青空の下パティオで食べた~なので、最後実家に置いて離れ初めて『母がいないと寂しい』という母性を理解した。私の体の中で「おかあちゃ~ん!」という遠い昔の私の声が鳴り響いた。
 もっと優しく接するべきだった!筋トレで鍛えている私でも、最後の方は、全身思うように動かせなくなった母を、お風呂や夜中のトイレ・ベッドなどで抱き抱えることに消耗して嘆いてしまった。ごめんね、ごめんね!と後悔されて仕方がない。介護はどんなにやっても後悔が残る、といわれるがその通りである。しかしいつしか母の介護が私の生きがいになっていたようだ。令和3年に入り、母の介護に費やしていた時間とエネルギーがポカーンと空いてしまって行き場を失っている。これから何をしていこうか?突然消えてしまった母、私はいつになったら納得できるのだろう。お互い電話で慰め合っている叔母の「いや、寿命だったんだよ」という言葉で少し救われた気持ちになった。

*母のPSPという神経難病の死因は殆どが窒息だそうだ。母も最後の方は水でもむせていたが、自分の唾液を詰まらせて亡くなる人もいると聞く。また施設で亡くなる人が殆どで、自宅で亡くなる人は稀だとも。

 クリニックには、親や配偶者、子供を亡くして長らく気持ちが沈んでいる患者さん達が通っていらっしゃる。また介護すべき親を施設に入れてしまったという罪悪感にさいなまれ、このコロナ禍において面会できず苦しんでいる患者さんもいる。今までその方々の話を聞きできるだけ寄り添おうとしてきたが、果たして本当にできていたのだろうか。今まさに自分がその境遇にいて、『あぁ、こんな気持ちだったんだな、こういう風に苦しく辛かったんだな』ひしひしと鋭利な刃物で切り裂かれるように共感できる。自分を生んでくれた母親がこの世から消えてしまった、と宙に浮いているような心と身体。その母を介護限界と見切って終の棲家となるだろう施設に入所させようとした罪悪感で身が切られるような気持ち。心の医療では“患者さんの心に寄り添い共感する”ことが基本なのだが、共感したつもりの慰めや、言葉や表情だけでの同調では、とても患者さんの心には到達できないことを思い知らされた。
 人は親が亡くなると、次は自分が消える時が来ることを実感し始める。あと30年後くらいか?はたまた病気や事故でもっと早いかも?その時私の子供はどうするんだろう?それまでに何をしておくべきなんだろう?etc,一気に想像が駆け巡る。いやその時日本や世界、地球はどうなっているんだろう?…とまで。コロナで明日は予想できないことを学んだはずだ!しかし母~人が死ぬとはこんなにも呆気ない、その人一人が現世に存在しなくなっただけ、だがしかしそうやって人類は累々と何万年も続いてきており、また続いて行くのだ。母の棺の中に臍の緒を入れるよう言われたが、私は即座に断った。自分の臍の緒を母の棺に入れるのは、母への尊敬の意を示し、自分の棺に自分の臍の緒を入れるのは、母の元へ導かれるように!との想いからだというが、何よりも私はまだ母と繋がっていたいと思ったからだ。
 最近は、車のCDから流れるコブクロの『蕾』のメロディーや、米津玄師の『LEMON』の“戻らない幸せがあることを最後にあなたは教えてくれた”という歌詞が胸に突き刺さる。 まもなく四十九日を迎えるが、まだ母は私の夢枕に立ってくれていない。

2021.2.5.

2020令和2年とは…

 今年もあと一か月を残すのみとなりましたが、西暦2020年令和2年は、東京オリンピックも延期され、世界中がほぼCOVID-19で覆い尽くされてしまった感があります。
 6月に入り新型コロナウイルスの感染者数が減ってきて第一波が収束しつつあると判断したのか、当時官房長官だった現菅総理大臣の目玉政策というGo toトラベル事業が7月から開始されることになり、夏には感染者が減る(高温・多湿・多い日照量~現在東大のチームが紫外線の影響を研究中)と予想していたのに、致死率こそ下がったものの、感染者数は再び一気に増え始め第二波へ突入、ついにウイルスの増殖に好条件となる“寒さと乾燥”の冬が到来し第三波に入ってしまいました。この段になっても政府(菅総理)は経済を衰退させないためにと、Go to キャンペーン(トラベル・イート・イベント)を継続し続け、人間の命より経済を優先させる方針を変えず、強い危機感を持つ医療関係者は憤然としていました。ようやく11月22日政府は方針を転換しGo to トラベルを見直すと表明しましたが、「時既に遅し!」です。一旦私も胸を撫で下ろしましたが、政府の方針は混迷を極めており、その決断力の無さを露呈しています。政府は自らが始めた政策の責任を地方自治体に丸投げし、菅総理は「(Go to トラベルが感染者数を増加させた)エビデンスを出せ!」と宣(のたま)う始末!“エビデンス”とは「科学的根拠・証明」という意味ですが、今年7月に自分が思いついて開始したばかりのオリジナル政策と感染確率との関係をこの短期間でだれが研究しているというのでしょうか?苦し紛れの言い逃れとしか聞こえません。エビデンスに基づいた医学が医学の全てではありません。演繹法といって、次々に諸事象から推論していって一つの結論を導き出す手法も立派な科学的方法で、医学のほとんどがまず諸症状から病気を推定するというこの手法を取っており、検査はその確認作業にすぎません。国内の新規感染者数の推移グラフから、Go to トラベルを開始した7月下旬感染者数は急増して第二波へ突入し、除外していた東京を追加した10月以降再び感染者が増え始め第三波に繋がっていることは一目瞭然です。政府は経済と感染対策の両立を声高に叫んでいますが、人の命があってこその経済であり、前章で「戦争時と同じだ!」と言った父のことを書きましたが、戦時中まず皆生き延びるためだけに必死だった時、「経済!経済!」と言っていた人はいるのでしょうか。なのに7月まだ感染者が減少し切っていない段階で、「安いよ!お得だよ!」と美味しそうな餌をぶら下げて国民の欲望を煽るGo to キャンペーンを政府が始めてしまったことで、「ああ、もういいんだ」と国民の新型コロナウイルスへの恐怖心や自粛の緊張感は緩み、特に若者達の新型コロナウイルス軽視傾向を生んだように思われます。安いから!と一ヶ月に4回以上各地へ旅行に出かけたオンライン授業中の大学生もいます。まずは一旦感染を減少傾向に抑え込まなければ、経済再生も成り立たないではないか!政治家とは、命・医療から本当に距離のある人達なんだなあ、と実感させられました。
 またその間、7月に今が旬の俳優H.Mさん、9月には好感度女優Y.T.さんetc.が突然自殺するというショッキングなニュースが続きました。私も好感を持っていた方達なので、〈どうして?〉と職業柄考え込んでしまいました。繊細な感情表現が本業であり、虚像と自分の実像との狭間で揺れ動く俳優・アーチストの心理に、このコロナ禍がどう影響したのかor関係ないのか、詳細は全く不明ですが、またそれに続く“ウェルテル効果”(マスメディアによる有名人の自殺報道に影響されて自殺者が増える現象)なのか、今年自殺者(特に若者)が激増していることも看過できません。自殺はある程度エネルギーがなければできないもので、単に<うつ病>だけでは済まされず、もし一瞬の心の隙間と勢いでしてしまったのだったら、今頃彼らは後悔しているのではないでしょうか?
 この新型コロナウイルスなるものは、ダーウィンの進化論“強い者だけが生き残り、弱い者は淘汰される”(自然淘汰)の通り、地球上に増殖してのさばり過ぎた人間=ホモサピエンスを、身体的に(ウイルスに)弱い者、及び精神的に(それに関連した自殺など)弱い者を、篩(ふるい)にかけて減らそうとしているような気がしてきました。だから身体的にも精神的にも強くないと生き残れないんだ!と心しなければいけないでしょう。苦しいけれど、戦争・バブル崩壊・リーマンショック・地震水害などを乗り越えてきたように、今少し皆で踏ん張りましょう!
image001 私は、Go to トラベル政策に抗議するべく、7月に予定していた恒例の西表島へのダイビングは一早くキャンセルし、築21年目に入った我が家の庭のウッドデッキが娘の一踏みで崩壊したため、オリンピック休みにしていた猛暑の夏休みをウッドデッキと庭の改修工事に充てて過ごしました。80歳現役の基礎工事の職人さんが暑さにバテ気味だったので、私が代わって砂利運びに精を出し自宅筋トレに励みました。おかげで私は、どこも遊びに行っていないのに背中や肩がこんがり日焼けして、秋まで皆に「どこ行ってきたの?」と言われました。出来上がった塀と床が一体化したブラジルのイペ材でできた堅~い良い木の香りがするウッドデッキと私お手製の庭は、隣家の壁に挟まれた13畳程のパティオ(中庭)のような居心地の良いパーソナル空間となりました。天気の良い日は三食パラソルを開いて外テーブルで食べ、毎朝若草色のソファー付き籐のローチェアーで庭の木々を見上げながらコーヒーを飲み、ヨガマットを敷いて朝ヨガをし、夜は星と月を眺めながらワインを傾けることが日課となりました。オンライン学会も三日間そこで聞いて過ごしました。どこにも(海外・国内旅行、買い物や外食にも)行かなくても、家の中で一番のお気に入り空間となったパティオで、太陽の下(もと)外気をいっぱい吸って一日の多くの時間を過ごしながら、“ステイホーム生活”を満喫しております。
 このコロナ禍により、クリニックの患者さん達にも今までとは違う変化が起こってきました。前章に書いた“コロナ不安”、“在宅ワーク不適応症候群”、パニック障害の減少や不潔恐怖の軽快に加えて、オンライン授業により登校できず友達に会えない閉塞感や大量の課題に苦しむ学生、終日家族が在宅するため家事に追われ不満爆発する主婦、高齢者施設に預けた親に面会できないで苦悩する人、休校期間に自宅で自主勉強する内に学校で授業を受ける必要がないと気付いてしまった休校空け不登校の成績上位学生、オンライン会議や授業でZoomから皆に見られている!緊張してしまう会社員や学生など、心の病像は今年急速に変化している印象です。
 春手作りマスクを量産し、夏前にはクリニック入口に網戸を設置、対面時のアクリル製衝立も手作りした後、秋からは空気清浄機・加湿器を入れ、抗菌スリッパに新調したり受付窓口を塗替え修繕したり、と新型コロナウイルス感染症対策に奔走、神経難病と認知症の進む母の介護の合間を縫って日課の水泳・筋トレ・ヨガに通っているうちに、あっという間に年末を迎えることになっていました。
 11月21~23日の3連休、患者さん達の話から京都や箱根などの観光地はとんでもない数の人が出ることが予想できていました。我が家は娘の結婚一周年のお礼参りに神社にだけ行きましたが、やはりそこも七五三の家族連れで賑わっており、行き帰りの高速道路は終日大渋滞していました。京都の嵐山は地元民が出歩けないほど日本人の(例年の外国人はいなくなった)観光客でごった返し、京都駅は大混雑で恐ろしい光景だったとの事です。これではまた1~2週間後新型コロナウイルスの感染者数が爆発的に増加することでしょう。さらに、この冬12月~2月にかけて高齢者の感染死亡者数が激増することが大変懸念されます。
 果たしてこの年末正月は無事迎えられるのでしょうか?         
(2020.11.25.)

 令和2年の幕開け後間もなく、患者さんの診察を通して{今年は、咳が目立つ気管支系のどこかいつもと違う変な風邪が流行りつつあるなあ…?}と感じていたところ、1月末中国の武漢市から得体の知れない恐ろしい(感染力が強く死者数の多い)ウイルスの爆発的感染の報が入り、あっという間に世界中に広がって、人類は地球規模で未曽有の健康危機的状況に陥りました。従来のコロナウイルスの一部が変異した新型コロナウイルスで、COVID-19 と名付けられましたが、正体不明・未知のウイルスなので、有効な薬や対策もなく、誰にも今後の予想がつきません。世界中の旅行者で潤っていた日本にも、ダイヤモンド・プリンセス号の感染から徐々に市中感染が広がり、3月11日WHOがパンデミック宣言を出して以降、日本から外国人が消えました。全ての学校が休校となり、会社も時差出勤や在宅テレワークが増え、4月7日緊急事態宣言と共に外出自粛・3密を避ける生活様式を奨励され、以降国内の経済社会活動は全国的にほぼ停止状態となりました。人と人の間も距離を取るようsocial distance指示され、家から出ないようstay home 家族でずっと蟄居生活を強いられました。街はゴースト化し、社会全体がフリーズしたのです。20200601-3
 常々私は「明日何が起こるか分からない。今日がずっと続かいないことだけは確かだ。明日以降は予測不能に変わる、そう思って生きなければいけない!」と言ってきましたが、多くの方が「この日本で今時何馬鹿な事言ってんの!?」と唖然とされたと思います。が今回は、小池百合子東京都知事の発言にもあったように「毎日ド級の変化があって、明日何が起こるかどう変化するか分からない世の中になってしまった」ため、「先生の言うことがようやく分かりました。こういうことだったんですね」と多くの患者さんに言われました。そうなんです!明日自分が感染するかも知れない、明日家族や友達が死ぬかも知れない、と今より先は大きな壁が立ちはだかって予測不可能な世の中になったのです。現代人、特に日本人は第2次世界大戦後、徐々に復興を遂げ高度経済成長後バブル期も過ごし、幸いにも危機的状況なく75年過ごしてきました。国民の生活に余裕ができ、幸せを求め欲を満たすためにどんどん享楽的になってきた感があります。 
 COVID-19感染者及びその死者数がどんどん増え、家から出られない生活が続いていたある日、86歳の父が「今のこの状況は、あの太平洋戦争で焼け野原になった東京の風景と全く同じだ!」と言い放ちました。「でもまだ今の方がましだ、食べ物も家もあるじゃないか。人間100年位生きていたら一度位はこういう事態には遭遇するものだ。日本は戦後平和ボケし過ぎてきた。」と。
 25年ほど前、静岡の日本平という地に家を建てようかと思って、父を連れて土地を見に行ったところ、茶畑の中に立って四方を見回した父は「う~ん、ここなら飢え死にしない!ここにしろ!」と唐突に言いました。私はその前時代的な発言に唖然として「飢え死に?今時何言ってんの?」と嘲笑交じりに言うと、「ここなら陸からも海からも空からも物や食料が入って来るから、危機的状況になっても生き延びられる!」と真顔で父は進言するのでした。その後2009年新型インフルエンザが登場した時、その時父を馬鹿にした自分を恥ずかしく思いました。大学で学んだ細菌学の知識から、一時期大流行して世界を震撼させたエイズや新型インフルエンザなどのウイルスが、もしかしたら人間ホモ・サピエンスを滅ぼすのではないか?との恐れを一瞬抱いたからです。やはり戦争を体験した人は凄い!
 ≪恐竜⇒ネアンデルタール人⇒ホモ・サピエンス⇒?≫ と次に来るのは…?
 地球は、巨大で強いものが、より小さくて弱いものに負けて支配者が変わるという歴史を繰り返しています。何故小さく弱いものが大きくて強いものに勝つのか?それは数で圧倒して勝つのです。従って次に人間に勝つものは、より小さいながら圧倒的に数が多いもの、それは細菌やウイルスかも?と思った医者は私だけではないでしょう。ちょうど私は今年に入り、『サピエンス全史』で世界的ベストセラー作家になった今を時めく知の巨匠イスラエル人歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の第2弾『ホモ・デウス』を読んでいました。ハラリ氏は、その中で「人類は歴史上太古の昔から、飢饉・疫病・戦争という3つの問題との戦いを繰り返してきたが、ここ数十年首尾よく抑え込んできて、対処可能な課題に変わった。」と論じています。が、そうはどっこい!まだ新型コロナがいた!ということです。私も昨年発刊したエッセイ集「徒然花」の最終章で、「今後はAIとの戦いか」と書きましたが、新型インフルエンザやエイズを克服した人類は、もう未知のウイルスに恐れおののく必要はなくなったのかも?と少々ウイルスを見くびっていました。
 中国の武漢市から~ウイルス研究所からなのかコウモリや蛇が運んできたのか分かりませんが~このような感染力の強い、人と人の間(人間(ジンカン))という絶妙な空間を狙って増殖する(ずる)賢く恐ろしいウイルスが突如地球上に現れたのは、~人間とウイルスは、人間が古代から進化してきたように、ウイルスも人間が制圧するとさらに微小変異を起こして進化するという“イタチゴッコ”を繰り返してきています~人間が自分たちの社会経済発展のために利己的に地球上の自然破壊を繰り返してきた功罪なのではないかと思えてなりません。つまり地球を傷つけるような過度なエネルギー資源の開発や環境汚染により、地球温暖化や異常気象(地震・津波・大風等の頻発)といった自然現象の激変が起こり、更には地球の生態学的平衡に揺るぎが生じて、最小の微生物であるウイルスにホモ・サピエンスの想像を遥かに超えた稀有な変異が起こったのではないかと。
 今や人間同士殺し合いや経済戦争をしている場合ではなく、各国さらには日本なら各県単位で封鎖的に対処することで精一杯な状況です。世界中の英知を出し合って必死にワクチンや治療薬の開発が行われていますが、まだ有効なものが出てきていません。全世界全人類を震撼させfreezeさせたCOVID-19は、人類の世界を一気に変えました。人々から享楽的な楽しみを奪い、人-物-金の流れを止め、企業・経済をも崩壊させつつあります。私は今年、虫の知らせか{もう暫く旅行はいいや}と海外旅行の計画は全くしていなかったので支障ありませんが、5月末に予定していた娘の結婚披露宴が吹っ飛びました。しかし、あの何を以ってしても解消不能だった殺人的な朝夕の満員電車問題を奇跡のように一気に解決し、家にいないことが当たり前の父親かつ家事育児より仕事の方を優先させて社会に出ていくようになった母親を家庭に連れ戻しました。一日中家族揃って家で3食を摂りながら過ごし、公園は家族連れで賑わい、家族で庭いじりや散歩をする等、古き良き時代の家族の光景を蘇らせました。これもまた新型コロナウイルスの凄い力です!20200601-2
 感染が拡大し始めた当初は、クリニックには明日以降が分からない“コロナ不安”を訴えて来院する患者さんが多く見受けられましたが、5月に入り、その方達も「もう諦めました」「もう慣れました」と落ち着いてきました。一方、いじめや不登校で悩んでいた子供や仕事内容や人間関係が原因で出社拒否症になっていた人達は、3月以降休校や在宅ワークになって学校や会社に行かなくてもよくなると、ニコニコ顔になりすっかり治ってしまいました。また満員電車や人混みで不安発作を起こすパニック障害も、テレワーク・在宅勤務やソーシャルディスタンスの奨励で電車や街の混雑が一掃され、ほとんどなくなりました。
また、手洗い習慣の奨励やステイホーム・外出自粛により、不潔恐怖・手洗強迫の患者さんや引きこもり状態だった人は「世の中の人が皆自分レベルに降りてきたので、自分が目立たなくなった」と気が楽になり軽快しました。
 しかし5月連休明け頃から、「周りに家族がいると、公私の切り替えができず仕事に集中できない」「家での一人での仕事だと、分からないことをすぐ人に聞けなくて仕事が進まない」「ちょっとした雑談もできず息抜きができない」と言い、仕事の能率が落ちて自己評価が下がり、どんどん気分が落ち込んでいく“在宅ワーク不適応”といえるような患者さんが増えてきました。
 新型コロナウイルスは、人と人の間の空気に巧妙に巣喰い、ソーシャルディスタンスを取らせることにより、人と人の間のやり取りが好きで得意な人(対人距離が近い人)にはこの事態は悪×、人と人の間の空気が嫌いで苦手な人(対人距離が遠い人)にはこの事態は良〇、という現象を起こしました。
 私の仕事は、この人と人の間の空気(顔色、表情、声のトーンetc.)を大事な診察道具として心を診る医療なので、この空気を排除したオンライン診療・電話診療なるものは絶対できないと考えています。政府やマスコミはオンライン診療をさも素敵な進歩的なスタイルのように言いますが、他科の医者からも反対意見が多く出てします。内科医なら「おなかを触らなきゃ、肺や心臓の音を聞かなきゃ分からないよ!」耳鼻科医なら「私たちは喉や耳の中を診なきゃ診断できないのよ!」と。医は生きている人を医者たる人が診るもので、その間の空気のやり取りが重要で必須なのです。教育現場でもそうですが、休校が続いてオンライン授業がもてはやされていますが、中には画面に集中できずさぼっている子や、教師の側もちゃんと伝わっているか手応えがなく不安になると言っている現状があります。COVID-19とは、この人と人の間(人間(ジンカン))を狙って巣食う狡猾で手強いウイルスだと言えるでしょう。
 しかし私論ですが、バーやナイトクラブ・ライブハウスなど密閉された夜の淀んだ空気の中で感染が多く出ていることから、どうもこれは夜の闇で暗躍するウイルスで、太陽光が降り注ぎ自然の風が吹く(空気のきれいな)所では力発揮しない(もしくはいない)ウイルスなのではないか?と思っています。マリンスポーツやゴルフ・テニス・野球・サッカーといった日中(にっちゅう)のアウトドアスポーツは問題ないのではないでしょうか。我がクリニックは、東南西3方の窓から日中ずっと太陽光が燦燦と入る待合室なので、入り口ドアと待合室の窓、時には診察室のドアまで開け放して、換気と採光に努めています。密にならないよう予約人数を疎に制限しているため、患者さんには「気持ちがいいねえ」と言われることがあり、医療だから、と閉鎖的にし過ぎることは良くないのかも、と思わされます。
 ほぼ毎日泳ぎ、筋トレやヨガ等で体を動かしていた私は、プールやジムが長期に渡って閉鎖されたため、やることがなくなり、20年以上使っていなかったミシンを引っ張り出して古い水着やラッシュガードを切って数十枚マスクを作っていました。20200601-1当初は2週間泳げないだけで禁断症状が出そうで、COVID-19ならぬ他の病気になりそうでしたが、筋肉・筋力と柔軟性が落ちてきたため、止む無く遂に生まれつき股関節が悪いため敬遠していたランニングを始めました。最初はあざみ野駅からの坂を駆け上がるのに、足が上がらず息も絶え絶えでしたが、2回目以降はそれほど苦しくなくなり、~45分間、~1時間と徐々に距離を伸ばして青葉区内を走りながら、こんな家が建っていたんだ、これはあの患者さん宅だ!こんなに色んな薔薇が咲いているんだ、と驚き感動しながらアップダウンのあるコースを走っている内に、いつの間にかランを楽しんでいました。先週潮見台の方まで走って行って、途中公園の遊具で懸垂し、美しヶ丘西の住宅街でぐるぐる迷子になり、初めて保木の山の上の農園内を探検まがいに驚嘆しながら走り続けて帰ってきたら、2時間以上経っていました。心肺機能は水泳の練習がハードなため全く問題ないのですが、お尻と膝・股関節が地球との戦い(重力)でこたえ、その後数日間使い物になりません。でもやはり水に入っていないと体が変になりそうで、海に行ってしまいましたが、寒くて波が高過ぎて入れませんでした。プールは次亜塩素酸や塩素消毒しているので大丈夫なはずですが…。しかしながらこのウイルスは、私の病的ともいえる強迫的な水泳習慣(休泳日を取らない)を見事に止めました!
 5月25日日本全国で緊急事態宣言が解除されました。今回の事態で頑張ってる!頼れる!と思えるのは、日本政府ではなく各都道府県知事さんですよね。それはちょうど明治維新の時、徳川幕府ではなく各藩の藩主や志士達が新しい時代に向かって活躍したように。福井県の杉本達治知事は私の高校の後輩で、この度何度かメールで意見交換しましたが、全国に先駆けて県独自の緊急事態宣言をしたり県内にマスク券を配布したりと、先取的発想で迅速に行動したことに思わず拍手しエールを送りました。
 COVID-19が明けた後、以前とは違う価値観の世の中になることが予想されています。疫病には、古い支配者に代わって新たな権威が台頭するという社会のシステムを変える力があります。14世紀の黒死病ペストの時、それまでの支配層だった宗教的権威が失墜し、警察や医者が力を持つようになっていったように。グローバリゼーションが急速に進んだ世界ですが、それ故起こったともいえる新型コロナ危機により、地球上の人-物-金の流れが止まり、“鎖国”のように各国々・各県独自に内向きに懸命にウイルス対策に当たっている今、揺り戻しとして“脱グローバリゼーション”が起きているように見えます。今後どんな新しい国際関係や生活スタイルがどう定着していくのか、簡単には地球上から絶滅しないだろうウイルスとどう共存しながら、人と人との間の見えない空気感~そこでは心のやり取り・共感が在る~を維持しつつホモ・サピエンスを生き永らえさせていくのか、大きな課題です。第2波、第3波及び新たなるウイルスの変異に備えつつ。
 COVID-19新型コロナウイルス感染症によって亡くなられた世界中の方々のご冥福を心よりお祈りします。

 今年5月1日から令和時代が始まり、早元年も終わろうとしています。8ヶ月間の令和元年でしたが、振り返ってみると、事件・災害・スポーツなど様々なことがぎっしり詰まっていたように思われます。
 交通に関しては、あおり運転が問題となった事件や高齢者の運転ミスによる事故が多発しました。
 記憶に残る凶悪事件としては、①5月28日朝我が家からもほど近い川崎市登戸で起こったカリタス小学校児童保護者殺傷事件や、②7月8日京都アニメーション放火殺人事件、③6月1日元農水事務次官による44歳引きこもり長男刺殺事件がありました。①の犯人は、不遇な生い立ちの51歳男性で直後に自殺した通り魔的犯行、②の犯人は、41歳男性で自分が投稿した作品を盗作されたとの恨みからの計画的犯行、③の殺された長男は44歳引きこもりで家庭内暴力が絶えなかった、と報道されています。共に何らかの精神的な問題を抱えていそうですが、まだ裁判で事件や犯人の詳細は明らかにされていないため、言及は控えます。
 平成10年頃少年事件が頻発した際、テレビのニュース番組で、各界の識者と称する大人達が自分の専門分野にかこつけて、見てもいない犯人像について口々に分析し勝手な意見を言い合っている姿に、私の若い患者さんが刺激され「こんな手口くらい自分も考えていた。先に自分が同じことをやっていたら、今頃自分がヒーローになっていたのに!」と言ったことに危機感を感じ、即日テレビ局に「このような企画は少年心理を更に煽って危険だからするべきではない。」と書いてFAXしたところ、今は亡き筑紫哲也キャスターがすぐに同日夜の放送で私のFAXを読み上げ、「…という意見がありましたので、今日の座談会は急遽中止します。」と反応してくれました。驚きと同時にほっと胸をなで降ろし、筑紫さんに感謝しました。今年も各事件の直後に精神科医がテレビ出演して犯人像を分析するという番組があったので、一瞬危惧しましたが、評判が今一良くなかったのか、1回で終わったので意見するに及びませんでした。
 自然災害による被害もさらに頻発し激しさが増しました。8月26~28日の九州豪雨、9月5~9日の台風15号による千葉県の甚大な被害、その爪痕が残る中再び上陸した10月11~12日の台風19号による更なる被害、近くでは多摩川が氾濫し死者も出ました。これらはもう既に10年以上前から訴えていますが、“人類”の発展を追求しすぎた功罪としての“地球温暖化”すなわち“(生きている)地球からの逆襲”であろうと私は考えています。最近スウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥンベリさんが訴えている通りで、彼女に賛同し応援したい気持でいっぱいですが、しかしどうやってそれを是正すれば良いか、ここまで進んだ人類の発展を逆戻りさせられるのか、考えあぐねています。
 そして最大の歓喜は、9月から始まり一か月以上に渡って日本中を熱狂させたラグビーW杯でしょう。初の日本開催で快進撃を続けた日本チームのベスト8入り!“ONE TEAM” が流行語大賞に選ばれたことは当然の感があります。
 医学生時代、軟式庭球部に所属してテニスに打ち込む傍ら、オフ時にはサッカー部のマネージャーをしていましたが、実はラグビー部にも少し関わりを持っていました。部活対抗運動会の騎馬戦で、ラグビー部の騎手(女性限定)がいなくて頼まれ務めたことがきっかけでしたが、週の初めの月曜日、ラグビー部の男性クラスメート数人は、前日日曜日に試合があると満身創痍、手足のみならず頭や顔に包帯を巻き、時に鼻の骨が折れたとか、肋骨が折れたとか、眼の周りが赤黒く腫れて誰だか判らない顔をして授業に出てくることが多々ありました。ラグビーって危険で怖いスポーツなんだ!なんでそんな危ないスポーツを好んでするんだろう?医者になろうとしている若者達が? と不思議に思っていました。しかしラグビー部員は本当に気のいい奴らでした。五郎丸歩選手が早稲田大学時代活躍していたことには多少関心がありましたが、しかし年月が立ち、すっかりラグビーのルールを忘れてしまっていたことに今回気付いた私は、もう一度思い出そうと見始めたW杯でした。娘が日本スポーツ界の仕事をして、その婿さんが現役ラガーマンであるため、ラグビーW杯については早くから知っていましたが、二人のように発売当初から準決勝2戦決勝のチケットを購入するまではなく、ここまで盛り上がるとは思っていませんでした。4年前のW杯で南アフリカに勝ったのは番狂わせの奇跡だと思っていましたから。まさか予選で強豪アイルランドに勝つとは!もしかして本物かな?と、そこからラグビーW杯に釘付けとなりました。そしてスコットランドに勝って8強入り!オフロードパスを流れるように繋いだ稲垣選手のトライや、福岡選手の身体能力を生かした独走トライ、そしてそこにまで行く過程でのフォワードのスクラムやセンターのタックルは、本当に素晴らしくティア1入りだ!と思ったほどです。残念ながら研究されつくした南アフリカに4年前のリベンジをされ、準決勝には進めませんでしたが、その国歌斉唱の時流選手が涙を流した気持ちが私には痛いほどよくわかります。2002日韓サッカーW杯決勝の試合前セレモニーで、自然に涙が流れてきた時の私の気持ちと一緒だったと思います。
 今回なぜ日本中がラグビーに熱中し、“にわか”ファンと言って恥じない人が急増するほど惹きつけられたのでしょうか?しかし見ている内にその答えがわかってきました。
 はじめは「これは“相撲鬼ごっこ”だ」と言って見ていたのですが、どんなに屈強な敵の男達が大勢立ちはだかっても、どんなに潰されても、愚直に前へ前へと突進しようとし続ける姿に、私は経験したことはないけれど男性達が駆り出さて母国のために人間同士戦い合った“戦争”を思い起こして重ねるように見ていました。私が生まれるほんの14年前まで日本も巻き込まれ焼け野原になった第2次世界大戦、日本軍の兵隊さん達は、このように命を顧みず愚直に突進して前戦突破し敵を倒そうとしていたのか、その中で命を落として散っていった数多くの兵隊さん達、母国のために、女子供を守るために。そう想像してしまい、胸の奥深くから涙が込み上げてきました。鉄砲や刀をラグビーボールに変えて戦車のごとくぶつかりながら敵陣深く突っ込み、サイドから抜けてトライを奪うバックスの選手達はゼロ戦特攻隊のように見えてきました。「男の人って凄い!本当に凄い!女はとてもかなわない!」と素直に男性に尊敬の念を抱き称え、戦争で散っていった兵隊さん達に頭を下げる想いでいっぱいになりました。女子ラグビー(日本でそれを創設した人は、実は私の大学時代の軟式テニス仲間だった女性なのですが)もありますが、相撲と同様ラグビーはやはり男性のスポーツだと私は思います。戦争の無かった昭和の後半43年間と平成時代を通り過ぎて、令和時代に入った今、戦争なんて日本人には考えられないでしょうが、世界各地ではまだ戦争が絶えないのです。
※そんな折12月4日アフガニスタンで長年支援活動に携わってきた日本人医師中村哲さんが銃撃され亡くなりました。
 「ONE TEAM」をスローガンにW杯を戦った日本チーム35人には、日本以外の5ヶ国16人の外国出身者が入っています。以前にも書いたようにスポーツにおけるグローバリゼーションが着々と進んでいるのです。これからは地球人ですね!日本国出身とか、ニュージーランド出身とか、まだ分からない宇宙に対する呼称として。
 そしてラグビーはチームメ―トをお互い信頼し尊敬し合っているといいます。個人の能力や体格に適したポジションで各々違う役割を持って、互いを信頼して活かし合う連係プレイが信条のラグビー、その精神が素晴らしい!そういえば大学時代のラグビー部の面々は、武骨で100㎏以上の巨体だったり外見に全く無頓着だったりしましたが、皆先輩後輩の区別なくいつも笑って冗談を飛ばし、喧嘩とか悪口とか聞いた覚えがないなあ、と思い出しました。サッカーのようにチャラチャラしたところがなく。人格も素晴らしかったことに学生時代は気付かず、若気の至りでした。このラグビーW杯を通じて、つくづく「男性は顔じゃない!ハートだ!」と痛感した次第です。
 そういったラグビーの悲痛なまでの愚直な戦う姿勢、男っぽさ、信頼と尊敬に根差した人種や民族を超えたチームワーク、などに皆心の奥底から感動し虜になっていったんだと思います。
 そして年の瀬も迫った12月17日競泳の池江璃花子選手が退院したという嬉しいニュースが飛び込んできました。前々章で池江選手のプラス思考について書きましたが、辛くめげそうになる時にも「大丈夫、大丈夫、いつか終わる」と自分を励まし続けた、とメッセージに書いてあったように、本当に気持ちの持ち方で人間は大きく左右されると実証されたと思います。
 スポーツから学ぶことは数限りなくあります。来年の東京オリンピック大いに期待しましょう!

Image-1 しかし私にとっては、今年11月23日一人娘が結婚したことが一番の事件でした。今まで患者さんには、「空の巣症候群ですね」と安易に診断を告げていましたが、「これだったのか!」と、母であり、父であり、姉であり、時には娘のようになっていた私と娘との26年間に渡る生活が突然ストップして心にぽっかり穴が開き、頼っていた支えがなくなって羽をむしり取られた鳥の気分で年末を迎えようとしています。喜ばしいことなのに…、“花嫁の父”の気持ちがよくわかりました。

PS. )今年10月、ここに書き続けてきたこのエッセイを、14年前に発刊した前作と合わせて17年分の『新版 徒然花』(イースト・プレス社)として出版しました。
不定期になると思いますが、引き続きここにエッセイを連載していくつもりです。出版した分は順次抹消されていく可能性がありますが、ご了承ください。
(2019.12.22)

 4月1日、5月からの新元号が「令和(れいわ)」と発表されました。それは私が中高生時代大好きだった「万葉集」巻五の序文にある歌から引用されたもので、「苦難を乗り越えてきた人々が今後も心を寄せ合って本当に美しい平和な日本を花咲かせよう」という理念を表わしているそうです。実は私は「永和(えいわ)」と予測していたので近しく、音の響きが綺麗で、初めての「令」という字に、私の名前の一部であり我がクリニックの「和」という字が入っていて、とても嬉しく清らかな気持ちになりました。

 前編で「平成最後のニュース」と銘打っておきながら、3月21日夜晩餐を終え、米メジャーリーグの開幕戦でイチローの日本凱旋試合を見ていたら、まもなく「イチローの引退試合か?」という突然のビッグニュースが流れました。「えっ!今日?」と、サッカーのカズ(三浦知良)と共にずっと引退しないような印象のあったイチローに遂にその日が訪れたのか?と驚きかつやや感傷的になりつつ、「まだ平成のビッグニュースがまだあったのか…」と焦りました。そして私はイチローの現役最後の打席とその後の深夜の会見を最後まで正座して見届けました。2年前に亡くなった叔父は、プロ野球のスカウトを断った後にトヨタに入社して実業団野球を続け、最後は地域の少年野球の監督をしていましたが、イチローの実家がある愛知県豊山町と叔父の住んでいた小牧市岩倉町は国道41号線を挟んで隣どうしで、その叔父の息子も野球に打ち込み愛工大名電高校を目指していました。叔父は親交のあった元中日ドラゴンズの高木守道監督と「近くに良い選手がいる。」と話した、と言っていましたが、それが「鈴木一朗選手」だったと私が知ったのは、「イチロー」となってからでした。今でこそシアトルのイチロー、神戸のイチローの印象が強いようですが、若い頃の風貌が少し叔父と似ていることもあり、私にとってはずっと身近な名古屋のイチローなのです。

 イチローの引退会見は、精神医学的にもとても興味深く示唆に富んだ内容で、深夜の約1時間半私は釘付けでした。その中でイチローが言っていた「自分の限界を見ながらちょっと超えていくということを繰り返す、そうするといつの日からかこんな自分になっているんだ、という状態になって…だから少しずつの積み重ねでしか自分を超えて行けないと思うんです。」という言葉は、私が常々心掛けている「自分の能力の限界との厳しい戦い・鬩(せめ)ぎ合いを続け乗り越えることで少しずつ自分の限界を押し上げる、それを繰り返しながら人間は少しずつ成長していくしかない。」ということと同じ意味で、私は人生ずっとその自分の限界との戦いでここまで生きてきたつもりだったので、驚きました。それは運動でも勉強でも仕事でも人格磨きにおいても全部同じことがいえると考えています。イチローの毎日同じルーティーンを続ける強迫性も、私は同じ様で、「孤高の天才」といわれるイチロー程ではもちろんないですが、医学生時代に「孤高の人」と呼ばれていたとつい最近聞いて驚いた私は、少し似たところがあるのかな?と思ってしまいました。イチローは野球選手という職人であり、引退してもまだ野球職に携わるため、まだ道半ばにあるとして国民栄誉賞や愛知県民栄誉賞を辞退する、という考えは至極当然だと思えます。イチローのように大業を成した人間は、今でこそ賞賛され崇(あが)められるものの、“変わっている”と言われる人間は、どこか人とは違う生きにくさを感じているでしょう。

 まもなく平成時代が終わるにあたって、「平成」とはどんな時代だったのか、ということがよく議論されています。まず戦争がない平和な時代だったことはとても喜ばしい事ですが、戦争と高度経済成長という激動の昭和時代と違って、平和が続き皆に平等意識が強くなり、その反面、普通でいなければならない、皆と一緒でなければ弾き出される恐怖、変わっていると偏見の目で見られる不安などが出てきました。その内せめて服装や髪形などで自主性をアピールしたいと思う若者が増え、特に男性のファッションが変化に富み奇抜になったと言われています。

 日本は江戸時代末期まで鎖国していたため、各藩の大名が“国”と“国”で戦い合い、明治時代はそれまで“国”であった各藩を一つにまとめて“日本国”となり、世界の諸外国に対抗する力をつけようと躍起になりました。大正から昭和にかけての時代は世界の諸外国・異人種と戦い、昭和時代はその戦争に敗れたどん底から経済力で世界の列強と戦って経済大国となりました。平成時代はバブル崩壊によりその経済力は一歩後退し、代わりに幾度か地震・津波・台風などの自然災害に見舞われ、人間が利用してきた地球の一成分である原子力に脅かされる事態となりました。“異常気象”という表現は人間側から見た言い方であって、地球の上から俯瞰(ふかん)してみると、地球が人類に逆襲しようとしているような印象を私は持ちます。さて、では令和時代はどうなるでしょうか? 私は、コンピューターや人工知能AIといった我々人間が作り出したものとの戦いになるのではないか、と危惧しています。

 歴史は時の流れと共に(目に見えない空気感が)少しずつ予測不能に変化していくものです。人と人の間には、見えないながら実は色々な物質があって、それらの移動と共に、感情や精神spiritが動かされていきます。精神医療では、その見えない空気感mentalを扱うことが主な作業ですが、人と人工物AIとの間にはそれがなく響き合わないため脅威を感じるのです。イチローの会見場の空気には、イチローのオーラとかイチローの発する言葉や間の取り方から、それらが大いに動いていたため多くの人が惹きつけられたと感じました。私は、イチローを「平成を代表する人物」の第一位に挙げたいと思います。

 期せずして私も、この3月末で水泳に打ち込むことを少し減らし、もっと違うスポーツや趣味をすることにしました。もっと体の色々な部分をまんべんなく動かして色々なスポーツをゆっくり楽しみたい、もっといろいろな芸術に触れて人生を豊かにしたい、もっと多くの角度から世の中・地球全体を見てみたい、と。

 果たして「令和」時代はどのような時代になるのでしょうか?
2019.4.9

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 2019年2月、タヒチでイルカとダイビングして帰った直後その余韻に浸る間もなく、突然携帯画面に飛び込んできた「競泳のエース池江璃花子さんが白血病と診断された」というニュースに、私は一瞬現実感を失いました。それは以前に書いた叔父や親友が癌になったと知らされた時と同じショックで、痛みのない軽いカウンターパンチを受けて気絶したまま夢の世界にワープしたような。ほぼ毎日水泳をしている私にとって、池江選手は正(まさ)しく来年の東京オリンピック期待の星だったし、テレビで放映される主要大会の彼女の泳ぎを録画してスローやコマ送りで見ながら自分のフォーム改善の参考にさせてもらっていたため、他人事には感じられなかったのです。しかも水泳をしている人には急性心不全死は多いものの、癌(白血病は血液の癌と言われる)は少ないと感じていたので、俄(にわ)かには受け入れられなかったのです。もちろん職業柄「白血病」と聞いて、大体の状況や今後の過程が推測でき、「平成最後の…」と枕詞のように最近様々な事象が叫ばれている中で、私にとっては平成最後の大ニュースだと思いました。その後彼女がツイッターで発信する言葉にマスコミは大いに反応、初めは「まだ今は自分自身混乱している。」と信じがたい診断名に自分の身に起こった事を実感できないものの冷静な様子が伺われ、次に発した「神様は乗り越えられない試練は与えない。自分に乗り越えられない壁はないと思っています。」という常日頃から私も使ってきた聖書の言葉を18歳で知っていて、病気及び治療に対してすぐさま前向きに闘っていこうとする姿に、皆驚嘆しました。また親友の今井月(ルナ)選手に連絡した際に言った「…そういうことになったので月(ルナ)は頑張って!」という大病を宣告された人とは思えない逆エール、言われた方が戸惑ったのではないでしょうか。

IMG_2373 この池江璃花子さんの報道に際して、私は以前に書いた親友と叔父の癌宣告された時の受け止め方の違いを思い起こしました。そして私は『生まれつきプラス思考とマイナス思考の両極端の人間がいる!』と発想しました。直接会ったことはありませんが池江選手や亡くなった親友は超プラス思考、最後まで生きることに執着し死が訪れる時を嘆き続けていた叔父や、様々な事情で私のクリニックに来院される多くの患者さんは超マイナス思考だ、と。あの親友のあっけらかんとした「(癌が)自分の事と思えないんだよね。~ずっと前向きだよ。」という言葉、最後までマイナスな発言・嘆きを聞かずに消えてしまった人、そういえば25年間落ち込んだ姿を見たことが無かったなあ。いつも面白い事を探して生きていたような人で、私の知る限りマイナス思考はありませんでした。私の絵の先生である俳優の石坂浩二さんも、いつも前を向いて諸事に興味を持っている人ですが、ある時奥様に「先生って落ち込む時あるんですか?」と聞くと、即座に「ない!」という返事が返って来ました。そんな人がいたのか!?と驚きました。しかしある時ブリキの館長北原照久さんにお会いして「すごいプラス思考な方ですねぇ。」と挨拶したところ、「いやぁ、石坂さん程じゃないですよ!癌の手術後お見舞いに行った時、真っ先に『よし!これでもっと長生きできる!』と仰ったんだから。」と聞かされました。

 私は元来根暗で、学生時代は友人から「悩むことが趣味?」とまで言われるような超マイナス思考でした。今でこそ患者さん達から学び教わったせいか前向きに見られるようになったようですが。クリニックに来院する心傷ついた人達の中には、生来もしくは何らかの後天的な出来事から自己評価が低い(自尊感情が低い)人や、自己承認欲求が強くそれが満たされないとひどく嘆く人が多く見受けられますが、そんなマイナス思考の患者さん達と向き合って35年、時折一般の人達の中(例えば同窓会や音楽・水泳仲間など)に埋もれると、『あれっ、世の中の人々はこんなに健康的なんだ。いや、いつも会っている人達が不健康なのか…』と思わされることがあります。患者さん達の中には、①「落ち込んでいる」と言って過去のマイナス事象ばかり考えて続けて前を向けない人や、②「不安だから未来の事を先に悪く考えておいて実際駄目だった時のショックを小さくするんだ」と言って先回りのマイナス思考で固めている人がいます。①は時間が止まって、現在から未来が進まない、②はやる前から頑張らずに最初から敗けで入る省エネ的生き方、サッカーでいうとオフサイドのようなものか、共にこれでは現在を精一杯生きていないためhappyになれないでしょう。

 一方、池江璃花子さんを含む上記のプラス思考の人達は、とにかく今現在を一生懸命生きている、マイナスは考えない、良いイメージで自分を鼓舞する、そうすることで明るい未来を呼び寄せる道が開けるのです。過去はもう終わった、未来はまだ分からないが、時の進行に沿って前向きに生きていくのみ!という思考で、マイナス思考がないのです。その中間の人間もいるでしょうが、あの親友が癌と告知されても他人事のようにあっけらかーんと最後まで生きた姿が本当に不思議でしたが、池江選手の報道を聞いて、石坂さんも含めて、これらの人達は超プラス思考(マイナス思考の無い)人間なんだと!と気付きました。もちろんショックを受けたり泣いたりすることもあるでしょう。しかしそこからの考え方や立ち直り方が、自ら自然に前を向きプラスに発想するところが、「強い!」と言われる所以でしょう。しかも本人達はそれほど凄いとか強いとは思っていないのではないでしょうか。そうでない人達が、自分にはないその“今”から前を向いている思考に遭遇して驚くのです。マイナス思考の患者さん達はというと、癌告知などされたら、まともに立っていられず、精神的に先にショック死してしまいそうなくらい混乱するでしょう。中にはテレビで赤の他人の事件や病気を聞いただけで、自分の身に起こったことのように精神的に伝染して、自分を支えられなくなる人もいます。個々人の“自我の強さの違い”と表現する場合もあるかも知れませんが、時系列に沿って考え生きているか否(過去・未来へ乱れ飛ぶ)かという姿勢、すなわちプラス思考かマイナス思考かによって、人生はhappyかunhappyかに分かれるのではないでしょうか。マイナス思考の人達は、過去を向いたままだったり、不安のあまり先の事ばかり考えて今現在をちゃんと生きていません。先の事は誰にもわかりません。今、今、今の連続が時になり、さっき言った今はもう過去になります。今をちゃんと生きていない=今の時間を怠けている、のではこの先の人生がhappyになるはずがないのです。しかし先を不安がる人たちは、今がずっと続くという前提条件の元未来を想像しますが、未来は必ず予測不能に変化していため、今が続かないことだけは確かな事実なのに、間違った条件の元では結果は間違うのです。従って今未来を悪く想像することは意味がないのです。想像していた未来が通り過ぎた後、振り返ってその前に想像したことを検証してみると、90%以上想像と違う結果になっていることでしょう。だから今を想像するならプラス思考でなければhappyにはならないのです。

 あまりのショックで政界まで巻き込んだ池江璃花子さんの報道は、最近ようやく静かになりました。今頃必死に闘病していることでしょう。皆きっと彼女なら病にも打ち勝って戻ってきてくれる!と信じて待っています。私も録画してある彼女の最高の泳ぎを繰り返し見ながら、『今日・今を一生懸命生きよう!』と心掛けています。もう二度とマイナス思考の人間にはならにように、と。皆さんも、もし自分はマイナス思考人間だと思われたら、今を一生懸命生きて前を見るプラス思考人間に変わろうとしてみてください!
2019.2.28.

 7月1ヶ月間に及ぶサッカーワールドカップロシア大会が、フランスの優勝クロアチアの準優勝で終わった。日本は初出場以来最高に良い試合内容でベスト16に入り大いに盛り上がった。4年前もブラジル大会のエッセイを書いていた私は「これは今回も続編を書かなくては!」という気にさせられた。前回惨敗に終わった日本チームは予選リーグ予想外の勝利から始まり、もしかして首位で通過するのでは?もしかしてベスト4に行けるのでは?と言われるほど勢いに乗った。前回そのメンタル面に問題あり!と書いた私にとって、この4年間いや正確にいうとこの直前の2ヶ月間で日本選手たちのメンタルに大きな変化があったと思わされた。開幕直前の監督解任~新監督就任~新たなる代表選手選抜と急造チームの感が強い日本に、私もそうだったが多くの国民が日本チームに期待していなかった。サッカー辛口コメンティエーターSさんは決勝リーグに進める確率は2%だと酷評していた。しかしこの時私は「もしかしてSさんはこのひどい予想で日本の選手たちを発奮させようとしているのかな?そしたら選手たちは本当に発奮して強い決意からもしかして良い結果を出すかもしれない!」と直感した。第1試合コロンビア戦、テレビ中継を録画して、その日の夜はいつものようにプールできつい練習に入ったところだった。直後プールからも見えるコーチルームのガラス窓に「日本1点先制!」という紙の速報が張られた。「えっ!そんな馬鹿な!これは普通の展開じゃない!」と感じた私は、コーチに「ありがたいけど録画しているから速報しないでください。」と頼んだ。帰ってから見ると、やはりハンドのオウンゴールで相手が一発レッド退場!という事態だった。香川のPKを入れた顔に「日本チーム何かが違う!」と感じた。次のセネガル戦も「2-1で日本が勝つ!乾が左から背の高いアフリカ選手の体の横を通すループシュートと、ゴール前の混戦から横に低く飛んだボールに岡崎が横っ飛びで頭に合わせてポロッと入れる。」と予想して我がスタッフに予言した。目を瞑るとその2つの光景が浮かんだのだ。結果2点は岡崎をスルーして本田が入れたのだが、ほぼ的中したのでやや不思議な気分だった。第3戦はポーランド、西野監督の戦略で、残り25分間ボールを回して戦わず、警告数の僅差で決勝リーグに進むという戦術を取り批判を浴びたが、勝負に対する並々ならぬ決意を感じた。決勝リーグでは、優勝候補のベルギーに2点先制し本気にさせ、確かに実力差は大きく負けはしたものの、最後まで勝てると思いながら突き進んだ日本チームのベストゲームだったと思う。

 今回は、スーパースターの新旧交代(メッシ・ロナウドからエムバペへ)を示唆する感があり、VARの導入などもあって、ワールドカップといえば、今までヨーロッパ対南米のイメージがずーっと長く続いていたものが、新しくアフリカ勢や日本を含むアジア勢といった2大主流とは少し違った種類のサッカーが本格的に参入し、本当の意味でのワールドカップになり、サッカー界でもグローバリゼーションが始まっている!と強く感じた大会だった。

 日本人のスポーツメンタルも進化し、世界に臆することがなくなってきた!と感じる。

 競泳界ではパンパシフィック大会とアジア大会で大活躍した18歳の池江璃花子選手、テニス界では全米オープン優勝を果たした大坂なおみ選手など、そのメンタル面の強化が注目された。フランスW杯の時、試合に負けて選手達と次の試合を見ようと観客席からグランドを見下ろした当時急遽抜擢された岡田監督が「俺たちあんな凄い所でバティ(当時のアルゼンチンのスーパースター)と戦っていたのか?」とビックリ仰天したというエピソードからは信じられないくらい世界が近くなったと言える。各界のグローバリゼーションが進んだ今の若者達には、世界を相手に「あがる」という感覚はなくなってきており、特別なメンタルトレーニングは要らないのかも知れない。今夏ハワイのマウイ島へ行ったが、日本にいるのとまったく同じような感覚で過ごし、「外国」という緊張感が全くなかった。アメリカ大陸でもヨーロッパでも同様に「日本人だから下手に構える」ことはなくなってきているのではないだろうか。

 反面スポーツ界のあちこちで、指導者の暴力的指導やパワーハラスメントの告発が相次いでおり、当クリニックにも同種の訴えで受診する人が現れる時代になってきた。確かにそのような指導が1970年代に漫画で「巨人の星」や「アタックナンバー1」などが流行り、いわゆる「スポ根」といって根性を鍛え直す指導として体罰や怒号が当たり前だった時代もあるが、それは戦前の軍隊教育の延長線上にあった負の遺産であろう。今の日本のスポーツ界では、「楽しんで」と口にして試合に臨み良い結果を残す若者達が多い時代になってきている。私もかくいう思春期をスポ根時代で過ごし特訓を繰り返してきた世代である。「楽しんで」が今一良く分からないのでだが、おそらく勝負のプレッシャーを撥ね退けるためのプラスの自己暗示だろう。2020年東京オリンピックでは、地元日本で臆することなく外国勢にひるむことなく、厳しい練習を積んだスポーツを楽しみながら活躍する日本の若者達がいっぱい現れるだろうと予想且つ希望する。こう書きながら、実は私は、マスターズ水泳大会やゴルフコンペでは、いつも最初過度の緊張感から良い結果が出せないまま終わることの多い情けないスポ根世代なのである。
2018.10.9

1 リゾートプール 今年のGWは5回目のタヒチ・ダイビング旅行に1人で出かけました。タヒチといっても、あまり知られていないファカラバというユネスコの生態系自然保護区に指定されている手つかずの自然が残るサンゴ礁のラグーン島で、潮の急流に身を任せるドリフトダイビングとサメ三昧のダイビングが売りの海へ。しかしあまり喜び勇んで出かけたわけではなく、飛行機に乗っても{これからタヒチに行くのかなあ?}と実感のないまま、早朝タヒチ島の空港に着きました。ファカラバ島への乗継便までに6時間程あったので、真っ先に高級リゾートホテル併設のダイビングショップでマネージャー・インストラクターをしているフランス人の私のバディー(ダイビングの時ペアーを組む相手)に会いに行くと、テラスからモーレア島を望むタヒチ特有の海と空のエメラルドグリーン&ブルーのグラデーションが目の中に飛び込んできて、「あー! タヒチだ!そうかタヒチに来たんだ! 」とようやく実感が沸き上がりました。海と水上コテージを臨むリゾートプールの横庭の道を抜けてショップに着くと、まもなく彼が現れました。2アポイントなしで行ったのですが、5年振りの再会を喜び合い、モーニングティーを飲みながら、互いの5年間を色々と話しました。ランギロア島へ行くといつも私のバディーを買って出てくれていた彼にbabyが産まれたことを風の便りで知っていた私は「おめでとう。結婚したんだね。」と言うと、「ありがとう、babyは4人目で、1番上はもう高校生。でも僕結婚はしないんだ。子供たちの母親は色々だけど、結婚は一度もしてないよ。パートナー制主義なんだ。」とさらっと言いました。身長190㎝程の正統派フランス人イケメンの彼も、ややオジサンの貫録が出て、流れた時間だけ人生及び人格が深まった感がありました。その後彼に空港まで送ってもらい、ファカラバ島に到着、4日間で10ダイブして最後が100本記念ダイビングとなりました。3ファラカバ島最後の日に2本、99本目にハンマーヘッドシャーク、100本目のラスト浮上直前になんとタイガーシャーク(人食いザメ)が出るというミラクルが起こり、皆狂喜乱舞しました。アメリカ人、オーストラリア人、イタリア人、ドイツ人と世界中から集まったダイバーの中に私を含めて日本人は5人、その中に一組感じの良い私と同年代のご夫婦がいらっしゃいました。お二人は個々に自立した仕事を持ち、10年程前ちゃんと結婚式まで挙げたのに入籍はしていないということでした。人生の機微が分かった年代での自立した者同士の結婚の形態に新鮮さを感じ、ここ何年か私の考えている入籍しない事実婚、パートナー制度について熟考する良い機会となりました。

 クリニックには、夫婦問題で受診する方が年々増えています。年代は若い人から熟年・老年(?)まで、主訴は配偶者の浮気・ハラスメント・コミュニケーション不足・相互の親の問題、相続問題など様々ですが、日本における民法上の婚姻制度の意味をきちんと理解している日本人はどれほどいるのかと思わされます。実は日本の民法上の婚姻制度とは「家」を存続させるためのものです。好きになった異性と一緒に暮らし、姓を統一して(主に男性の姓に。婿養子として女性の家の姓に統一することは最近では極稀)幸せ!と当初は感じている人がほとんどでしょうが、女が姓を持てるようになったのは、実はたった150年前の明治以降なのです。それ以前は女性には姓はなく「(お)いわ」、「(お)きく」、「政子―源のではなく北条の」「富子―足利ではなく日野の」と、女帝でさえ「○子」等と名前のみで呼ばれていたのです。最近は恋愛結婚がほとんどですが、昭和の中旬迄は、見合い結婚が多く、家紋を絶やさないために養子を取ってまでということが多々ありました。私の10代頃は、女性の職業欄に堂々と「家事手伝い・花嫁見習い中」と書かかれていたのです。

 近年日本も若い世代では、男性に扶養されながら家事・育児をこなす担当として家を守る「女」=主婦業が減り、男女平等参画社会の御旗の元、社会に出て働き、子供は親や保育園などに預けて、夫をイクメンと称して家事・育児も同等に分担させるのが当たり前という風潮が出てきました。結婚の条件として、結婚後も子供を預けて働いてくれないと困ると言う男性もいるようです。それでは、女性が男性と同等に働いて収入を得て生活できるようになった今、男女二人の姓を統一する意味=結婚に何の意味があるのでしょうか?生物学的に考えると、結婚式・披露宴という儀式は、《この一対の男女は、これから次の世代を生み育てていくつがい なので、他の異性は手を出すな!》という周囲への御触れみたいなものです。家系を存続させる為に、その家の姓で統一させた日本の習わしが、いつの間にか愛情の継続を神の元で誓わせて一体感を持たせ、婚姻届という紙の上での契約が、絶対的な互いの浮気防止や遺産相続の保証書のように機能しているのです。しかしまもなくどちらかが他の異性に興味を持ったり、結婚当初の緊張感が薄れて元家族のように配偶者をぞんざいに扱ったり、子育ての援助にと女性の実家近くに居を移して男性は婿養子のようになり、いつの間にか近年は「男の子は結婚すると嫁の家に取られてしまう。」という親の言葉がよく聞かれるようになりました。嫁姑問題が勃発する家もあり、挙句の果てに、夫の親の老後の面倒は見たくない、一緒の墓にも入りたくない、実家の墓に入りたい、と堂々と言い出す嫁なども。徐々に当初の愛情・一体感は薄れていきます。日本の民法では、婚姻・入籍してその家の人間になるわけですが、核家族化が進みその認識はなくなり、元家族の価値観や振る舞い方のままでぶつかっている夫婦も見受けられます。また夫が定年退職後は、「私の生活リズムが崩される。毎日ずっと家にいて三食ご飯を作らなければいけない、どこかへ行ってほしい。」という妻。長年外で企業戦士として働いてその稼ぎで子供と共に養ってくれた夫に対して、長年その家で家事をしていたとはいえ、家を建てた夫に対して出て行けと言う妻とは!? 俄かには耳を疑う言葉が炸裂し一時唖然とします。「結婚当初の初々しい気持ちはどこへ行ってしまったのか?」と聞くと大抵の人が「忘れた」と言います。長い月日は神の前での誓いをすっかり消してしまうのですね。婚姻届という紙を役所に提出したら、配偶者は自分の物で、裏切られたら、一方がその紙で縛り、他方は「しかし離婚すると経済的に生きていけない、遺産が手に入らないから離婚できない。」とその紙に苦しめられている場合もあります。すでに愛情を失くした不純な苦悩、婚姻の末路です。

 ということで世界では年々離婚率は上がり、非婚主義の人が増えてきたのでしょう。日本ではまだ少ないですが、欧米(特にイギリス・フランス・アイルランド等)では既に、籍を入れる婚姻ではなく、パートナー制度が主流になってきています。日本でいう事実婚、夫婦別姓制です。愛情が覚めたら解消し次のパートナーへ、と。人間も地球上の一生物として、法律や制度に縛られず、自然に、純粋な愛情や本能を優先にして生きていこうとする姿勢です。子供はどうするのかが問題ですが…。更に欧州の若い世代ではキリスト教を信仰する人も減り、神の前で永遠の愛を誓うこともしなくなってきていると聞きます。つい最近イギリス王室のヘンリー王子の結婚式の際、神父様の言葉が新鮮に心に響き、結婚も良いものかも、と思ったイギリスの若者が多かったというニュースがありましたが、それは非婚主義からの逆の見直しですね。そもそも婚姻制度というのは各国の政策によって違うのです。韓国では結婚しても姓は変えないし、ミドルネームを使う国もあります。中国は結婚しても実家の方を大事にします。アフリカの某種族は一夫多妻制(正式な婚姻制度があるかどうか定かではありませんが)で皆一緒に住み、妻が多いほど男として力が強いとされています。日本でも最近は、結婚しても姓を変えずに旧姓で仕事をしている女性が増えてきました。私たち医師は、結婚・離婚で論文の名字が変わり、同一人物として検索されず、不利益を被ることがあります。

 タヒチで出会った2組の非婚・パートナー主義は、まさにその最近の傾向の身近例であり、とても嬉しく感じました。常々私は、今春社会人となり適齢期に入った娘に、「結婚式や披露宴はしてもいいけど、入籍はしないで、婚姻届という人為的な紙の上での契約を結ばなくて信頼し合える絆で、危機を迎えてもその紙で縛り合わないようなカップルを目指しなさい。お互いの家・親は大切にして。」と言っています。最初驚いて抵抗を示していた娘も最近は「それはかなり先進的な考えだけど、確かに理想的だね。考えてみるわ。」と言うようになってきました。確かにまだまだ日本では受け入れ困難な発想かも知れませんが、世界的傾向から眺めると、将来いつかそういう流れになる!と確信している私です。
2018.6.25.

01 長らく文章が書けなくていた。
 どうしてなんだろう、言葉が浮かばない、文章が構成できない。
 半年が過ぎ、ようやく私の心の中の自分を照らす鏡がなくなっていることに気が付いた。精神科医のとしての自分の心と思索を反証する鏡が。
 4半世紀に渡って、人生の窮地に立った時いつも私を支えてくれた恩人だった。
 いつからか症例報告会のように、お互いの治療例について診断・薬の治療・考え方など、独りよがりにならないよう検討し合ってきていた。お互い自分にない物(感性・知識など)を持っている、と驚きと尊敬の念を持って接してきたように思う。
 精神科医は開業すると孤独である。一つ道を逸れるとどんどん偏奇して行ってしまう者達がいる。そうならないよう戒めとして、失敗例から新しい傾向まで忌憚なく打ち明け合ったものである。開業精神科医同志互いが異性であったことも良い出会いだったといえる。互いになかなか違う性の本質は解らないものである。それを医学的知識のある者同士、心身相関から精神まで新鮮さを持って知り勉強になった。兼ねてから恩師が言っていた通り、「精神科には男女を必要である。」ということを実感した。こうしていつしか互いに自分を照らす鏡になっていたのだと思う。
 医療のみならず人生の上でも困ったことがあるといつも相談し合った。「友達以上、不倫未満」という本が昨年出版されたが、それに近いものだった。
 3年前突然末期癌と宣告され、「自分が? 実感ないんだよね~。死ぬことは別に怖くない。」と言っていたまま、懸命の治療も及ばず昨年6月消えてしまった。「癌死について」で書いた人であるが、最期まで明るく冗談を飛ばしていた。
 
*「あと何年生きればいい?」  ~ 「20年」
 「無理だよ~。末期癌なんだから~。」  ~ 「・・・」

*「僕の寿命はあと3~5か月だって。」 ~「そんな~・・・」

 腹水がたまってもモルヒネを打ちながら一か月前まで診療を続け、
*「緩和ケアで臨みます。でも辛くて緩和にならず(汗・笑)」   etc.

 「お互い戦友だったよね。」が電話での最後の会話になったが、最後に病床に行った時は、もう声も発せず、ただ微笑んでいたのみ。私はただ「ありがとうございました」を何度も繰り返すことしかできなかった。
 もう一回明日の朝会いに行こう!と思っていた夜遅く、「旅立った」と知らせが入り絶句した。「…間に合わなかった!!」と。尻切れトンボになったような心だけが残った。最後はどんな気持ちだったんだろう、何を考えていたんだろう、何か私に言うことがあったのでは?…と。
 葬儀へ向かう道案内の看板に名前が書いてあっても「嘘だよね。これは悪い夢。」としか感じられず、遺影を見ても「ほら、笑ってるじゃん。どこかで見てるんでしょ?棺の中の物体は別人!?」と思い続け、涙は思ったほど出ず、どこか冷静な自分が不思議だった。
 そこから私の頭の中は真っ白で、現実感が薄らぎ、雲の上に載って世界を素通りしているような感覚でいた。煮ても焼いても喰っても死なないような、太っ腹でおおらかな人で、友達が多く、いつも笑って楽しいことを探して生きている人だった≪こよなく愛したゴルフと同じで人生にも“タラレバなし”の、とにかく嘆かない人だったと後から気付いた。≫ので、またどこかから冗談を言いながらひょこっと出て来そうな気がして、メールもアドレスも消せないでいる内に半年が過ぎた。
 夏には我が家の愛犬も後を追うように14歳半で亡くなった。老衰に近かったが、最後苦しんで命が途絶えていく様に、“僕の最期もこうだったんだよ”と代理で伝えられた様な気がした。ある人が「死は無である。」と言った。強烈な言葉だが、この言葉にどれほど救われたことか。ヒロイックに悲しみに浸りそうになった時、心の底を支えられた。
02 昨年は身近な親しい人達3人と1匹がこの世から姿を消してしまい、年賀状も初詣もないただ時と日が続いて流れる静かな正月を過ごした。最近、対の鏡の一つが無く、反射が返ってきていないこと、片方の鏡も鏡の用を成さなくなってただの板のようであることに気付いた。対の鏡が冷静に自分の死と向かい合っていたため、直後こちらの鏡も冷静にならざるを得なかったんだとも。
 “死”とは、それが訪れるまではその人の問題であって、それが訪れてからは残された人々の問題になる。さてこれから私はどうやって今後の人生を歩んで、精神科医としての仕事を全うして行けば良いのだろう。一枚板で進むしかないか…。
 「老後引退したら、縁側でお茶でもすすりながら、精神医学談義しよう。」と言っていたのに、叶わぬことになった。あの世があるなら、お茶菓子でも用意して待っていてくれるだろうか。 今日は奇しくも一方の鏡が61歳を迎えるはずだった日なのだが。           
2018.1.19.

* 『対の鏡現象』とは、私が日本精神病理学会や世界精神神経心理学会で発表したオリジナル概念である。

NYタイムズスクエア

NYタイムズスクエア

 このGW83歳の父を連れて、NY~バハマを旅してきました。NYは大学生時代一番行きたかった所であり、医者になるのでなければ勉強しながら生活し活動してみたかった街でした。初めて外国に行ったのは実は遅く30歳の時で、国際学会のため南回り経由で行ったアテネ~スイス~フランスで、その後は仕事関係でヨーロッパが多く、ダイビングでは海中心に旅行していたため、NYはついつい後回しになっていました。
 しかしアラ還が近づいてきたため、早く行っておかなければNYの街を歩けなくなるのではないか?と焦りだし、思い切って予約したものの、誰と一緒に行こうか?と考えた時、丁度去年大病をしたものの回復してきていた父が横におり、昔ハーレーダビットソンを何台も乗り回しルート66を走ってアメリカ大陸横断したいと言っていたことを思い出したので、「行く?」と言うと即座に「行きたい!」と返ってきました。少し懸念はありましたが、最後の親孝行になるかも、と思って決定しました。バハマは野生のイルカと一緒にスイミングできる島があるとのことで是非行きたかったので、NYと組み合わせました。
 高齢のしかも癌を患った父と大分前から予約していたので、旅行ドタキャン保険にも入っておきました。これは結構高額でしたが、母も合わせて旅行前いつ何時急に何が起こる分からないので、必須でした。
 まずNYに到着してすぐ入った大型観光客向けホテルは、ひどくサービスが悪く案内も不親切で、スーツケースを預かってもらって外出しようと待っていましたが、一向にベルボーイらしき人が現れないので、ようやく現れたホテルマンらしき年配の男性に「ベルボーイのカウンターはどこですか?」と尋ねたところ、その横で群がっていた人達の中の60歳台の痩せた白人女性がいきなりすごい剣幕で私に「○×△□☆!!ここはNYよ!!」と怒鳴りつけてきました。私は呆気にとられて「???」としていたのですが、どうやらその人たちはチェックアウトの荷物をベルボーイに運んできてもらうのを待っていた客で、私が横入りしようとしたと思い込んで怒ったようでした。後で分かりましたが、我々の荷物はそこに置いておくだけで良かったのでした。一方的な思い込みでいきなり怒鳴る白人マダム、“ここはNY”とはどういう意味か?私を中国人と勘違いしたのか?日本では受けた事のない理不尽なヒステリー洗礼を到着早々受けたのでした。
 その後、セントラクパークの中を歩いてメトロポリタン美術館まで行くことにしました。セントラルパークは写真やテレビで見るよりはるかに広大で南北4㎞東西800mもあり、半分のところにある美術館までは、肺気腫を持つ父の足で3回ほど休んで1時間かかりました。元々は岩でできたパーク内は、自然と芸術とスポーツと憩が混在した一つの“区”で、昔は殺人などの事件も多く危険な場所と聞いていましたが、夜の一人歩き以外日中は地元のNYっ子や観光客が集う安全な場所に様変わりしていました。
 メトロポリタン美術館は、父も老後時間があると絵を描いているので、共通の趣味として、3~4時間かけてお目当てのゴッホやピカソの原画を鑑賞して回りました。私が見たい絵の所に行って待っている短時間に、父はホールの長椅子に座って、飛行機でぐっすり寝たのに時差のせいか、隣の外人の肩に頭を落としてコックリコックリ寝ておりました。
 夜はネオンに輝くNYマンハッタンの街に繰り出しました。まずはNYの食の象徴であるステーキハウスへ行き、そこで今話題のポーターハウスというT字型の骨の両側にフィレとサーロインが付いて2種類を一度に楽しめるというものをオーダーしました。さあ、出てきた肉の大きさを見て父は口をあんぐり! 二人で四苦八苦して切り分けながら食べていると、隣の席の60台位のご夫婦が頼んだ品が出てきてまた父はあんぐり!夫人の方のステーキの厚みは私達の肉の倍位あり(600~700g?)、とても女性一人では食べられないだろうと思って見ていたのですが、夫人はぺろりと平らげてしまいました。自分の肉を3分の1位しか食べられなかった父は、その夫人の完食の勇士に、目を真ん丸にして感嘆の吐息で「やっぱり沢山肉を食う人間は体格も違うなあ。」と見とれていました。
 はち切れそうになったお腹を抱えて、タイムズスクエアまで歩くと、そこは何色ものネオンが輝くビルに囲まれた世界の交差点で、世界中の観光客でごった返していました。千人位いるかと思われる人混みをただ眺めているだけでしたが、「ここはテロの格好の標的になる!」と思いすぐに立ち去りました。案の定その次の週にテロまがいの車がその群衆に突っ込んで、観光客が数人亡くなっています。
バハマ  ナッソーのホテルからの大西洋

バハマ ナッソーのホテルからの大西洋

 翌日早朝バハマへ飛びました。まもなく大西洋の美しい青が目に飛び込んできて、まもなく多くの島が点在するバハマに入り3時間で首都ナッソーに到着しました。バハマの国の色はピンク、国鳥はフラミンゴ、特産物はピンク色のコンク貝、とピンク尽くしの国で、家々は外壁をパステルカラーに塗っており~公共の建物はカナリアイエロー(医療や教育機関)、ペパーミントグリーン(警察)、フラミンゴ・ピンク(政府機関)で、民家は好きな色に塗って良いそうですがピンクが多く、他にレモンイエローや水色グリーンなど様々~我が家がいっぱい!と親近感を覚えました。元は大富豪の別荘だった屋敷を利用したホテルに入ると、インフィニティープールとブルーグリーンの海に、手入れの行き届いた芝生や椰子の木や植栽の緑、そしてハンモックとデッキチェアーの白が目の中に飛び込んできました。ビーチに足を踏み入れると、サラサラの白砂ですぐに足が砂の中に埋まって行きました。海の中も同様で、大西洋に荒い波が打ち寄せるため、遠くまで泳いでいる人間は私一人でしたが、透明度が高く海底はどこまでも白砂で、石も藻もなく魚は全くいませんでした。海から上がってくると、プールの長椅子に寝そべっていた父が「幸せだなあ、生きていて今が一番幸せだ。3回の手術した去年とは天国と地獄の差だ。死んじまっていたらこんないい所に来れなかったなあ。」と呟きました。
バハマ  エルーセラ島のピンクサンドビーチ

バハマ エルーセラ島のピンクサンドビーチ

 翌日アメリカからの豪華客船がいくつも停泊している港から、小型のフェリーでナッソーの東約90㎞にある珊瑚岩礁の細長い魚の骨のようなエルーセラ島へ行きました。コンク貝と珊瑚の砕けた砂で自然に出来た4㎞に渡って続くピンク・サンズ・ビーチが目的です。ここはダイアナ妃のハネムーンの地としても知られており、コロンブスの船団が水を求めて上陸した島でもあります。真っ先にビーチに向かうと一歩足を入れると、確かにピンク色の砂が白と同等に混ざっており、極細粒なので、一歩足を踏み入れるとぐっと一気にくるぶしまで砂の中にめり込みました。一面を見廻すと、薄いピンクのビーチとアトランティック・オーシャンの紺碧の海と白波のみで視野はいっぱいになりました。他には人がちらほらいるだけで、耳に入るのは、白波がピンクの砂浜に打ち寄せる波の音だけです。ここでも私は一人荒海に入って泳ぎ出し、寄せる波に乗って帰ってくることを繰り返していましたが、魚の姿は全く見えず、透明度の高いピンクの砂の海底が続いているだけでした。果たして魚はどこにいるのでしょう? バハマではやわらかいコンク貝料理を初めて食し、再びNYへ戻り、夜は橋の対岸からと、ロックフェラーセンターの展望台Top of the rockからNYの夜景を鑑賞しましたが、日本でお台場のレインボー・ブリッジから海越しに見る東京のビル群やスカイツリーや六本木ヒルズ最上階から見る東京の夜景に見慣れているせいか、新たな感動は沸いてきませんでした。東京は既に世界のトップクラスの都市に成長しているんだなあ、と実感した次第です。
 翌日はミニバスで回るNY一日観光ツアーに参加しました。日本人ばかり12人で、マンハッタンを中心に南は自由の女神から北はハーレム、イーストリバーを挟んで今流行の発信地であるブルックリンまで余す所なく巡りました。
ワン ・ワールド ・トレード ・センター

ワン ・ワールド ・トレード ・センター

 一番行きたかったのはグランド・ゼロ。2001年9月11日夜当直室でTVニュースを見ていた私は、一機目の飛行機が突っ込んだNYのビルの中層階から煙が出ている映像に切り替わった直後「未曽有の世界的事件が起きた!世界が一気に変わる!」と直感し、即座に政治家の後輩に携帯電話で連絡したのです。その同時多発テロで崩壊したワールド・トレード・センターWTCのツインタワー跡地に造られたMemorialメモリアル、ノウスとサウス二つの巨大プールのモニュメント、その4面の縁には犠牲者の名前が刻まれていました。以前は予約制での入場だったそうですが、今は交差点から誰でも入れるようになっており、訪れる世界各国の観光客がピースサインをして記念撮影する姿に言いようのない違和感を覚えました。三千人近い人がここで一瞬にして命を落としたというのに、どうしてそのような不謹慎な態度が取れるのか?あの悲惨なテロ事件をもう忘れてしまったのか?それとも知らない世代なのか?あの事件の約1週間後、私のパソコンに誰からどこから回ってきたか分かりませんが、“missing”と題した一枚の写真が送られてきました。WTCの屋上デッキで笑って写真に納まっている一人の白人青年の背景の空に一機の飛行機が写っている物でした。“15年8ヶ月後の今私はそこにいるのだ、あの青年はどこに行ったのか?”と空を見上げました。
 その他ウォール街、国連本部、ジョン・レノンが射殺されたダコタハウス、マイケル・ジャクソン等多くのブラック・ミュージシャンを生んだアポロ・シアターやコロンビア大学などを回りました。大学時代私はNYのどこに魅かれて住んでみたい!と思ったのか?当時はまだ治安がかなり悪く、ハーレムは特に立ち入り危険エリアで、こんなに明るく庶民的な雰囲気ではなく、軽く観光気分で行けるような所ではなかったはず。その危険な雰囲気さえ当時の私は魅力と感じつつ、それをかい潜りながら何かクリエイティブなことをしてみたい!と思っていました。しかし今のNY は同時多発テロ以降当時のジュリアーニ市長の元治安の良化が進み、東京と殆ど変らないほど安全な町に変身していました。あの一瞬にしてNYを地獄に陥れた悲惨なテロ事件が、NY市民にそれと比べると遥かにチンケな欲心と自己主義を改心させ、他者を思いやる心を育てたのでしょう。そう考えると危険な香りのなくなったNYに、また今の歳での私は住んで活躍してみたい!と感じなくなっているのは当然です。所詮若気の至りだったのですね。空港へ送迎してくれた日本人ガイド・ドライバーさんの中には、私が大学時代NYに来てそのまま住み着いていたらこうなっていたんだなあ、と思える年頃の方がいました。“If 医者をしないで 何をしていたんだろう?”
 夜はヤンキースタジアムへ行ってメジャーリーグを観戦しました。地下鉄に乗って行くのですが、思ったより安全で東京メトロの銀座線のような雰囲気でした。乗って間もなく席が一つ空いたので、高齢の父を座らせると、すかさずその横の30歳位の男性がさっと席を立って私に譲ってくれました。何と優しい素敵なレディーファースト!ロンドンみたい!日本では絶対に遭遇しない光景です。日本の男性は電車内で朝昼夜問わず、女性が目の前に立っていても寝たふりしてずっと座っていますよね。老人に席を譲る姿もあまり見ません。ヤンキースタジアムは美術館同様入場時のセキュリティーチェックが厳しく長蛇の列になっており、水やバッグも持ち込めませんでした。日本からIN予約をして取った席は一塁側の5階席でしたが、1階上がる毎に25m程のなだらかな上がりスロープを2往復(25m×4回)づつ歩かなくてはいけないので、1階で買ったホットドックとコーラを持って計500mの坂道を一気に歩いて上がったことになります。肺気腫を持つ父は息を切らしてどんどん後ろに姿が見えなくなり、5階に辿り着いた時はもう足が前に出ない有様でした。しかしNYに来て万歩計は毎日12000を超え肺気腫のリハビリには最適だったようで、帰国後に検査した肺機能検査ではかなりの改善が認められたそうです。観戦した試合はなんと!マー君こと田中将大投手が先発でした。この巨大な美しいアメリカの野球場で活躍する同じ日本人が目の前にいる!心臓がドキドキしないんだろうか?上がったりしないんだろうか?と思うと私の方がドキドキしてきました。松井秀樹、イチロー、黒田投手と日本から渡った野球選手がアメリカの野球界でトップ選手としてプレイすることは本当に誇らしいことで、日本人だからといってひるむ時代ではなくなったんだなあ、と実感しました。見事マー君は6回投げて4勝目を挙げ、野球人だった弟を4ヶ月前に亡くした父も感極まっていました。
ヤンキースタジアム

ヤンキースタジアム

 最終日は、グランドセントラル駅から5番街を中心に歩いて見て回りました。両側の石造りの建物にはセレブ御用達の世界のトップブランドが並び、その中にユニクロやGAP、H&M、フォーエバー21といったファストファッションやナイキ、アディダスといったスポーツ店が混じっており、近年のファッション状況を如実に反映していました。NYの街はどこも観光客でいっぱいなのですが、ひときわ歩道上に人がひしめいている5番街の一画56St.に来ました。トランプタワーです。入口にロボコップのような警備の黒人男性が5人ほど、全身鎧のような物を身に着け、頭には大きなフルフェイスのヘルメット、手には本物の巨大な機関銃を抱えて立ちはだかっているのでした。ビルの中にはスターバックスカフェもあるのですが、とても入る勇気は出ません。その目の前で写真を撮るのも気が引けて、向い側の歩道に渡ってからトランプタワーを背景に父を立たせて写真を撮りました。ビルはとても写真1枚に入り切らず、3枚に分けて取りました。なんと!トランプさんはそのペントハウスの自宅からセントラルパークが見渡せるよう、前に立つティファニーのビルの上の空中権を毎月数百万円払って住んでいるとのことでした。何もない空を借りているなんて!しかし移民が多いNYではトランンプ大統領は全くの不人気でした。
トランプタワー前に立つ父

トランプタワー前に立つ父

 NYは100年以上前の建物が沢山残りそれを壊さず利用しているためか、東京より汚く感じられました。所々交差点では地下から白い煙が立ち上っており、地下の排気をしているとのことでしたが、これもビル群で狭くなったNYの空を曇らせている一因でしょうか。東京はやはり世界で一番綺麗な大都会だと思えました。また碁盤の目に区画整理されたNYの街は、南北はAvenue、東西は Streetと表記され分かりやすいのですが、車は一方通行が多く、タクシーに乗るとかなり体が上下に飛び跳ね、道の凸凹がひどいことが分かります。またNYのタクシー・イエローキャブはよく見ると日本のトヨタや日産の車がほとんどで、プリウスが一番多く見られました。逆にアメ車は少なく、近年の世界の自動車産業を反映しているようで、日本とアメリカの経済界のやり取りを垣間見た気がしました。
 帰りのジョン・F・ケネディー空港では、またも出国のセキュリティー検査が厳しく、肌着の下に首から現金袋をぶら下げ、胸ポケットにカプセル薬を入れていた父は、上半身脱がされ、ベルトを取り靴・靴下まで脱ぐよう指示され、私より遥かに遅れて通過してきた時、まるで裸にされたような姿でオロオロしていました。これも過激なテロを防止するためのアメリカ事情なので仕方ありません。帰りの機内で父は、行きに扱い方が分からず見られなかった映画を、私が作動させて楽しく見たようです。定時食の間には追加でカレーまで食べ、8時間はぐっすり寝ていたのに、帰宅してからも即高鼾で寝入りました。「俺は若い頃から苦労してきたからどこでも寝られる。」と言って、ホテルのダブルルームでは私にメインベッドを譲って自分は簡易ベッドに寝てくれました。しかし旅行中は全く怒ったり声を荒げたりすることのなかった父が、帰ってから即怒声を上げている姿に?と思った私は「もしかして旅行中は私に頼って静かにしていたの?」と聞くと、「そうだ。」と白状しました。一度集合場所に私の姿がなく、NYのど真ん中で一人取り残された!と思い狼狽して大変だったとのこと、私はトイレに行っていたのですが、その後は私に置いて行かれないよう、怒られないよう大人しく従っていたとのことです。それが日本に帰って一気に緩み怒ることができるようになったのです。セントラルパークでは、ちょっと目を離すと八重桜の下で、大胆にも外人さんカップルと話していた父なのに、可愛いところもあるんだなあ、と笑えました。しかし「英語話せないのに通じたの?」と聞くと「身振り手振りとハート・to・ハート!」と知っている英単語をいっぱい並べて喋ったとのことでした。ジャパニーズ・フラワー、チェリー、ビューティフル、メニーなど。相手も笑って答えていたようなので、何となくニュアンスは通じたのでしょう。
JFケネディ空港から摩天楼に向かって飛び立つ飛行機9・11を想う

JFケネディ空港から摩天楼に向かって飛び立つ飛行機9・11を想う

 帰国後父は同世代の友人達から、「よくまあその歳で行けたもんだねえ。ところで何しにNY行ってきたの?」と聞かれ、面倒に思い「…商売(陶器商)に行ってきた!」と答えているそうです。今でも実家に行くと「NYとバハマ~感慨深い良い旅行だった。余韻がまだ心に残っている。」と写真を見ながら言っている父です。しかしながら、父と私は趣味・嗜好・行動パターン・考え方が親子で似ているのか、旅行中意見が合わず喧嘩したり、別行動したいと思ったりすることがなく、我慢もせずに相手の希望が自然に読めるので、とても楽でした。DNAって不思議ですねえ~。
2017.7.15

 1月29日最愛の叔父(父の弟)が肺癌で亡くなりました。満78歳でした。

 実は一連の“マヤの呪い”の終わりの方で、食道癌と胃癌を内視鏡で奇跡的に切除でき昨年4月28日一旦終診となった父と同じ日に同じ東京の国立がんセンター中央病院を初診した叔父は、4月の初めに名古屋で肺がんと診断されていました。相談を受けた私は、高校野球でプロのスカウトの目にも留まったスポーツマンで、病気とは縁遠い健康な人というイメージの叔父だったので、にわかには信じられず、1~2月には父の癌を心配していてくれていたのにどうして?と実感が持てないでいました。

 私が生まれてから4年間一緒に住んでいた元家族であり、私が人生で困った時いつも駆け付けて助けてくれた叔父なので、何とかしたいとの想いで1日中がんセンターの各科を回って「手術をして癌を取ってほしい!」と執念のように医者に懇願する叔父に付き添いました。しかし結局手術は無理とのことで諦め、地元の愛知県がんセンターで内科的治療を受けることになりました。その日叔父は我が家に泊まっていってくれたのですが、親戚で唯一初めての人です。それが9ヶ月前のこと、まさかこんなに早く逝ってしまうなんて…。

 自分の子供達には厳しい父親で自分のことをあまり話さない怖い人だったとのことですが、私にはいつも顔をくしゃくしゃにして笑いながらよく話をしてくれ、怒られたことなどありません。28年前初めて患者さんに自殺され、失意のまま病院から帰る途中、交通事故を起こしてしまい、真っ暗な沼に落とされた気分の私のために、叔父は即相手の家に駆け付けて示談交渉してくれました。個性の極めて強い父方同胞の揉め事にはいつもソフトな要の役目を果たして皆をなだめ、私が身内のことで辛い思いをしている時はいつも慰め励ましてくれました。私のジャパンマスターズ水泳大会にも親族で唯一応援に来てくれ、医院開業の際には立派なガジュマルの樹を贈ってくれるなど、優しく心配りの細やかな叔父でした。そのガジュマルが18年経って葉っぱもたわわに付き3m近い天井に届くほどの大木に成長していたのに一昨年突然倒れたのです。診療中どーんという轟音ごうおんがして皆驚き何が?と探すと、1階のリビングで、鉢から根こそぎ土をつけてひっくり返り、ソファーを泥だらけにしているガジュマルをみつけました。大きく育ち過ぎ重心が保てなくなっていたのです。夏に向かう季節だったので、幹を切って低くし葉も減らして再度植えて鉢ごと庭に出し、陽光を浴びて生き返りました。しかし昨年春葉っぱの元気がなくなり落ち始めたので、また庭に出し少し元気を取り戻しました。冬が近づいてきたので家の中に入れると、急に葉っぱが全部枯れ落ち、冬にはついに死んでしまいました。叔父さんから貰った大事な樹だったので、何とか生き返らせたい!と必死に再生を試みた私でしたが、今思うと不思議なほど叔父さんの病歴と重なっているガジュマルの樹生でした。

 叔父の治療は、放射線と抗癌剤で初めは病巣が小さくなり、もしかしたら順調にいくかと思われましたが、昨年9月初め、長年揉め事でバラバラになっていた父方の親族を26年ぶりに再結集する意味で叔父と私の悲願だった祖母の33回忌法要を無事終えた後、ほっとしたのか、縮小したリンパ節から病魔が再発しました。放射線治療の後遺症である肺炎も長引き、副作用が強く出るため抗がん剤治療を再開できないままでいました。

 私は作秋から冬にかけて母のやけどと転倒骨折のため、しばらく叔父を見舞う頻度が減っていたのですが、叔父の病状が深刻であることは分かっていたので、元旦に我が実家の墓参りをしたくてもできない叔父の元を家族で訪れました。一目で全身にむくみを認め、その日から急に歩けなくなったことに嫌な予感を抱きましたが、ベッドで酸素吸入しながら私の持って行った大好物の鳩サブレを口にして「もう医者も見放したわ~。」と言うので、「そんなことないよ!」と答えるのが精一杯でした。直後の4日低酸素状態で再入院となり、6日には一時危篤状態に陥り親族が急遽集められました。譫妄せんもうが出現し、誤嚥性肺炎も併発して絶飲食となりました。11日携帯電話を取り上げられたはずの叔父から留守電が入っていたので、驚いて掛け直すと「2回ご臨終になりかけたよ~。もうだめだ~」と珍しく弱音を吐くため、私が「そんなこと言わないで、週末私が行くまで待っててよ!」と言うと、叔父は泣き出し、たまらず私も電話越しでおいおい泣き合いました。死の恐怖、まさに“一人称の死”に怯えて私を頼ってきてくれたのです。あの気丈夫な勝負師の叔父が。それからの4日間は長く長く感じられました。何とか持ってほしい!と。1月14日仕事を終えて即降りしきる雪の中叔父の病院へ駆けつけましたが、道中全く寒く感じずむしろ暑いと体感して走っていました。病室に着くと叔父はにっこり微笑み落ち着いて「おー」といつものように迎えてくれたので、ホッと一安心しました。酸素吸入をして動きにくい体なのに、私にお茶やお菓子を振る舞おうとしてくれる姿に、こんな状態でも車のセールスマンしてるんだなあ、と思いました。

 精神科の治療として末期癌の患者さんに行う『ディグニティーセラピー』というものがあります。死に向かう苦悩の中で、家族や愛する人に記憶に留めておいてほしい事柄や言葉に関する質問をすることを通して、自分の人生の意味や価値を見い出し、それを残すことによって、より良き死を受け入れてもらうセラピーですが、日本ではまだあまり行われていません。不安定になっている叔父に心穏やかになってもらいたいと思って、そっとその説明書を手渡しましたが、叔父は1~2行さっと目を通しただけで、「…そこに置いといて..」とその紙を私に返しました。まだ病と闘っていたのでしょう。“自分の死”と直面したくない!という意思表示なのだと解釈し、二度とその治療導入は試みないことにしました。キリスト教国と違って日本ではまだまだ“一人称の死”は簡単には受け入れられないんだと実感しました。

 その二日後、父と、思う様に歩けないながら一度行きたいという母を車イスに乗せて3人で叔父を見舞いました。着いた時叔父は検査でベッドにおらず、しばらくすると車イスに乗った叔父が廊下の奥から現れました。すると22歳で嫁いだ母と20歳で義理の弟として家族を始めた叔父は、共に車イスに乗ったまま、まるで少年と少女に戻ったかのように遠くから大きく手を振りながら満面笑みで対面し再会を喜び合いました。お互い世話になった昔話をして「ありがとう」と言い合ったとのことですが、それが二人の最後となりました。母は絶対に泣くまい!と心に決めて涙をこらえていたと言いますが、後で叔父の事を話す時はまだいつも涙声です。父とは喧嘩したら絶対寄りつかない叔父でしたが、母が具合を悪くしたと聞くと、心配して真っ先に駆け付ける叔父でした。年を取って何年経っても世話になったことは忘れないものなんですね。

 翌週、点滴も酸素も外し食べたいものを食べさせてあげようという方針に変わったというので、鳩サブレを持って見舞うと、叔父はベッドで妙に大きないびきをかいて大の字で眠っていました。しばらくそのかたわらに付き添っていましたが、看護師さんが来ると目を開け、私に気付くと、「お~、また来たかあ~、そう来んでいいいって言ったのに~。」と言いながら満面笑みで両手を取って握手してきました。大きな柔らかく温かい手でした。看護師さんたちは「こんな笑顔私達には全然見せてくれないのにね~」と驚き混じりに揶揄やゆしました。しかしその後は「苦しい、胸が苦しい、これは不治の病だよ。」とかすれ声で言うため、私は何も言えずただずっと叔父の右胸をさすっていました。医者なのに日に日に衰弱していく叔父に何もしてあげられない無力感でいっぱいでした。そして「また来るからねえ~。」と言って帰ったのが最後となりました。

昭和30年頃の多治見高校野球部のもの

写真は昭和30年頃の多治見高校野球部のもの

 1月27日母校の多治見高校野球部が21世紀枠で選抜甲子園初出場のニュースが飛び込んできて、私は即座に叔父の息子に電話で伝え、翌朝叔父の愛読新聞である中日スポーツを買って叔父に見せたそうですが、眼は新聞を見ているものの理解できたかどうか定かではなかったそうです。でもきっとそのニュースは叔父の心に届いて喜び安心したのでしょう、あれほど苦しんでいた叔父なのにその翌日1月29日嘘のように穏やかに静かに息を引き取りました。娘がインフルエンザに罹り叔父の元へ行く日を延期していた私は夕方訃報を聞いて「間に合わなかった!」と愕然とし、駅中通路を人目も憚らず涙を流して歩いていました。叔父は高校時代あと少しのところで甲子園には行けなかったものの、岐阜県大会でホームランを沢山打った捕手として当時の南海ホークスや明治大学からスカウトが来るほどの野球選手でした。自分の子供達には一切野球については話さなかったとのことですが、私は同居していた祖母から聞いています。昭和18年叔父が5歳の時に父親が亡くなり、家族がバラバラにならざるを得なかった貧しい家庭で、私の父と末の弟は共に学校へも行けず丁稚でっち奉公ぼうこうを経て自営業の道に就いていたので、叔父の先輩や後輩にはプロ野球へ進んだ人もいましたが、叔父はプロ野球からの誘いを断り堅実なサラリーマンの仕事を選んだとのことでした。トヨタに入ってからは夜間大学に通いながらノンプロで野球を続け、その後は地域の少年野球の監督もしていました。元中日ドラゴンズ監督の高木守道氏とも親交のあった叔父に、私はよくナゴヤ球場へ連れて行ってもらい、叔父と同年代の長嶋・王選手のプレイを間近で見て感動していました。南海に入っていたら翌年あの野村克也さんが入団したので、正捕手は無理だったかもしれないなあ、と晩年叔父は笑って話していました。私は叔父と一緒にゴルフをしたこともありますが、親戚の中では運動能力に関して私が一番叔父と似ているようです。トヨタのサラリーマン時代は野球部でつちかった精神からか、高度経済成長期の日本では皆そうだったようにあまり家にいないワーカホリックで、仕事に関してはとても部下に厳しい上司でした。今ならパワハラで訴えられていたかもしれません。そして部長の地位まで上り詰め、定年退職後は地域の役職に就いて活動していました。自分の限界に挑戦する性質たちは私も似ているので分かりますが、病気に対しても苦しみながら最後まで諦めずに闘っていたのだと思います。叔父はきっともっと生きたかったでしょう。昨年4月癌告知され、我が家に初めて泊まって行った頃、誰が9ヶ月後に叔父がいなくなることを想像したでしょう。おそらくかなり進行の速い悪性度の高い癌だったと思われます。通夜に駆け付ける車の中で父が「お袋が可愛い子から先に呼び寄せてるんだろう。」と言いました。(父の末弟は26年前冬野球をしている最中に50歳で心筋梗塞のため急死しています。)葬儀の後聞いた話ですが、叔父は亡くなる数日前、朝目覚めた時付き添っていた妻に「?なんだ、まだ生きてるんだなあ。お袋が迎えにきたよ。」と言ったそうです。不思議な話です。

 生あるものはいつか死を迎える、と知ってはいるものの、現実に自分もそうなるとは想像できないものです。時々診察室で「死にたい」と言う人がいます。今生きている目の前の事が辛い(自分の思うように生きられず)と、「死」へ逃げた方が楽だと思ってワープしたがるのです。しかし本当に「死」を目前にしている人は、自分の死(一人称の死)が恐ろしく、一日でも生きていたい!と必死に生きるのだと叔父を見て思いました。若者たちよ、安易に「死にたい」と口走ることなかれ!生きていることが当たり前の者は、本当の死の恐怖を知らないで、心の痛みより「死」の方がましだと思って言うのですが、「本当はもっと生きたいんでしょう?自分の望むように。」と問いかけると、皆素直に「うん」と頷きます。

 通夜の斎場に到着した私は、まず叔父の遺影を見て現実を受け止められず胸の奥深くから涙が湧きだし、息が止まっているとは思えないような穏やかな顔の叔父と対面して、まず「ごめんね、何もしてあげられず。」と、そして「有難う、今までずっと。」という言葉がこころから出てきました。これからはもういろいろ相談できる父とは違う存在の叔父はいないんだ、と思うと心細くもなり、また今後父母の最後も見届け受け入れなければ!と心を新たにしました。

 最後に叔父の顔を撫でてお別れしましたが、すっかり冷たくなっていて、最後の握手の柔らかい温もりとは全く違いました。お棺の中にはサラリーマン時代のスーツと大好物の鳩サブレ、そしてお気に入りだった赤い野球帽と共に母校の多治見高校野球部選抜甲子園大会初出場を報じる中日スポーツ新聞を胸元に乗せて荼毘に付しました。生きていたらきっと甲子園に駆けつけ後輩たちの試合を見たかったことでしょう。そして本当に叔父は消えてしまいました。短いながらも闘病中はどんなに苦しかったことか、頑張ったね、今はその苦しみから解放されて楽になれたね、と声を掛けてあげたい私です。
2017.2.15

 またまたしばらくエッセイが書けずお叱りを受けていましたが、今年の我が家の災いとしては最後に残っていた母親が大怪我をしてしまいました。それをきっかけに急遽来年から月曜日も休診にすることを英断したので、ご報告いたします。
 数年前夜中トイレに起きて柱にぶつかって尻もちをついて胸椎圧迫骨折をしてから、右足が震えて歩きづらくなっていた母は、この半年ほど更によく転ぶようになり、10月寝室でも後ろに転んで頭にタンコブを作っていました。「2階の外階段で転んだら命に関わるから気を付けて!」と注意して実家から帰ってきた矢先の11月3日、寒くなってきたからとストーブを出し、その上にやかんを置いて沸いたお湯を使うことを常としていた母は、初歩が上手く出ず、前につんのめってストーブに突っ込みやかんの熱湯を左半身に浴びて大やけどを負ってしまいました。救急搬送されましたが、左腕から脇・背中・顔に及ぶ一部3度を含む2度の熱傷で、右太腿から広範に皮膚を取って移植する手術を受けました。入院中転ぶ原因を神経内科で調べてもらい、珍しい神経変性疾患と診断され、難病指定・身体障害・介護認定を受けることになりました。父も今年3個の癌手術を受けたとあり、とても一人で家事や老々介護は困難と判断し、名古屋にいる妹がウイークデイ、私が週末土曜日診療後から月曜日か火曜日朝まで介護に通うことになりました。
 私の診療もいつか歳を重ねたら少しずつフェイドアウトしていかなければ!と考えつつあったこの頃なのですが、このような事態で急遽決めるのは運命というか自然な時の流れなのかな、と思います。あと何年もつか分からない両親ですが、娘もまもなく学生を終わり独り立ちしていくため、これからの10年は親を看取る人生にしよう!と決めました。色々葛藤のあった親ではありますが、患者さんを診ることを仕事としている医者の私が、自分の親を看ないで放っておくというのは理に反するのではないか、と思い。
 摂食量が激減して体重が32kgになってしまった母に、入院中付き添って病院食を一口ずつ口に運び食べさせていたのですが、いつもは食べたくないと、ペッペッと口から吐き出していた母に、ある日全部間食させた時は至上の喜びを感じました。自分の親を介護できるって幸せだなあ、とつくづく思ったのです。
 このように人生を変える時は期せずして突然変わるものなんだと思います。先走って不安なことをあれこれ考えて来院される患者さんが後を絶ちませんが、先走り不安はその間の人生が無駄になり且つ殆ど想像したようにいかず全く意味がない、私のように決めるべき時が来たらその時決断すればいいのです。

※来年から診療日・診療時間が減ってご迷惑をおかけしますが、以上の事情をどうかご理解していただきたくお願い申し上げます。週4日間集中して診療させていただきます。土曜日診療後から火曜日朝まで緊急の場合は、留守電にメッセージを入れていただければ私の携帯電話に転送され適宜対応するようにさせていただきます。
2016.12.21

 父の手術が無事終わって、マヤの呪いはもう終わった! と思っていた矢先、今度は一番元気だと思われていた父の弟である叔父が同じ病気と分かり又激震が走りました。その叔父が一旦治療を終えて退院が決まり、私が半年間それを目指して練習に励んできた所属ジムのマスターズ水泳大会直前4日前に、国際プールへ自主練に行きました。最後に飛び込み練習で、思いっきり飛び込み台を蹴って飛び込んだところ、空中で右足のふくらはぎが攣って石製の打ち出の小槌のように固まってプールの底に沈んでしまいました。周りにいた人達に引き上げられたのですが、石の小槌のようになっている私の右ふくらはぎはしばらく回復せず動けませんでした。「今回は大会前に怪我しませんでした!」と言えるな、と思っていた私は「またやってしまった! いや、これはきっと夢だ!」と言い聞かせましたが、現実でした。翌日も痛みは引かず、肉離れに近い酷いこむら返りで、まともに歩けない私は、トレーナーさんのところで鍼を打ってもらい、大会まで安静!と言われましたが、大会に出られるか微妙な状態でした。その日の夜、泳げない私は振り込みのために駅前のローソンへ入ってレジへ直行し振り込み用紙とお札を出した直後、突然雷が落ちたのか?と思うほど凄まじい轟音が私の右耳に轟(とどろ)きました。「え?ギャー!」と叫ぶ私に店員はキョトンとしています。その後針を刺すような複数回の痛みが私の耳の中に走り、「ギャー!、痛い!痛い!痛い!」と右耳を抑えて連呼する自分自身に驚きながら、一体何が自分の耳の中で起こっているのか全く分からず、コンビニの中の客達は「可笑しな人がいるなあ」という顔で見ています。どうやら私の他のどこにも当たらず右耳の穴にストレートに直入した小さな動く生き物は入った向きで身動きできず、焦った生き物はどんどん私の耳の奥前方深くへ突き進んでもがいているようでした。虫!?しかもかなりの疝痛、何度も何か鋭い刃で頻回に刺すような痛みが波のように繰り返し、もんどり打っている私にようやく異常事態だと気付いた店員が綿棒を持ってきてくれました。それは全く届かず、光を当てると良いと助言してくれたお客さんがいたので、店員が携帯電話の光を当てるも、全く効果なく、私は「これ以上奥に進んで鼓膜を破らないで!泳げなくなっちゃう!」と叫ぶように祈りました。次に水攻めを試みようと店の中の水道の蛇口から耳の中に水を入れ続けましたが、一旦は治まるものの、水が引くとまた中の虫は暴れ出し、痛みは続きだんだん手足が痺れてきました。店員が救急車を呼んでくれたので、救急車に移動し中で吸引してもらいましたが、隊員は「何か黒いものが見える」と言うだけで、一向に出て来ず、もう大学病院の救急外来へ行こう!ということになりサイレンを鳴らして走り出しました。救急車の中ではもう死んだのか?と思うくらい静かにしていた中の輩は、病院入り口の段差の衝撃で再び暴れ出し、私は悲鳴を上げながら四肢麻痺した状態で救急外来へ運び込まれました。そして耳鼻科医が診察に来て「まずゼリーで虫を殺します。」と言って私の右耳に麻酔のゼリーを入れました。20~30分間私は外来のストレッチャーの上に放置され、その後医者が吸引を試みましたが、ゼリーだけ吸引され虫は全く出てきません。耳鏡でつついて引っ張り出そうした医者は「黄色と黒の縞々が見えます!」と言いました。蜂だ!やはりあの痛みは蜂だったのか!!再び私はショックを受けましたが、「いやもう死んでいるので、何とか取り出しますから力を抜いてください。」と医者。足1本、2本、羽根1枚、2枚、原型をとどめない虫のお尻らしき部分が一つ一つ分解されて取り出され、耳鏡と先の尖った金属製の耳かきのようなものでつつかれまくっている私は必死に痛みをこらえますが、どうしても力が入ってしまいます。四苦八苦していた医者は「ここが大事ですから!」と言って最後の力を振り絞って、私の外耳道の壁に爪を立ててへばりついていたらしき虫の頭と両手のついた胴体を引っ張り出し、何とか無事虫の異物は私の右耳から全部取り出されました。全ての行程に約2時間かかりました。「こんなこと50年以上生きていて初めて!」と言うと医者は「この時期増えるんですよ、耳に虫が入っちゃた人。2週間前来たおばあちゃんも『82年生きてきてこんなこと初めて!』って言いました。こういう時はオリーブオイルを入れるといいですよ。」と教えてくれました。精根尽き果て全身が痺れていた私は、手先足先に少し感覚が戻り動かせるようになってから何とか立ち上がり、タクシー乗り場まで歩いて一人で帰ってきました。翌日近くの耳鼻科へ行って右耳を診てもらいましたが、「外耳道傷だらけですよ!」と言われ抗生物質を塗ってもらったものの、前夜の騒動で心身共に疲れ果てて全く意欲がわかず、二日後の水泳の大会は。当日朝まで右ふくらはぎをアイシングし、右耳が薬でポーンと詰まったままの状態で出場したのですが、結果は当然散々でした。
 どうしてこうも滅多にない(遭遇する確率の低い)悲劇に見舞われ続けるのだろうか?と落胆し呆れる私は、今後隕石が頭の上に落ちてきても驚かないような気がしました。
 「飛んで火に入る夏の虫」ならぬ「飛んで私の耳に入る夏の蜂」事件でした。
2016.8.3.

 しばらく諸事情によりこのエッセイを書けずにいましたが、ようやくパソコンに向かいました。昨夏のカンクン旅行後マヤの呪いは解けたと思っていましたが、その後も我が家・親族に青天の霹靂(へきれき)は雨霰(あられ)の如く降り注ぎ、その対応に追われていました。こんなに一度に(数か月の間に)身近な人が癌(末期も含めて)・心筋梗塞・脳梗塞・自動車事故・中毒・事件被害等に襲われることがあるのだろうか?と思わずにいられないくらい起こって、真剣にお正月二度目のお祓いに行きましたが、ご利益はなかったようです。その間常に私の中に浮遊していたのは「死」という概念でした。今のところ取りあえず皆「死」は棚上げ状態となっているのですが、皆~当人と私を含めて~一瞬は「死」を意識したものと思います。
 今年明けの10日に急逝されたジャーナリストの竹田圭吾さんの「癌が見つかってそれで人生終わりというわけではない。ちょっと種類の違う人生が続くだけのことなんですね。」という言葉を偶然テレビで聞いて衝撃を受けました。確かに私は身近な人に「さよなら」のお別れをしなくてはいけないのか、と覚悟したものです。しかしまだ皆さんご存命であることからも、それで即終わりを想像したことは本当に申し訳なかったと思います。実際あと10年以内には癌は不治の病ではなくなる、と言われているほど現代医学は進んでいるとこの度現場に接して知りました。昔の結核などのように。
 また「死」には3種類あって、自己の死である「一人称の死」、親や身内親しい人の死を「二人称の死」、その他見ず知らずの他人の死を「三人称の死」とします。上記の私の周りの近しい人達の中には、自分が末期癌に侵されていたと突然分かったにもかかわらず、全く変わらずあっけらか~んとしている人達がいました。末期癌と聞いて動揺していた私は、少し時間をおいて、失礼かと思いながらもおずおずと「どうしてそのように普通でいられるんですか?」尋ねたところ、皆同様に「だって自分のことのように思えないんですもん。えっ自分が?っていう感じで実感がない。全く自覚症状もないし。」と言うのです。逆に自分が癌になったわけではないのに、身近な身内の危機的事態を自分の事の如く「もうすぐにでも死んでしまって今後自分はどう生きて行けば良いか分からない!」と慌てふためき食事もできず足腰も立たなくなり、当人よりも先に自分の方が今にも死んでしまいそうな嘆き方で常態を保てなくなる人がいます。表面上は何とか取り繕おうとしていましたが、心の中では私もその一人でした。いわゆる「二人称の死」なのに、「一人称の死」の如く受け止めてしまうのです。それは特に配偶者(妻)が多い傾向にあります。当院にはこの「一人称の死」と「二人称の死」のショックから受診される方がいます。「一人称の死」は当然ですが、「二人称の死」も結構重篤でカウンセリング・薬物療法に長い時間を要します。少し前から自律訓練法を含めた心身回復ヨガを行っているヨガスタジオ・リーバでは、癌患者さんとその家族を含めた心身ヨガセラピーを始めたところでもあります。
 私も身近な人に癌を持った当初は、俄かには信じがたい驚きと触れてはいけない領域(タブー)のように感じて、当人に対してその言葉をなかなか発っせず、癌専門の病院へ初めて行った時は、「ここにいる人達は皆まもなく死んでしまわれるのだろうか?」とやや身が震える思いで歩いていたような気がします。急遽付き添って何度も何度もその病院に通う内に「癌」=即「死」ではなく、現代医学により5年生存率10年生存率は特段に上がってきていることを知りました。昔のように「癌告知」をするかしないか、と家族が医師に問われる間もなく、医師は即座に本人に直接検査結果と病状を説明して治療法を選択しよう、というスタンスなっていました。ショックを受けている暇もなく本人は今後を考えなくてはならないのです。しかし竹田圭吾さんもおっしゃっていたように「癌と闘う」というほどの壮絶さではなく、「癌とどう付き合っていくか」という具合です。「一人称の死」や「二人称の死」ということを嘆いている間もなく、どんどん検査と治療は進められていきました。気が付いたら全ての治療は終わり、以前の生活に戻ったのですが、何かが違う、そう「生」に対して本人も私も以前より真摯になっていることに気が付きました。今生きていることに大いなる有難さを感じ、今後生きていくことに対して緻密になったような気がします。竹田圭吾さんの言った「違う種類の人生が続く」、“人生の質が変わった”ような実感です。実際父は実に良い人になりました。母はボソッと「もっと早くこの病気になってくれていたら私は幸せだったのに。」と私に言いました。(笑い)
 私が驚愕した、末期癌⇒自己の死「一人称の死」なのに他人事のように話す人に、それは「一人称の死」を「三人称の死」の如く受け止めていたのではないか?と気付いて聞いてみたところ、「ああ、確かに、そうなのかもしれないな。」という答えがすんなりと返ってきました。精神が強いということではなく、受け止め感じる層が違っている、自分の心と身体が別々に感じられるということなのでしょうか、癌宣告により、「一人称・二人称・三人称」という意識が身体の上を浮遊する、その仕方が人によって異なるのではないかと考えます。しかし治療は「一人称の死」・「二人称の死」を「三人称の死」のように考えた方がうまくいくような気がします。自分や身近な人のことを少し離れたところから眺めて、マイナス思考よりプラス思考で癌と付き合いながら生きて行った方が質の良い人生が送れて、結果としてより少し長く生きられるのではないでしょうか。
 癌患者さんや病院に対していわゆる「三人称の死」として以前おそれ(懼れ・畏れ・怖れ)のような偏見を持っていた自分に対して今では罪悪感すら覚えます。果たして自分がそうなった時どのように感じ対処するのか分かりませんが、今では通い慣れた病院を歩く人々に「一日でも長生きしてください!」と心の中でエールを送って歩いている自分がいることに気付きました。
2016.3.8

 この夏、初めて中米の地と海を訪れました。メキシコのカンクンへの母娘旅行です。当初は、カリブ海のコスメルとマヤ民族の神の泉セノーテでダイビングすることが目的でしたが、最少催行人数に達せず、ジンベイ・シュノーケリングとセノーテ・シュノーケリングに変更せざるを得なくなりました。アエロ・メヒコという航空会社も初めて利用するので、やや緊張して乗り込みました。しかしボーイング787の飛行機内の空気はとても人に優しく、乾燥せず肌やのど・鼻に快適でした。機長の飛行技術もとてもレベルが高い!と感じました。15時間ほどでメキシコシティーへ直行、1時間半のトランジットの後2時間半でカンクンに到着しました。着いた瞬間口を突いて出てきた言葉は「あ~、日本の方が暑いわ!」でした。猛暑の日本より風が爽やかで陽の光も優しく感じました。

 カンクンを拠点にして、ユカタン半島の古代マヤ文明の巨大遺跡チチェン・イツァとトゥルム、セノーテを回りました。マヤ文明は、紀元前3世紀から12世紀にかけて繁栄した後忽然と姿を消したといわれています。天文学(暦)、建築学に優れ、そのミステリアスな信仰と神話など、ガイドさんの話を聞いているうちにどんどん引き込まれていきました。その中でも、神への生贄として生きたまま幼い子供の心臓を取り出して捧げたとか、蹴鞠のような球技で、勝った方のキャプテンが強いものの証として生贄として喜んで捧げられたなどの話は、過去のそういう事実があったその地にいて聞くためか、体の奥深く心(しん)の臓(ぞう)に染み入ってくるような不思議な感覚でした。日中の真夏の日差しの中遺跡巡りを終えて、神秘の泉グラン・セノーテへ。ユカタン半島は大きな山や川がなく、石灰岩の大地の下に濾されてできた迷路のような真水の路が繋がっていて、その天然の井戸のような泉=セノーテは、大昔からマヤ族の大切な生活用水・真水の供給源であり、宗教的に大きな意味を持っていたと考えられています。透明度がとても高く、深い所では30m程のケーブ(洞窟)ダイビングもできるのです。しかし真っ暗な淡水の洞窟の中を潜って進み、頭上の鍾乳石の岩などにダイビング機材が引っ掛かった客に巻き込まれて、ベテランダイバーでも亡くなることがよくあるとの事を現地で聞き、セノーテ・シュノーケリングに変更して良かった!と思いました。確かに水は綺麗で、洞窟深く潜っているダイバーの懐中電灯の光が水面からも見え、とても幻想的でしたが、「どこかであの生贄を捨てたチチェン・イツァの聖なる泉と繋がっているの!?」と思うと、少し背中が冷たくなる気がして、一人で遠くまで楽しく泳ぐことはできませんでした。

 もう1日、折しも日本の沿岸でサメが多数出没し遊泳禁止となるところが多かった時期ですが、何年か前にジンベイザメ目的でタイへ行って全く遭遇できなかったリベンジとして、カンクンから東へ1時間くらいのカリブ海(もうキューバが目と鼻の先の海域)に夏季、多い時は200頭ほど野生のジンベイが現れると聞き、シュノーケリングに行くことにしたのです。ジンベイザメというのは体長10m以上の世界最大の魚ですがとても大人しく、人を襲うことはありません。目的の海域に到着すると、次から次へとジンベイザメに遭遇し、人間の合間を縫うように真横まで来て、丸でザトウクジラのような体で悠々と泳いでくれました。その巨体に圧倒されながら、フィンを蹴って必死に追いかけましたが、最後は体を大きく翻して去って行ってしまいました。私は船と波とジンベイ酔いをしてしまい、念願のジンベイザメとのアイコンタクトは取れませんでした。

 メキシコ・カンクンのホテルはとても綺麗な高級リゾートですが、それ以外ではトイレのドアの鍵は日本の昭和の鍵フック型で、使用した紙は流さず屑籠に入れる方式でした。日本のTOTOがメキシコに行けばかなり儲けられるのではないか?と思いましたが、石灰岩とセノーテの特殊な地形上、先進国型の水洗設備は作れないのかも知れません。

 また道路を走っている車に注目すると、日本製の車はホテルやツアー送迎用の小型バスのような車はトヨタのものが多かったのですが、他には?とメキシコ人の運転手に聞くと、「ツル!」と返ってきました。「何のことだろう?」と思って走行しているその車を指さしてもらうと、なんと!30年くらい前の日産サニーではありませんか?「あれはサニーですよ。」というと、メキシコには大きな日産の工場があって、昔からタクシーはTSUTUなんだと言います。TSURU???確かにその車はいっぱい走っていてほとんどがタクシーで、テールランプの横にはTSUTUというエンブレムが付いています。理由を聞くと、最初にこの車のネーミングを考える時、メキシコ人は日本のイメージというと、「富士山の横に鶴が飛んでいる」絵図だったそうで、その鶴からTSUTUと名付けられたんだそうです。なるほど!でも車の中で、メキシコ人ドライバーがサニーを見つけては「TSUTU! TSUTU!」と連発している姿は、何やら滑稽で笑えてきました。

 因みにカンクンでは日本人も少ないのですが、あの世界中どこにでもいるイメージの中国人が全く見当たりませんでした。街中の看板や外来語の訳語もアジア系では日本語だけで、中国語は全くなし!中国ではカンクンはまだ知られていないのか?とさえ思いました。
お隣のキューバと中国は1960年以来革命を通して強い国交が気付かれているのに…?

 料理はメキシコ料理とイタリア料理が多かったのですが、一つとても美味しい日本料理店に出会いました。「花いち」という寿司と麺が主体の日本料理ですが、ランゴスタ御膳といって夏季限定で取れる ロブスター=ランゴスタ 尽くしの日本にはないメキシコならではのコースです。ロブスターの酢の物、ロブスターの天婦羅、ロブスター寿司、ロブスターの刺身、ロブスター味噌汁など、世界中あちこちで日本料理は食してみましたが、パリよりハワイより美味しい日本料理・寿司店で、カンクンでも高級料理店として有名でした。また、そこで食べている外国人たちの箸さばきもなかなか上手く、子供たちもちゃんと二本の箸を使って食べていました。世界遺産となった和食は確かに世界中に広まっているようです。ディナークルーズとしてカリブの海賊ツアーにも参加しましたが、日本人は我々二人だけで、娘は日本人代表として壇上に上げられ、300人以上の多国籍乗組客の前で日本語を教える役に抜擢され片言の英語で頑張りました。最後にフック船長から「beautiful Japanese lady!」と声掛けられ、日本に優しい国だなあ~と感じました。
取りあえず無事にメキシコ・カンクンから帰ってこのエッセイを書き始めた矢先、カンクンでタクシーに頭をぶつけ首が鞭打ち症のようになってきて、それがほぼ治った頃に飼い犬に右手を噛まれて使用不能となり、娘が食中毒で入院!と立て続けに災難に見舞われ、この紀行文が遅れてしましました。旅行後もずっと何やらマヤの神秘的な余韻に包まれながらいつもの生活をしているような気分だった私は、「もしかしたら連続する災いは、余韻の中に残るマヤの呪いのせいではないのか? 生贄の泉を写真に撮ってきてしまい、そこで買ったマヤの円盤状のカレンダーが災いの元なのではないか?」と考え、写真とカレンダーを近くの神社に奉納してきました。その後災いらしきことは起こっていません。精神医学とスピリチュアルとは別物ですが、アフリカにはまだ医学よりもシャーマニズムの方が信じられている所があります。現代でも科学的なものより目に見えない精神性の方が優位なことがあるのかも知れません。

 初めての神秘的な中米旅行を終えて思うこと~文化や歴史は違っても、マヤ民族の黄色人種で四角い顔や首が短くてずんぐりむっくりした体型は、同じ環太平洋のネイティブアメリカン、ペルー・インカ、エスキモー、アイヌ、(日本)と似通っていると思われます。大昔は太平洋の周りは地続きだったんでしょうね。何やら不思議な縁(えにし)を感じました。次に機会があったら、南アメリカへも行ってみたいなと思います。
2015.10.12

 しばらくエッセイお休みして申し訳ありませんでした。4月末から競泳のマスターズとGW明けには初めてのフィンスイミングの全日本選手権に出場し、その後も所属クラブのマスターズ大会があり、7月20日にジャパンマスターズが終わってようやくほっと一息ついています。その間何度もエッセイを書きかけたのですが、地球規模での異常気象が続き、なぜか春以降患者さんが増えてきて、書き切れませんでした。

 日本では、桜島、口永良部島、箱根山、浅間山の爆発・噴火、関東や九州・沖縄での地震、異様に空気が澄んでいた4月と5月の真夏日、梅雨時期の大雨と台風、梅雨明けの猛暑、毎年毎年異常気象と言われているような気がしますが、それは人間から見た表現であって、地球から見たら、いつも季節が巡ると同じように気候のパターンが繰り返されていたわけではないのかも知れません。
 今の人間が知り得る過去数千年はそうだったかもしれませんが、我々が知りえない過去には違うパターンがあったかも知れません。どちらにしても『地球は生きている』と確信している私には、この異常気象も人間がもたらした功罪だと思えるのです。
 またそのせいか、今年は5月のGW明け例年以上に5月病らしき人が多く受診し、新入生・新入社員・新任教師と年齢・職種の幅も広がりました。しかも人(上司・同僚・先生・同級生)に反応する人や、仕事や勉強の難しさにヘタレる人が多い印象でした。そのほとんどが適応障害なので、原因から遠ざかればすぐ軽快するので、治療は短期間で終了するのですが、これらをうつ病と診断して、長期に休ませたり、多くの薬を服用させたりするのは間違いだと思います。
 最近「レジリエンス」という言葉を聞くようになりましたが、「抵抗力」いわゆる昔でいうと「根性」ですね、それを強めなくてはいけない、と。私が精神科医になった30年位前、スポ根で育った私は、登校拒否に対して「嫌なら学校行かなくてもいいよ。」という声掛けが主流になったことに、大きな違和感を抱きました。驚きというか抵抗感というか…。

 近年はそのスポ根精神の先輩が後輩に怒鳴るだけで、「パワハラ」だの「モラハラ」だのと訴える人が増え、戸惑いを隠せなくなっていた私です。それがようやく「少しは強くなろうとしないとといけないよ!」という風潮が出てきてほっとしています。ただ傾聴と共感だけでは、何も事態は解決しない!と実感していた矢先だったので、今年は5月病的な患者さん達にも少し背中を押すように心がけています。結果としては、概ね良好な経過と結末となっています。フィンの大会も水泳のマスターズも自分の限界に挑戦して猛練習を重ねた結果、実は大した進化は達成できませんでしたが、年齢が進んでも退化しないことが成果かと思って、小さい頃の「努力と根性」を座右の銘にして、もう一度秋に向かってトレーニングしなければ!と猛暑の夏に決意を新たにしている私です。
2015.7.23

 中国の春節に当たる2月日本の各地は中国人の観光客でごった返していました。2月初めに原宿の美容院へ行った際、1年前はあった駐車場が、外国人観光客が増えたとのことで一斉になくなっていて、車を止めるのにかなり離れたところまでうろうろせねばならず、大変な思いをしました。原宿・表参道などは、中国人に限らず、近年世界各国から外国人観光客が押し寄せてきていて、経済的にかなり潤っているようです。2月の連休の時、実家からの帰りの新幹線にお土産を置き忘れて東京駅まで取りに行った際も、八重洲口の駅構内を走り回っている間、中国人らしき家族連れや団体に数多く遭遇しました。手にいっぱいの荷物を持ち抱えながら、まだどこかへ行こうと画策している様子でした。大丸デパートの館内放送は日本語や英語ではなく中国語ばかりで、「ここは中国?」と錯覚しそうになったほどです。
 しかし思えば私が初めて海外に行った1989年、花の都パリで日本人がこの中国人と同じような振る舞いをしていました。当時日本はバブル景気真っ盛りで、団体ツアー客がコンダクターの旗の元、シャンゼリゼを闊歩し、ブランド品を買い漁っていました。歴史ある有名なパリのカフェで、日本人の中年おじさんがパリジェンヌの店員さんに向かって大声で「お~い、姉ちゃん姉ちゃん!」と日本語で呼びつけている光景を目にしました。いつも新橋辺りの飲み屋街でそうしているのか、日本でと同じように日本語振る舞っている姿に、同じ日本人として恥ずかしくなりました。フランスは自国の言語と食文化には崇高な誇りを持っている国です。不機嫌そうにツンとして無表情のそのパリジェンヌを見て、「郷に入りては郷に従え!」という言葉が私の頭に浮かびました。また高級ブランドのエルメス本店に記念にスカーフを買おうと入りました。するとガラスのショーケースの上に誰かが見た後のスカーフが10数枚山盛りになっていたので、その中の物を見ようと手を出したところ、横にいた日本人の20歳代の女性が私の手をはねのけ、そのスカーフの山を全部腕で囲い、「これ全部頂戴!」とケースの向こうに並ぶ数人のパリジェンヌの店員に命じました。「えっ、1枚数万円はするエルメスのスカーフなのに、若いOL風の日本人がよく吟味もせず蜜柑一山を買うかの如く買い占めるなんて!同僚や友人達へのお土産?」と、医者になって数年目の私は唖然としました。パリジェンヌの店員たちは憮然として対応しています。母国の誇り高き高級品で、彼女らだってそんない簡単には買えない、何年も働いてようやく買えるかどうかの代物です。不愉快になるのは当然でしょう。私はその後、吟味に吟味を重ねた末にようやく1枚だけ気に入ったスカーフを買いました。そして店を出て扉が閉まった直後、免税手続きを忘れたことに気付き、再度扉を押して中に入り、対応してくれた女性店員に免税手続きを申し出たのですが、「ノン!今あなたは店の外に出た。手遅れだ!免税手続きはできない!」と断られてしまいました。何度か食い下がったのですが、先ほどの日本人女性のせいか、同じ日本人観光客の私に冷たい表情で目も合わせず「ノン!ノン!」と言って一切取り合ってくれませんでした。こういった日本人の横暴な振る舞い、外国においても日本にいるのと同じように振る舞いその国のしきたりや文化をないがしろにする日本人が当初は多かったのです。
 しかし8年後に再び学会でパリを訪れ、同じエルメスの店に入った時まずびっくりしたのは、店員のパリジェンヌの愛想の良い笑顔と「いらっしゃいませ!」という日本語でのお出迎えでした。しかも日本人専用の階(コーナー)ができていて、そこへ年配のフランス女性に案内されて行き、丁寧に接客され、もちろん免税手続きもしてくれました。買った後は出口まで品物を持って誘導してくれて、最後は「ありがとうございました。またお越しください。」と流暢な日本語でにこやかに深々と頭を下げて挨拶をして見送ってくれたのです。完全に日本風接客をマスターさせられているパリの高級ブランド店員になっていました。8年の間に何とフランスは変わったことか!と驚き唖然としました。これも日本人観光客が増え、その経済効果でさらにフランスが潤うための戦略なのでしょうが、8年前シャンゼリゼ通りに初めてマクドナルドができた時(私も唯一安心できるので入ったのですが)、英語の看板とファーストフードに対する批判が炸裂していた覚えがあるのに、ここまで外国文化に媚びへつらう国になってしまったのか、とやや落胆し興醒めしました。
 昨今の中国人の爆買いとマナーの悪さと同じようだった時代が日本にもあるのです。経済成長著しい新興国が、海外に出始めた時に起こす現象の一つでしょう。新興国は自国が日本が世界の普通だと勘違いしやすいのですが、世界から見ると自国は世界の非常識といえるところが多分にあります。自国の外では、その国に合わせて言動をすることが絶対に必要です。中国は日本から数十年遅れて発展してきている国ですので、いつの日か日本や世界にマナーを合わせてくれる日が来ることを祈念したいと思います。
2015.4.1

 高倉健さんが亡くなった。一瞬「えっ!?」と私の中の何かが止まった気がした。特別熱狂的なファンではなかったが、一昨年秋にテレビのバラエティー番組に出演されているところを偶然見て(めったにその番組は見ないのだが)、「あっ、健さんでもバラエティーに出るような時代になってしまったんだ…」とちょっと驚きというより残念な気持ちを抱いた覚えがある。銀幕のスター「高倉健」が身近なおじさん(おじいさん?)に見えて、良い意味で親しみを感じたというのではなく、雲の上の近寄りがたい最後の日本男児が下界・俗世に下りてきてしまったというある種の落胆である。あの時私の中で「高倉健」は死んでしまった。ので今回訃報を聞いて「ああ、やっぱりいなくなってしまわれたのか…」という想いが心の中にポッカリ浮かんだ。私は任侠映画時代の高倉健は知らない。「幸せの黄色いハンカチ」以降の健さん映画を大学時代かなり凝って見た時がある。美空ひばりと同い年の母が「高倉健が日本で一番いい男だ。」と言ってファンだったこともあり、江利チエミと結婚・離婚したことも驚きだったが、武田鉄也が「幸せの黄色いハンカチ」に出ている姿を見て「どうしてフォークソングの歌手が映画に出るの?」と当時としては不思議な起用に驚いた記憶がある。路線を大きく方向転換して孤高に生きる健さんにブレナイ自我の強さを感じ、日本男児の象徴として“決して死なない”イメージがあったのに、「あの健さんでも死んでしまうのか…」と“生ある者は皆必ず死する”、という当たり前のことを再認識し、同時に自分の生まれた昭和が終わってしまった、という気分になった。健さんと言えば、硬派。「硬派」…そして「大和撫子」「亭主関白」「三歩後ろを歩く」などの言葉はもう死語に近いものとなっている今の平成日本。面白くなければ女の子にもてないという軟派男児や草食系男子が増え、テレビもお笑い系ばかりで、堅い番組が数少なくなっている。私が歳のせいで考えや志向が古いのかも知れないが、本当に健さんのような男性を周りで見なくなったと実感する。年末、指を怪我した私は泳ぐこともできず、健さんの遺作映画を立て続けに観た。しかし、「駅」「幸せの黄色いハンカチ」などは昔(35年位前)観たはずなのに、錆の部分以外ほとんどあらすじもシーンも覚えていなかった自分に唖然とした。本当に歳をとってしまった、と。遺作映画となった「あなたへ」の健さんの歩き方・後ろ姿に、80歳を超えた父の姿が重なった。いつか父にもこのような日が来るんだ…、と。胸が詰まる想いがした。
 さらに年末、訃報が飛び込んできた。2歳下の私の後輩が二人急死と病死したという。ショックだった。あんなに元気だった彼が、前日までジムで見かけた彼女が、と。人の一生とは儚いもので、いつか自分にも来るもの、いつ突然来てもいいように覚悟しておこう!と思った。そして年末年始の6日間は大晦日も元旦も朝から深夜までずっと書類のダンシャリに明け暮れた。30年分の論文・文献や、引っ越し以来15年間開けていなかった段ボールの中の学問・仕事関係の書類を1枚づつ目を通して整理して一つの引き出しにまとめ、あとは大量処分した。すっきりした!海外旅行に行くより。しかし年明け手伝ってくれた父が倒れた。「本当に死んでしまう!」と不安になった。急遽朝一の新幹線で駆けつけ救急受診させ、原因を解明し何とか回復傾向に向かっている。正月から半月経ってようやく皆で行けた墓参りでは、我が家の墓にだけ花がなく、眼前に広がる雲一つない青空にそびえる御嶽山は、もう噴煙を上げておらず、代わりに美しい雪を頂いていた。あそこにまだ何人もの人が埋まっていると思うと、「自然とは残酷でもあるなあ」との想いを抱いた。
2015.1.21

 9月の連休に、お彼岸と30年前に亡くなった祖母のお墓参りと敬老の日(さらに私の記念すべき誕生日も)を兼ねて、多治見の実家へ帰りました。盆地である多治見市の南西の山の上にある我が家のお墓から、東の御嶽山が晴れた日にはよく見え、雲一つなく晴れ渡ったその日の朝も、昔爆発してできた大滝崩れの跡までくっきりと見えました。祖母が眠るお墓の真正面に御嶽山を眺めて一休みしながら、「そういえばあの爆発はいつだったかねえ?おばあちゃんの死ぬ前だったか後だったか?」と父に聞くと、「確か前だったと思うよ。だからもう30数年前だね。」と答えが返ってきて、「しばらく静かだからそろそろ危ないねえ。」と会話を交わしたところでした。その2週間後奇遇にも御嶽山は水蒸気爆発しました。しかも35年前より被害が大きく、いまだに行方不明の方々がいらっしゃるという状況が続いています。実家からは毎日噴煙が上がっているのが見えるとのことです。私はそういう山々に囲まれたて育ったせいか、逆に海に対する憧憬の念が強いのかも知れません。
 しかし戦後最大の火山噴火被害となった今回の御嶽山の爆発に加え、その後台風18号・19号と次々に大型台風が日本列島に上陸し、自然災害によって亡くなる人の報道は後を絶ちません。美しい山の紅葉を見ている時急にその山が爆発し、鉱物の巨岩が頭の上から降ってきて、直前まで「今日、今、死ぬ」と思っていた人はいないでしょう!台風でも地震・津波でも雷の被害でも同様で、自分の寿命が今日尽きるとは誰も思わずに生きていたでしょう。直前に一瞬は覚悟するのかも知れませんが、自然災害、というか地球・太陽系の現象に巻き込まれた時、人間という生物はなんと儚い存在なのか。人間が蟻や蚊を安易に潰して殺すように、いえもっと小さい微生物に相当するかもしれません。
 人間の寿命は80歳くらいですが、このようにもっと早く突然終わりが来るかも知れません。クリニックには先のことばかり心配する人が多く来院されますが、それは今の世の中がこのまま続くと想定した上での予期不安であって、条件が正しくありません。未来は予測不能に変化するのであって、今が続かないことだけは確かです。だから、今、今日一日をもっと大事に前向きに生きなければならないのではないでしょうか。不安の強い人には「今日の晩御飯のことまでしか考えないように!」と言っています。今・今・今の連続が過去から未来に続く時間の線~人生~になっていくのです。いつ果てるか分からない自分の今の命。過去を悔いたり、未来を不安がったりする時間があるのなら、「今」に集中して生き、より良いプラスの「今」を連続させて、自分の人生時間を実のある豊かなものにしていきたいですね。
 御嶽山噴火で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。  
2014.10.16.

 この夏はかなりの時間を海の上もしくは海の中で過ごしました。というのは、2011年の東日本大震災以降日本の海に入ることを控えていた私が、もう一度海を確認してみよう!と思うようになったのです。

 土曜日の診療後即成田空港へ向かい、4時間強のフライトでその日の内にはパラオに到着し、翌朝からダイビングショップ・デイドリームさんの龍馬号というクルーズ船に乗り込んで、洋上に停泊している船で寝泊まりしながら一日中ダイビングをしていました。パラオ共和国は、日本との時差はなく北緯8度に位置し、太平洋戦争中日本領だったこともあり、日本語が所々残っていたり、流暢な日本語を喋る人がいたりする親日国です。残っている日本語としては、以前行ったジープ島のあるトラック諸島と同じく、「ベンジョ」「チチバンド」「エモンカケ」などがありますが、一緒にダイビングしていた30代の日本人男女は「衣文掛け」が分からない!とのことで驚かされました。外来語の「ハンガー」が行き渡りすぎて、なくなりつつある古き良き日本語がパラオの地で生きているんだなあ、と不思議な気分になりました。また、「パラオには天気予報はない!」と最初に聞かされ???と思っていたのですが、海に出るとすぐにその意味が解りました。太陽と風と潮によって、水に覆われた地球は、水蒸気が上がって雲になり雨が降ることを繰り返している、そして天気は一日中変化するので、予測がたてられず、その意味もないのです。良く考えたら、その頃日本を襲っていた台風はパラオの辺りで発生することが多いものなのです。潜り終わって水面に出ると晴れていた空が雨になっていたり、強風で停泊している龍馬号がクルクルと回っていたりする日もありました。また二日目は満月に当たり、夜船の屋上に上がると、明かりはなく真っ暗なはずが、眩しいほどの月明りで360度空と海が照らされ薄明るく浮かび上がり、まるで私がその景色を独り占めしているようでした。電気など全く必要ありません。星ももちろんいっぱい明るく輝いていましたが、月の模様が日本で見るのと違ってくっきり鮮明で、ちゃんとウサギが臼を突いている姿に見え、日本の空がいかに濁っているか思い知らされました。早朝6時まだ日が昇る前からスピードボートでダイビングポイントまで行って潜るearly morning diving、一旦龍馬号へ戻って朝食後またボートで午前2本、龍馬号で昼食を取って午後ポイントを変えてもう1本、夕食後7時半から9時過ぎまで、真っ暗な海でnight diving(mid nightもある)と1日最高5本(31%のネンリッチド・エアータンクを使用したため普通の酸素ボンベより長く沢山潜れるのです)と、{海に潜る―食べる―寝る}だけの生活でした。もちろん洋上なので、電波は届かずWi-Fiもなく、テレビ・携帯電話・メール・インターネットはできず、初めは残してきた娘のことが気がかりで落ち着きませんでしたが、しかし諦めると却ってその方が俗世から切り離され落ち着いてきました。いかに俗世は情報に翻弄されているかがよくわかりました。龍馬号では、そこにいる数人の人間としか交流がなく、海の中では海の生き物と水を介した非言語的コミュニケーションを試みるしかありません。最終日の早朝ダイブでは、なんと待ちに待ったジャイアントマンタの朝ご飯に遭遇し、1時間近く私たちの周りを回遊してくれました。時に私に近づいてきてくれたように感じ、その優雅な姿に感動しながら昼には岐路につきました。

撮影:森本茂夫氏

 翌早朝4時にパラオを飛び立ち、9時には成田へ到着、昼前に自宅に帰ると、すぐにまたパッキングをし直して御蔵島(東京都)でイルカとモノフィンダイビングをするために夜竹芝へ向かいました。午後10時半出航して、板の和室で雑魚寝しながら(もちろん寝心地は最悪!)三宅島経由で朝6時に御蔵島へ到着、8時半から小舟で島周辺に住んでいる野生のイルカに会いに出かけました。御蔵の海はタヒチと違って黒く荒々しく、海の中には珊瑚はなく大きな丸い石がゴロゴロ並び、海水はパラオに比べて格段に塩辛く口に入ると大変でした。私は初めてモノフィンで海に入ったのですが、黒潮の流れが速く船は大きく揺れ、フィンの脱ぎ履きに手間取り、船の中で何度もひっくり返りました。島一周約2時間に最多で8回までイルカを見かけると皆一斉に海にダイブすることを繰り返すのですが、時にはイルカに逃げられてしまうこともあり、海の透明度が悪くイルカが良く見えないこともあります。イルカを見かけると、ジャックナイフで海底7~8mまで一気に素潜りし、群れの中に入っていきます。呼吸が続く限りイルカと戯れようとするのですが、なかなかタイミングが合わず、更にビデオを撮ろうとすると体力の消耗が激しく、1本潜って次に潜るまでエネルギー回復に結構時間を要するのでした。しかし1回目にかなりの数のイルカたちと遭遇し、途中で1匹のイルカが私の所へUターンしてきてくれ、「一緒に遊ぼ?」と言っているかのように体を私の目の前に寄せてつぶらな目で視線を合わせて誘いました。水は空気より感情を伝えやすいということですが、確かにそのイルカの心は私に伝わりました。私も「よ~し、行こう!」と答えて一緒に海中をぐるぐるモノフィンで天に地に右に左に乱舞した挙句、サーッと踊りに飽きたのかイルカは去っていきました。ビーフィン(二枚の足ひれ)よりモノフィン(二本の足を揃えて履く一枚板の足ひれ)の方がはるかに速く泳げイルカについていけましたが、私の息はイルカほど続きません。海上に上がり、一回呼吸をし直してまたジャックナイフで潜りましたが、群れは遠くに見え、モノフィンでも追いつけませんでした。船に上がった途端、船酔い波酔いイルカ酔いで激しい吐き気に襲われ、私同様イルカに弄ばれた人間でいっぱいの船になっていました。御蔵島のイルカにはID名前が付けられており、子供や孫の確認も取れて系統図もあります。イルカはビーフィンよりモノフィンに興味があるようで、それを履いた人間を一人ひとり確認して回っているようでした。1日2周船で回り、最終日の朝は6時から潜って再び船での岐路についたのですが、結局イルカに翻弄されてロクなビデオは撮れずに終わりました。

 1週間ほとんど海水浸しの夏休みを終え、今夏の締めくくりとして8月31日逗子湾でのオープンウォター2.5kmビーフィン部門に初チャレンジすることにしました。その前3回湘南へ海泳ぎの練習に行きましたが、波のうねりと水の量、潮の辛さはプールとは全く違い、前方確認しつつ泳ぎも変えなければならず、かなり勝手が違いそうだ、と感じていました。午前9時5分海水温22℃曇り空の中フィンを履いて一斉に海中スタートしました。クラゲと寒さ予防にラッシュガードを着ていたので、泳ぎ始めると快適な水温に感じ、透明度も良く波も穏やかで絶好のコンディションでした。しかし満潮が8時半と聞いたので、1.25km先のブイからの折り返しの方が大変なのではないかと予想して、行きはゆっくり波に乗りながら抑え目に泳ぎました。それでも時々顔を上げて前方の目印を確認すると、在らぬ方を向いていて慌てました。左右に蛇行しながら何とか折り返しのブイまで泳ぎ着き、Uターンすると一気に波が変わり、泳いで体を進めることがきつくなりました。引き潮に逆らって泳がなくてはなりません。また湾の外海近くなのか左右から寄せて返す波に両方向から大きく飲まれ、体は大きくもんどり打ちます。顔を上げても目標物は見当たらず、ブイも波で見えません。自分が一体どちらの方向を向いているのかわからず、ただ右に左にコースを大きく外れていることはライフセーバーの誘導で予想できたのですが、どこが正しいまっすぐなコースか、どう修正してよいかの分からなくなり、周りに同泳者は見当たらず、大海原に自分一人ビリで置いてきぼりか迷子になっているような心細さに襲われます。ゴールから左右に90度はぶれてジグザグに泳いでいたと思われます。ここで慌てて不安になると恐怖心からパニック状態に陥ってしまうと思い、ひたすら冷静に「人影と船に向かって泳げばいつか活路が見いだせる!」と自分を落ち着かせ、時々立ち泳ぎもしました。ようやく女性ライフセーバーに「ゴールはどこですか?」と聞いて目印を教えてもらい、湾内に入って横波もなくなったので、最後500mは落ち着いてまっすぐ泳げました。海底の砂模様が見えてきた時は、「やったー!到着だ!」と安堵しました。ちょうど50分でゴールした時は、潮で口は辛く乾き、疲労で酷い顔だったはずです。給水を取る余裕もありませんでした。トータルで2.7㎞は泳いだでしょう!結果は女性の部で全年齢中6位でした。ゴールしてみると、やはり疲労や波酔い、低体温症、パニック状態でリタイアした人が結構いたようです。とにかくタイムや順位より初挑戦で完泳できたことに万歳!です。いつも日本の海水浴場ではブイより遠くへ泳いで行けないので、大手を振ってそれより先に泳いで行ける!との思いから参加した海の大会でしたが、やはり外洋では安易に泳がない方が良いということを学びました。
PS.) しかし日本の海は外国より潮辛い!です。
2014年9月

 サッカーのW 杯はドイツの4度目の優勝で幕を閉じ、私の32日間に及ぶ睡眠不足との戦いの日々もようやく終わった。実は私は昭和53年の第11回W杯アルゼンチン大会から36年間サーカーフリークである。高校生の頃、深夜の「三菱ゴールデンサッカー」というテレビ番組を一人で密かに見ていた。そして当時は日本など出場に全く手が届かないW杯というオリンピックより盛大な世界的なサッカーの祭典を見て興奮していた。好きが高じて、大学時代テニス部がオフの冬サッカー部のマネージャーを引き受けることになり、試合のスコアラーを務めたこともある。1978年マリオ・ケンペスに魅了されて以来のアルゼンチンファンである。ユースで優勝した時のマラドーナとディアスの若き日の顔がついこの間のことのように思える。プラティニが名古屋の瑞穂サッカー場のこけら落としに来た時、初めて芝のサッカー場での試合を見て驚いた。というのもそれまでサッカーは土のサッカー場でしか見たことがなく、20歳頃のラモスが名古屋に来た時、積雪で泥んこになり、時にボールが止まる試合を観戦していた覚えがあるからである。1985年静岡でレジデントをしていた時も、時間を縫って草薙競技場へ高校サッカーの静岡県予選をバイクで足繁く見に行っては将来のスター選手発掘に目を輝かせていた。そこで最初に見つけたのが、武田修宏君である。「この子は将来スターになる!」と。

 W杯の主だった試合は全部ビデオに撮っていた。1986年アルゼンチンが優勝した時のマラドーナの5人抜きや神の手も当然VHSに撮ってあるが、結果を知ると見直さないのがサッカーの試合である。ブラジルのジーコやソクラテスらの黄金のカルテットも見ていた。当時は圧倒的に南米のサッカーの方が魅力的だった。1990年ブレーメが蹴った鋭い左足のキックがゴールネットを揺らして西ドイツ(当時)が優勝した時、子供のように泣いているマラドーナの姿は痛々しかったが、ドイツは強い!と思ったものである。そして1993年のJリーグ発足時、日本でスキラッチやジーコ、リトバルスキーといったW杯のスターたちがプレイしている姿に驚き頬をつねったこともある。しかしそれから急に増えた俄かサッカーファンに圧倒されてかやや私の中のサッカー熱は冷めていった。’94アメリカ大会のバッジオのPK外し、ドーハの悲劇、’98フランス大会の中山の初得点、そして’02の日韓大会へと時は進んでいった。日韓大会では事前の抽選で54通り中2会場8名分当ったため、札幌でのドイツ-サウジアラビア戦と、仙台でのメキシコ-コスタリカ戦を見に行った。目の前でクローゼのヘッドでのハットトリックを見て、「すごい選手が出てきた!日本のサッカーなんてまだ子供レベルだ!」と痛感したものである。彼の跳躍力というか得点感覚は、眼の前で生で見ると人間というより動物に近いものがあり、サッカーを見ているというよりアクロバットでボールが操られているように感じた。予感通り、今年のW杯でクローゼは世界歴代第1位の得点王になったではないか。そして新横浜での決勝戦も直前でチケットが手に入り見ることができた。試合開始前のセレモニーが始まり、予選から参加した世界中の国旗が紙吹雪と共にサッカー場の天井から次々に下りてくると、私は全身が感動で満たされ震えだし、思わず涙が溢れ出て人目も憚らずウエーブと共に泣き続けていた。「ワールドカップの決勝戦!一生に一度かも知れないこの瞬間ここにいられるなんて!夢のようだ。」と。今回開幕戦の国歌斉唱でネイマールが泣いていたのも同じ気持ちなのではないかと思う。私はドイツの大きな山高帽をかぶって応援していたが、ブラジルが優勝、しかし出口からの帰り道では、ブラジルサポーターのおじさんたちと肩を組んでサンバを一緒に歌って踊りながら歩いていた。サッカーを愛する気持ちは世界共通、試合が終われば敵味方はない!と思ったものである。中田英寿選手が引退してから、私のサッカー熱はやや萎んでしまった。’06ドイツ大会は私のお眼鏡通りクローゼは得点王になったが、南アフリカ大会の記憶は治安の悪さのせいか興味が持てずあまりない。

 そして今回のブラジル大会、本当は観戦に行きたかった。そして今回は日本も多くの選手が海外プロリーグでプレイし、世界でのレベルアップが見られるかもと、期待した。

 初戦のコートジボアール戦、前半本田のゴールで先制したが、コートジボアールのサッカーは力強く綺麗だと思った。集中力も途切れず、心の底で「やばいぞ、強い!」と思った。後半ドログバが登場すると、データラボッチでも見たかのように、勝っているのに日本選手たちが皆浮き足立ち始めたではないか!まずはザッケローニ監督が一度入れようとした交代選手を引っ込めるという動揺を示した。イタリア人監督の顔が日本人に見えたのは私だけだったろうか?「勝ってるんだよ!」と叫んでも当然届かず、逆にコートジボアールの選手たちは生気を吹き込まれたかのようにリズムよく動きだし、あっという間に2点奪われ、そのまま敗戦になってしまった。ドログバ・マジックをかけられたようだった。その後私は専門家の立場として、ドログバという選手は何かシャーマン的なものを持った人なのだろうか?という興味から、コロンビア-コートジボアール戦を凝視した。日本戦と同ように後半途中から登場し、いきなりコーナーキックにヘッドを合わせて弾き出した。やはり?と思いきや、その2本目のコーナーキック、ドログバの前にすっと出てきてシュートを決めた選手、それがハメス・ロドリゲスだった。ドログバを一人間としてものともせず、果敢にその前に出て打ちのめした。その後もロドリゲスは私が見たこともないカウンター・キラー・ライナーパスを前線に蹴って、一発でシュートを決めさせる離れ業をした。彼とコロンビア選手たちはドログバ・マジックなどにはかかっていない!という強い精神力を感じた。ということは日本がメンタル面で弱い!ということである。ロドリゲスをはじめとする世界は技術もメンタルも日本をはるかに上回っている、と痛感した。日本は強くなったかも知れないが、世界もさらに上のレベルで強くなっている!これは勝ち目がない、というのが開幕間もない私の印象だった。第2戦のギリシャ戦もレッドカードで相手が1人減ったのに、負けているかの如く暗いメンタルを引きずったままドローに終わった。当然第3戦のコロンビア戦は、後半ロドリゲス投入で一気に3点追加されて負けた。1軍対2軍の戦いのようだった。
 その後ロドリゲスは私の先見の明の通り得点王になったが、破ったブラジルも、ネイマールの負傷欠場で、前半30分で5失点と大敗。私はあまりに惨い試合に耐えきれず、準々決勝からは全試合ライブで観戦したが、この試合だけハーフタイムでテレビを消した。開催国なのにあまりに残酷で見ていられなかった。コールドゲームにしてあげれば、とさえ思った。それほど、ブラジルは精神的に脆く立て直し不可能だった。元々ブラジル国民とはそんなに陽気ではなく、ナイーブで湿っぽい性格である。サンバを陽気な音楽と踊りだと思っている人が多いようだが、実はアフリカから黒人達が奴隷として鎖に繋がれ船で南アメリカへ送られてくる道中、悲しみを打ち消すために皆が歌い始めた音楽がサンバである。若い頃ラテン音楽を少々やっていた私は、歌いながらその悲しみ・哀愁を痛感したものである。クリニックにも故郷から遠く離れてうつ状態に陥ったブラジル人が時々来院し、一度落ち込むとなかなか立ち直れない傾向がある。案の定、結果に落胆したブラジル国民には、自殺者も出たし、暴動も起きた。’94アメリカ大会でもコロンビアがオウンゴールで負けた後エスコバル選手が殺された事件もそうだが、南米サッカーは魅力的な反面、感情的過ぎるのではないか。ウルグアイのスワレス選手の噛み付き事件や、試合に負けると見ている方が感動するほど泣いている南米選手などからも。(欧州の選手は敗戦後大泣きしていただろうか?)アフリカ勢やアメリカも健闘し、予選敗退したがオーストラリアやイランもかなり強くなった!と唸らされたほど好ゲームが続く中、決勝は最初に予想した長年私が応援し続けているドイツ・アルゼンチンの2国となった。できれば両チームとも負けにしたくない!延長・PKでもずっとドローでいってほしい!と願った。アルゼンチンチームにはできれば決勝ではディマリオに出てほしかった。全く違うタイプのサッカーをする欧州と南米チームの対戦で、120分間集中して全く飽きなかった。36年間サッカーを見てきた中で、文句なく最高の試合ベストゲームだったといえる。良いものを見せてもらった!と感動した。しかしドイツは強かった!良く似ているが、私は’90マテウス率いるベッケンバウアー監督のチームの時より強かったと思う。最後は心なしかアルゼンチンの方を応援していた私であるが、ほぼ互角の戦いの末、PK で決着するよりすっきりした結末だったかもしれない。終わってみれば、判官びいきで「メッシに勝たせたかった。」という人が多かったのではないか。

 結局決勝リーグに進んだチームは皆メンタル面が強く、オランダを含む3強は特に強かった。実力・技術・チームワーク・監督采配以上にメンタルの強さが必要だと実感した。事実後で知ったが、あのハメス・ロドリゲスのコロンビアは、やはりメンタルトレーナーがしっかりついてコントロールしていたらしい。日本チームにもいるのだろうが、効果は全く表に出ていない。ブラジル同様優しさとか繊細さとかは日本人の良い点でもあるが、戦争代わりの平和的スポーツの戦いにおいては不味かろう。今後是非強化すべき点であると思われるが、まだ日本にはあまり根づいていない分野である。スポーツ精神医学会に所属してトップアスリートのメンタルケアを垣間見ている立場からも、選手・治療者双方にその意識と絶対数が少ないのが現実といえる。今回のブラジルW杯での日本の敗戦ショックはかなりのものだっただろうが、「自分たちのサッカーができなかった」というより、それが実力であり、世界も同様に進化しており、やはりまだまだ世界との力の差は縮まっていなかった現実を受け入れるべきであろう。もしかしたら、海外組と呼ばれる選手たちが増えて世界に近づいた印象を持ったかも知れないが、それが温床として油断になり貪欲さや危機感が薄れたのかも知れない、と思った。2020年東京オリンピックや次回ロシアW杯に向けてどこまで日本のスポーツは向上させられるのであろうか?スポーツ精神医学会に所属している自身にとっても切実な課題だと思わされた大会だった。
2014年7月

 このGWは15年来の念願だったグランドサークルを巡る旅を敢行してきました。グランドサークルとは、アメリカ合衆国南西部のアリゾナ州とユタ州にまたがる半径約230㎞の円内地域をいい、太古からの神秘的な奇岩やダイナミックな景観など、むき出しの地球を見ることができ、古代先住民の遺跡及びそのネイティブアメリカン最大のナバホ族の居留地が含まれてもいます。国立公園や州立公園、世界遺産なども数多く、今回はラスベガスからグランドキャニオン~モニュメントバレー~アンテロープキャニオン~ホースシューベントを車で回ることにしました。いつも海ばかり行っている私にとって、浮力に頼らず重力と戦わねばならない山の行程は、やや不安を伴うものでした。

グランドキャニオン

 東京の辰巳国際水泳場でマスターズの4レースに出場してほとんど一日中プールで過ごした日の深夜便で羽田から飛び立った私は、着いた朝ラスベガスを出発した車中ひたすら眠っていました。目が覚めるとそこは別世界!人間の歴史よりはるかに長い時間をかけてコロラド川が研ぎ澄ました赤茶けた奇岩の壁、地球の大きな地殻変動と風雨による浸食などの大自然が作り出した驚異の光景グランドキャニオンが目の前に広がっていました。その長さは446㎞(東京~米原に相当)、幅は13~26㎞、深さは1600mと雄大で、日没の夕陽と日の出の朝陽に照らされキャニオンの凹凸が刻々と異なる色合い・表情を見せる様を気温1℃の寒さに耐えながら鑑賞・感動し、本当にいつか誰かが言った「ここに立つと、今まで自分が悩んできた諸事が、何とちっぽけなことだったのか!と思える。」という言葉が自然と脳裏に浮かびました。

モニュメントバレー

 様々なポイントからグランドキャニオンを鑑賞した後、アメリカの原風景と言われるモニュメントバレーへ移動しました。数々の映画のロケ地となった巨大なビュート(赤い岩の残丘)が静寂な中整然と立ち並ぶネイティブアメリカン最大のナバホ族の居留地です。そこには今も電気や水道といった文明の利器に頼らない伝統的な生活を続けている7家族がいるとのことで、そのナバホのガイドさんの案内の元、未舗装の赤土(一部砂漠)の凹凸道を車で進みました。色々な形の巨大なビュートを様々な角度から眺め、夕陽・朝日に照らされ浮かぶビュートの雄々しい姿を静かに鑑賞し、「ホーガン」と呼ばれる木を円錐形に組みその上に赤土をお椀型に固めた「かまくら」のような家(入口は太陽が昇る方向に開けられている)で昔ながらの暮らしをするナバホの人々の地を巡るうちに、その自然と調和しながら生き続ける人々の謙虚さに染まったのか、私もいつしか敬虔な気持ちになっていました。

アンテロープキャニオン

 最後の日はナバホ居留地にあるもう一つの、そして今回の私の旅の最大の目的であるアンテロ―プキャニオン(アッパー、ロウアー)へ。水流と風が長い年月をかけてらせん状に刻んだ赤土砂漠の地下洞窟で、深さ36m、幅2~3mの亀裂の内、太陽の光はわずかしか差し込まず、その光が赤~ピンク~紫色の砂岩(陶器の素焼のよう!)の水流模様の壁に反射して美しい色のグラデーションが浮かび上がります。砂を含んだ光のビームと岩のドレープが幾重にも折り重なって、神々しいまでの幻想的な大自然の造形美に酔いしれながら、何度も立ち止り見上げシャッターを切り、聖堂のような洞窟探検を感動の連続のまま地上に出ました。ここもナバホのガイドさん付きでないと入れない神聖な場所です。

ホースシューベント

 最後に、コロラド川が侵食した馬蹄形型の断崖絶壁ホースシューベンドを見て、もっとこの地に居続けたい!という後ろ髪を引かれる想いを抱きながら帰路につきました。海とはまた違う地上の、地球自然の原風景に圧倒され続けた1600㎞に及ぶ私の旅は、予想をはるかに上回る感動で心満たされ、ナバホ族の人々が今も太陽・地球・自然と共に生きている姿に、海で学んだ地球に沿う生き方と共通するものを感じ、その大切さを再確認しました。

ラスベガスの街

 車は6時間走って夜、一転して超人工的な物・事の権化のような街ラスベガスへ帰還しました。人間の欲の坩堝(るつぼ)のような24時間眠らない街ラスベガス。カジノや巨大な超高級ホテル群と世界中の超一流人気ブランドが名を連ねる巨大ショッピングモール、エンターテイメントショーや世界中のグルメダイニング、とにかくアメリカは何でもデカイ!数時間前の風景との落差が大きすぎてめまいしそうな私に追い打ちをかけるように、チェックインした某有名超一流Bホテルで、何と!1泊30~50万円もしそうな250㎡位のスイートルームに案内されたのです!何かの間違いではないか?と思いフロントに電話し、「こんな広い部屋は怖いので、もっと小さい小さい部屋に変えて下さい!」と懇願、先程までいたナバホ・ネイションのホーガンで十分な気分でいる私なのに、「今晩はそこしか空いていないから。」と却下され、夢の中~まるでハリウッド映画の中に入らされたような気分でした。物欲がほとんどない今の私に、ラスベガスの街は「無駄な人工物の巨大集積場!」としか映らず、豪華な広すぎる部屋、週末で一晩中賑わうメインストリートの喧騒、救急車やパトカーのサイレンでほとんど眠れませんでした。シルクドソレイユのOのショーを見ましたが、日頃水泳と筋トレを続けている私には、内村航平君がいっぱい!とシンクロナイズドスイミング&飛び込みにしか見えず、ダンサーの筋肉や関節ばかりに目が行き、「あの筋肉はどうやったらできるんだろう?」とか「あの関節はどうなっているんだろう?」と思いながら見ていたので、やや興醒めの鑑賞でした。また、地上旅行のため4日間泳いでいない私は、禁断症状のようにたまらず練習!と競泳用水着とゴーグル・キャップを持参してホテル中庭に配置された5個のリゾートプールへ駆け付けたのですが、朝から集う世界中の宿泊客の中ちゃんと水泳している人はおらず、ビキニにサングラスをかけて胸辺りまでしか水につからず、多くはプールサイドでお昼寝・読書・シャンパン片手のセレブ達でした。しかしここまで来たから!と意を決して(さすがにディズニーのピンクのキャップは被りませんでしたが)一番長い(といっても15mくらい)プールの壁沿いを5往復して切り上げました。アップにもならず…。

 この人間のあらゆる物欲が詰まったラスベガスの街と、地球・自然と調和して生きるナバホ族居留地、この二つのアメリカの対極を見た旅でした。5年くらい前までは私もラスベガス派だったのですが、最近はすっかりナバホ化していました。何がきっかけでそうなったのか?しかし今の方が断然楽に生きられています。最近の精神医療でも、精神病より、うつ状態や神経症から人生相談的なことの方が増えています。それはどこかしら欲が満たされずに嘆いて来院する人々のような気がします。アングロアメリカンがアメリカ大陸の西部開拓を始めた侵略欲により、ネイティブアメリカンの人々は先祖代々受け継がれてきた豊かな土地を追われ、高地砂漠地帯と呼ばれる不毛の土地・居留地に押し込められたのですが、図らずもそこには膨大な量の石油が埋蔵されていることがわかり、多くの観光資源と共に「宝の山」と化すことになったのです。日本も明治以来の西洋化、戦後の高度経済成長、バブル時代とその崩壊を経て、americanize~globalizationが進み、白人同様欲を満たそうとする傾向が強くなったのではないでしょうか?しかも一人一人自己意識が強くなり、それは良い一面もありますが、その欲が満たされないと苦しみ嘆き来院するという構図が考えられます。ナバホの人々から学んだ謙虚さから、欲を捨ててあるいは減らして、あるがままの自分を受け入れつつ自然と調和して生きること、そうすることで楽に生きられ、医療のお世話にならずに済む人が増えるのではないでしょうか。今回は海ではなく地面からですが、同様に自然・地球・太陽・人間についてまた多くのことを感じ学んだ心洗われる旅でした。
2014年5月

 ようやく春が来たって感じですね。今冬日本列島は長い長い寒い寒い冬でしたね。関東地方では2月の大雪2回と3月20日頃の寒の戻りと、毎日ます天気・気候の話から始まるニュース番組が多かったように思います。もう雪と寒さはこりごり!という方も多いのではないでしょうか?しかし春が来た!と思った途端、花粉症でボロボロの方もいらっしゃるでしょう。PM2.5で霞のように曇っていたり、ノドンが飛ばされたり、マレーシア航空機が行方不明になったり、と天空の状況がやや忙しいこの春です。
 音楽家O氏の障害者偽装やリケジョO女史の論文疑惑といった事件が続き、袴田事件の再審請求が決定しました。「偽り」というキーワードが浮かびました。
 クラシック音楽に疎い私は、O氏のことは全く存じ上げておりませんでしたが、疑惑が浮上してからテレビ画面で見たO氏の壁に自分の後頭部を打ち付けるシーンを見ただけで、何らかの人格障害がありそうな人だと推察しました。
 またO女子に関しては、私も医者の最初は内科で脳科学の実験・研究をしていて、論文・学会発表といった仕事に日夜追われていた時期があるので、少なからず興味を持って見ていました。何日も徹夜に近く実験・研究を重ねてもなかなか思ったような結果が出ず、マイナスデータの発表で終えた次第です。従って、31歳でネイチャーに論文が掲載させるなんて有り得るとしたら何とラッキーな!と驚いたのですが、でもなぜ、一流の科学的研究者が実験している様子をズームアップしてカメラに撮らせるんだろう?しかもいくら若いとはいえ、寝る時間も惜しんで形振り構わず日夜実験に没頭していたはずなのに、今エステに行ってきばかりで、今美容院でヘアメイクしてきました!と言わんばかりの綺麗なお顔と今は珍しき白の割烹着でカメラに露出するんだろう?と不思議に思いました。あの映像はスタップ細胞という世紀の大発見を報道するというより、O女史の美しき容貌を強調して何か演技的でショービジネス的な匂いを感じ怪訝に思いました。それは誰の意図なのか?本人か、理研か?
 徐々に研究界の異常な構造が報道されるようになってきましたが、科学的研究の最先端というのは、昔から皆我先に!と発見・発表のスピード競争に焦らされ、キナ臭い話が横行しているようです。多額の研究費を国からもらうためや名誉欲のために、本来の研究目的が歪められていくのです。しかし果たして科学や医学が進歩することは全て手放しで喜べることでしょうか?もちろん病気の人には良いことですが、それはあくまでも正しく使われた場合であって、物事には必ず裏の反面があり、それを悪用する輩が出てくれば、人類にとってまた地球にとって脅威となるのではないでしょうか。人間が長生きしすぎることや、O女史が会見で言っていたように「夢の若返り」が可能になることが全て良いことでしょうか?今よりさらに長寿社会になって人間が溢れかえったら、それを支える世代は国力を増してもっと頑張らなくてはいけません。女性がいつまでも老いず欲の強い美人のおばあちゃんばかりになってしまったら?私は、自分に手を加えずに天寿を全うし、可愛い梅干しばあちゃんになりたいと思っているのですが…。
 「偽り」というのは、人間が欲を満たしたいがために、少しの「魔」を許してしまった結果大きくなったものでしょう。いづれにしても、欲を減らして生きることが生きやすくするコツだと常々思っている私です。
2014年4月

 この2月は、とにかく雪だらけで終わったような印象です。関東では人生で初めて雪掻きをした人も多いのではないでしょうか?かなり雪が降り積もる岐阜県で育った私でさえ、こんなに多くの雪掻きをしたのは初めてです。屋外のごみ箱はソフトクリームのようになっており、クリニックの外階段は、ラージヒルのジャンプ台のように斜面状に30~40㎝雪が降り積もって、夜看板の照明が当たると、今にも葛西選手が滑って来そうな美しい姿になっていました。しかも2週続けて週末に!
 おかげで今年最初のマスターズ水泳大会は、駅とバス停で1時間弱立って待ち、雪の谷と山をクロスカントリーのように歩いて3時間かけて会場に辿り着きました。アップもソコソコに召集へ行くと、公式の50mプールで8コースなのに、私の組はなんと私一人!他の7人が棄権でした。一人でどう泳いで良いか分からずあたふたしているうちにスタート!広いプールを独り占めして泳ぎ始めました。しかし50mでターンした途端、股関節から下はばったり止まってしまい???雪の中の行軍と長時間で冷えた足腰は、水泳用と全く違う仕様になっていました。しかし凡タイムながら、私の年齢区分では初の金メダル!何と銀も銅もおらず、私一人のエントリーだったのです。帰りもバスが運休で、駅まで歩いて帰り、たった130秒(2種目)泳ぐために5時間ほど雪の中を歩いた日となりました。  翌週も5日間連続で雪掻きをして、いつもの筋肉痛とは全く違う体のあちこちがガタゴトいっているような状態が続きました。ヨガでようやくほぐれましたが…。
 また我が家は、全館気調システムの室外機が屋根から滑り落ちた雪に埋もれて止まってしまい、2階はシベリアの寒さになりました。メーカーの修理技術員もこの雪でフル回転の結果風邪で倒れられ、我が家に入るのに1週間かかったため、その間患者さんには診察室でコートを羽織ってもらいました。多摩地区の友人宅では、60㎝程降り積もった雪の重みに耐えられなくなった駐車場の屋根が崩れ落ち、買って3ヶ月の新車のベンツが朝ぺっちゃんこに潰れていたそうです。静岡にいた時は「岐阜県出身でいいわね~。雪が見られて!静岡では雪を見られないから、子供は富士山の方へ『雪見遠足』ってのに行くんですよ。」と言われて驚いたことがあります。しかしこの度の大雪で被害続出し、関東の人はもう雪はこりごり!と痛感したことでしょう。
 逆に冬季五輪のソチは暖かくて雪の確保が大変だったようで、なんだか皮肉ですね。
終わってみると、今回のオリンピックはメダルの数や色よりも、競技の質や選手の心に感動したといえないでしょうか?選手たちは日頃から、ワールドカップや世界選手権といった4年に1回のオリンピック以外で試合を繰り返しこなしているため、昔ほどお国のため!という責務よりも、今までの集大成として自分が納得できる内容として結果を出したい!という気持ちで臨んだ人が多かったように感じます。だからか、結果に関係なく清々しさを随所に感じました。特に最後のフィギュアスケートの浅田真央ちゃんは圧巻でしたね。私も寝ないでライブで見ていました。正直言って、今まで同郷の真央ちゃんの演技、上手だとは思いますが感動したことはありませんでした。今回は見ていた日本中の人いえ世界中の人が感じたように、真央ちゃんの心・気持ちが伝わってきて感動し自然に涙が溢れ出て、人々の方が真央ちゃんに“心の金メダル”をあげたい気分になったのではないでしょうか。と同時に、本物のオリンピックの金メダルの意義って何だろう?と考えさせられもしました。フィギュアスケートなどの主観や好みの入った芸術点で競う競技だけでなく、ジャンプの飛計点や複合のルール変更などは、誰にでも一目瞭然のスピード競技と違って、よくわからない採点基準で、審判も人間なんだなあ?と思うしかないのですが…。近年のメダル至上主義がいかに国家間の虚栄心と経済絡みで、本来のオリンピック精神からほど遠いものになっていることに気付かされながら、しかし選手同士は国の威信をかけた戦争のようにではなく、いつも世界大会で競い合ってコミュニケ―ションが取れている同じ競技の仲間・同志という雰囲気が伝わってきて、スポーツの世界でのグローバリセーションの拡大を実感した大会でもありました。
 オリンピック効果として競技の翌日から、診察に着た患者さんの口から「真央ちゃんを見たら、自分が情けないと思った。私も頑張らなきゃ!」「レジェンド葛西に感動した。俺も負けてられない!」という言葉がたくさん聞かれました。私は「薬より効くなあ~!」と感じ入った次第です。
2014年3月

 2014年が明けてもう1ヶ月が経とうとしており、すっかり普通の生活モードです。
 しかし今年のお正月は、味気なく、めでたさ・賑わい・盛り上がりに欠けたように感じます。着物などの和風の雅を目にすることが少なく、初売りや福袋で活気づく街の風物詩がなかったような…、時の流れの線上に1月1日という元旦が乗っていただけという印象でした。正月休みに海外で潜っている(ダイビング)年はそう感じるのですが、今年は実家に帰省して日本にいたので、私だけの印象なのかと思っていたら、年が明けて診察にいらした患者さんと話すと、大多数の方が同じ印象を持っていらっしゃいました。これはいったい何でしょうか?
 犬連れで大晦日車を飛ばして3時間を切って帰省したのに、帰り1月2日昼過ぎ箱根駅伝を見終わって実家を出たところ、新東名の前後大渋滞にはまって、家に着いたのは夜11時前、ほぼ9時間かかりました。御殿場ジャンクションの手前の駿河沼津から止まってしまい50㎞4時間半でした。どうして皆もっとゆっくり故郷にいないの?どうしてさっさと現実の生活に戻ろうとするの?と不思議に思いました。まあ私もそうなんですが、年末ぎりぎりに故郷へ帰り、親に顔見せ元旦親戚と酒盛りしたら早々に都会の家に帰って自分たちの正月を楽しみ直そう!というスケジュールなのでしょうか?核家族化が進むと親元でゆっくりする家族は少なくなってきたようです。1月4日から仕事始まりの人もいらっしゃるとは思いますが、年末の大掃除から正月夫の親元での家事によりゆううつになるお嫁さんを想って早めに帰ろうとするのかも知れません。とにかく新東名ができたのに、二股に分かれるジャンクションの前後渋滞はすさまじい限りでした。これならハワイやニューカレドニアに行けちゃったね!と言いながら、2つトンネルを抜けるのに1時間=ガソリンのメーターは1目盛り4~5リットル減りました。しかし今年のお正月は長い休みだったのに、海外に行ったという人の声はあまり聞きませんでした。何となく家でのんびり過ごしてしまったという人ばかりで、皆さんお金を使わなくなっている印象を持ちました。4月から消費税が8%に上がり、3月末納期の各種PCの大改修を控えて各企業が戦々恐々としているようですが、そんな時に浮かれて海外やら贅沢品に散財などしていられないよ!ってことでしょうか?
 成人式、センター試験は大雪も降らず静かに過ぎ、今のところ大事件や大災害は起こらず、昔から毎年流行っているノロウイルスのニュースで騒いでいるくらいで、何やら嵐の前の静けさのようで不気味です。今、中国や北朝鮮やシリア・ロシア・タイなど 海外は紛争が続いていたり一触早発の雰囲気があったりと、物騒な映画を地で行くような情勢にあります。今年地球を揺るがす大事件が起こらなければ良いが…と願う年初でした。
2014年1月

 今年も12月に入り残りあとわずかになりました。この1年間何をしたんだろう?と考えて、何も浮かんでこない自分を情けなく思う年の瀬です。
 世の中の流れは予想不可能に変わっていきますが、リーマンショック及び東日本大震災以後落ち込んだ日本経済は今徐々に回復傾向にあると言われていますが、果たして本当に良くなっているのでしょうか? 実家の陶磁器産業界はまだまだトンネルの中に入ったままのようですが、日本経済界を代表するものとして車産業を覗いてみようと思いたって、約30年振りに東京モーターショーに行ってみました。車好きな父の影響で、10~20代は毎年名古屋のモーターショーに行っていたのですが、久しく車に興味がなく、ただ移動の手段と考え、震災後エネルギーの無駄使いをなくすべき!と車開発に反対であった私にとって、敵地偵察のような気分でもありました。最終日の日曜日の朝、たまにしか乗らない乗用車に乗ってお台場まで走ったのですが、会場の周辺の駐車場は臨時も含めて長蛇の列!晴海の2020年東京オリンピックでの選手村予定地辺りまで回されたのですが、駐車待ちの列は一向に進まず、諦めていったん都内で用を済ませてから、午後1時過ぎに再び行ったのですが、まだ並んでいて入れませんでした。仕方なく会場からかなり遠いコイン駐車場に止めて歩いて歩いてようやく2時半頃会場へ。しかしそこから入るにはまた人人人の波!入ってからトイレやコンビニに入るにも長蛇の列に並ばねばならず、車を見始めたのはすでに3時過ぎていました。そこで国産車と外国車数社に絞って回ることにしましたが、お目当ての車を見ようにもスマホやタブレットを高く上げて撮影する人だかりで車の全身は見られず、前の人の掲げるタブレットに映る車を見てながら、諦めてお賽銭を遠くから投げて帰る初詣のような私でした。しかし確かに車産業は活気を取り戻している風でした。30年前とは違うコンピューター満載の次世代型スーパースポーツカーand/or実用ファミリーカーに、夢見るように目を輝かせ胸膨らませ、わくわく且つ驚きながら人波の中次々に車を見て回る人々の姿に、日本はまた元気を取り戻しそうだ!と確信しました。他の産業はまだまだ景気低迷しているところもあるでしょうが、まずは日本の緻密な物作りの代表格として、車産業を皮切りに。格好良く走りまわす自己主張の権化のようだった昔の車と違って、現代の車はEVやクリーンディーゼルなどを取り入れながら、ただ単に移動の手段であるだけでなく、人に夢と希望を与え元気にさせつつ、安全に確実に生活の一部として人に寄り添うあるいは一体化した存在になっていると感じ、「車」の意義を見直しました。
 10日間で100万人近くの来場者数、満足度90%以上、と今年の東京モーターショーは大盛況だったこと然りです。またエコカーやリサイクルといった環境やエネルギー問題への配慮に時代の変遷を痛感しました。「環境に優しい」という表現は、今まで人間が地球の環境を傷つけ破壊してきたから気付いたのであって、実は「これから罪滅ぼし」というべきだと思うのですが…。しばらく物欲を失っていた私も、心を揺さぶられる車に出会ってしまい、12年目に突入した愛車を買い替えてみようかな?と思案している次第です。
2013年12月

 最近着物にはまっています。着るものというと、仕事着とスポーツウエア・水着以外ユニクロのホームウエアしか最近身に着けていない私は、いつの間にか洋服への興味がとんと失せていました。20代はファッション雑誌を見てはウインドーショッピングに明け暮れ、40代半ばまで素敵な洋服を身にまとうと、あたかもモデルさんのように自分が綺麗に見えるという幻想に駆られていたようですが、数年前から、どんなに素敵な洋服を見ても自分にあてがって想像することを全くしなくなっていました。摂食障害の患者さんのみならず思春期以降の女性はこぞって痩せて綺麗になって素敵な服を着たい!と言いますが、そうでしょうか?と私は首をひねります。お母さん世代もテレビショッピングなどで、ダイエットして痩せて○号の服が着られるようになった!と喜びの声をあげていますが、私には???です。10年前の私ならその言葉に全く疑問を抱いていなかったでしょうが、何が変わったのでしょうか?最近、仕事と水泳を含めた運動以外のことをあまりしていない私は、ちゃんとした服を着て靴を履いて外出する機会が激減しています。たまに研究会などに行く時は、クローゼットの中を漁って昔の服のどれを着たら良いか、靴ってものをちゃんと履かなきゃいけない!と慌てます。お陰様で体型は変わっていないので流行遅れの服でも着られるのですが、それを着た自分を見ても綺麗に見えず、ウキウキせず、もう新たに洋服を買う気にはなれません。歳のせいもありますが、お店で7号9号11号とサイズだけ違えてデザインが同じ立体裁断された洋服を見ても、そこに自分の体を入れるだけで美しく見えるとは思えないのです。そこで…、最近娘の成人式が迫り15年以上用無しにしていた和ダンスを探ることになって、思い出したのです。そうだ!結婚してすぐに私は「毎日着物を着て過ごしたい!」と宣言して、着付けを習おうとしたことがあったんだ、と。和ダンスを開けてみると、25年前に母が買い揃えてくれた加賀友禅の色留袖や佐賀錦の袋帯、大島紬や喪服など全く未使用の着物が山ほど眠っていました。着物は全て昔自宅で和裁をしていた祖母の手縫いなので、全部私サイズに仕上がっています。小学4年生の時「おばあちゃんが作ってくれた着物」という題で書いた作文がハードカバーに載ったのですが、その本も出てきました。そうだ、もう洋服は終わりにしてこれからは着物を着よう!と一念発起して、着付けを習いに行くことにしました。その初回、20歳過ぎまで祖母と母に正月や行事の際にマネキンのように棒立ちで着物を着せられていた私は、下着から長襦袢、着物までおぼろげながらですが、ほぼ着方を覚えていました。見様見真似で娘に浴衣も着付けていたのですが、ほぼ間違っていなかったことを知りました。細かい所や最近使う小物については教えてもらいましたが、帯だけはどう結んでいるのか背中で見えなかったので、一から習うことになりました。要は平面裁断の布を自分の体に上手に巻きつけて着れば良いのです。そうすると面白いように、眠っていた着物を片端から出して練習の度に着てみる私でした。しかも普段にも気軽に着られるように、ウエスト周りにタオルなどを入れて補正しないで、使う腰紐をできるだけ少なくする着付け方を教えてもらうことしました。そして3回目にはほぼ一人で着物を着られるようになりました。現代の日本女性は、立体裁断の○号の洋服!を目指して自分の体形を変えることに執心しているようですが、平面裁断の着物を自分の体形になじませて美しく着る風習に戻れば、摂食障害や人と体型を比べて落ち込んだり喜んだりする女性が減るのになあ…と思う私でした。
 もう一つ、先月末私の通っているスポーツジムのイベントで季節外れの餅つきがありました。入館して目にしたのは、杵を振り上げてふらふらしている若い女性スタッフの姿でした。「次、打ってみてください!」とすぐに振られて、物心頃ついた頃から高校生ぐらいまで実家では毎年年末1日中餅つきをしていたため、「今まだつけるかなあ?若い子に教えてあげようかな?」と思いながら私は杵を受け取りました。昔は、前日の夕方から祖母と母が餅米の用意をして、当日の早朝から釜戸でその餅米をせいろで蒸して、親戚が集まって来ると男性が木の臼と杵で餅をつき、女性が手返しして伸餅に伸ばしたりあんころ餅を作ったりしました。私は小学生の頃から、男女両方の仕事をして育ちました。12月の寒い朝から、湯気が立ち上る中、みんなで掛け声をかけながら次々に餅をつき、最後につきたての餅を頬張る熱気に溢れた年末恒例のイベントでした。「重たいですよ。」と言われて杵を受け取った私は、「どこが重たいの?」と思うと、瞬く間に昔の餅つきを思い出したようで、右足と右肩を前に出して腰を入れ、振り上げた反動から臼の真ん中に一番ヘッドスピードが速くなるよう杵を振り下ろしていました。それからはどんどん快調に一人で餅を打ち続け、誰も手返ししてくれないので、一旦杵の先にお湯をつけて餅の形を直してまた10回以上打ち続けました。「何で誰も手を出さないの?」と怪訝に思っていると、周囲の人は私の道に入った餅のつき方に驚き唖然として見入っていたのです。だんだん昔を思い出していい気になって打ち続けていた私も、「この辺りにしておこう。」と杵を置いたのですが、35年以上前の所作を体が覚えていたことに自分自身驚かされました。
 昔取った杵柄とはこのことなんですね。小さい頃習ったことは頭ではなく、体が覚えている、と。むしろ頭ではどんどん忘れていくことが多いのに、体に染みついた遠く長い記憶は薄れない、と。それを体感した10月でした。
2013年11月

 9月中旬大型の台風18号が日本列島を大掃除してくれたかのように縦断して行った後、4日間全く雲のない澄み切った空気の晴天が続いて、あっという間に秋になってしまいました。今夏エアコンの室外機のような熱風が行き場を失って籠り切っていた日本上空の空気を、一斉に吹き飛ばして、綺麗な空気に入れ替えてくれた台風に感謝しきりの私でした。(被害に遭われた方には申し訳ありません。)今年は晩夏にヒグラシの鳴き声もほとんど聞かれず、すぐに夕方鈴虫の鳴き声を聞くようになって、涼しさにほっとされた方も多いでしょう。やはり私は秋が好きです。夏の海も大好きですが、秋・伊勢湾台風の時に生まれた私は、秋を感じると体は落ち着き心は嬉しくなります。一方、この秋の訪れに寂しさや心細さを感じて、何となく不安になったり気分が落ち込んだりする人が増えます。夏から冬に向けての急な気温の低下や気圧の変化に体がついていかず、身体不調を起こす人も多く来院されます。最近では、秋バテとか秋うつともいうようです。心身が繊細な人達なのでしょう。私はそういう意味では四季を通じて全く変化を感じず鈍感なのでしょう。
 長い夏休みの後、学校に登校できなくなる子供も多い季節です。しかし勉学の秋・スポーツの秋としては最適な季節で、大学の秋入学には大賛成です。外国と時期を同じにする意味もありますが、受験時期を2月のインフルエンザや花粉症の流行る時期から夏休み前の6~7月という良い時期にずらして受験生を楽にさせ、その後長い夏休みで発散させ、9月秋入学で一気に勉学意欲を高めるのが良いのではないかと思っています。
 スポーツといえば、2020年夏のオリンピック・パラリンピックが東京で開催されることになりましたが、今夏のような暑さだと諸外国の選手たちは大変ですね。熱中症で倒れる観戦者が続出する危険性も想定しておかないといけません。しかし招致委員会の方々のスピーチは素晴らしかった!特に高円宮久子妃殿下の英語・フランス語は、生中継を見ながら鳥肌が立つほど気品に溢れていて素晴らしく久々に感動しました。日本人ってこんなに国際的になっていたんだ!と。2年前の私のスウェーデンでの国際学会発表は果たして大丈夫だったんだろうか?と思わずにはいられませんでした。これからは医者やビジネスマンだけでなく、スポーツする人も単なる旅行者もグローバルに英語を話せなくてならない!と感じた人が多いのではないでしょうか?なんと我が娘も同様に久子様のスピーチに感動し、その直後からi-Potに今までの音楽の代わりに英語のCDを入れて通学途中聞くようになりました。そしてスポーツ医療の分野で2020東京オリンピックに出場することを目指して留学する!と宣言したのです。まあ夢は大きい方が良い!と、その後のことも考えながらやるよう励ました母=私です。
 秋はまた各企業が忙しくなる季節です。決算期の会社もあるし、年末の過大な目標に向かってスタートを切る企業もあります。このところ新型うつなる逃避的な出社できないサラリーマンは減少傾向にある印象でしたが、これから本物の働き過ぎの疲弊うつ病が増えてくる時期に突入する!?と構えています。
 いずれにせよ、秋はいろいろな意味で変動の大きい季節です。今年もあと3ヶ月、1週間毎の繰り返しも13回ですが、冬に向かって足元を踏みしめながら一日一日過ごしていきましょう。
2013年10月

8月26日ようやく日本中猛暑地0の日になりました。
今年の夏はとにかく暑かった、日本もこんなに暑くなるものなんだ、と誰もが思ったのではないでしょうか。私は岐阜県多治見市で生まれ育ちました。先日四万十市に抜かれるまで、熊谷市と共に2007年に40.9℃を記録した日本一暑い所でした。昔は、冬は確かにどっと雪が降ることがあり、よく雪掻きはしたし、降り積もった雪の道を朝登校中山肌の下り坂で滑って崖から落ちたこともありましたが、猛暑の記憶はありません。
町の真ん中を流れる土岐川が作った三段のV 字谷の盆地で山に囲まれ緑が多かったのですが、陶磁器が主産業だったため山を削って陶土を掘り、その広大な跡地に名古屋のベットタウンとして住宅街が広がりました。その山の位置からのエアコンの熱風が谷底の盆地に流れ下り、木々が減って潤いを失った大気の温度をさらに押し上げることになって、気温40℃を超す日本有数の暑い地となってしまったのです。
この夏帰省した折、広いアスファルトの駐車場で、私のサンダルの甲の部分のエナメルが熱で溶けて壊れ、Mダックスの愛犬モエムを少し歩かせたら即刻熱中症になって意識朦朧となり、車に乗ったら外気温は43.5℃を示しました。その日の多治見市の最高気温は39℃近くでした。しかし年老いた両親は熱帯夜でもいつも体に悪いから、とエアコンを消して寝るのです。今年関東では夜もエアコンを消せなかったと思いますが、長年厳しい環境で生活している人たちは我慢強いものです。
自宅に帰ると、帰省前夜激しい落雷があった我が家のパソコン3台が動かなくなっていました。落雷の光とものすごい金属音の雷鳴と同時に停電した1発はどうやら裏の家の室外機に落ちたものだったようで、その誘導雷が我が家のルーターに入って壊れていました。4日間四苦八苦してようやく3台のパソコンは再起動しましたが、裏の家のエアコンは修理に2週間以上かかり、猛暑と熱帯夜の中戦前の生活を強いられたようです。貴重な体験をされて、さぞかし心身は鍛えられたことでしょう。
半面タヒチからの便りによると、今年のタヒチの夏はとても涼しく過ごしやすくて、まるで避暑地のようだったとのことです。また日本でも「沖縄へ避暑に行こうか?」という声が上がるように、本州より沖縄の方がいつも気温が低く、異常な気象でした。しかしここ最近『異常気象』という言葉は毎年発せられているような気がします。地球上のどこの何が正常で何が異常なのかわからない程、年々地球環境は変化してきているのではないでしょうか?40・50年前から気候がこんなに変わってきてしまっているということは、来年も再来年も夏は今年のように暑くなってそれが普通になってしまうかもしれません。原因として海水温の上昇や、偏西風の吹き方の変化があるなどと言われていますが、前にも書いたように、文明の進歩と言いながら、人間が自分たちの都合の良いように開発し地球に傷をつけてきた功罪として、地球が人間に天罰を下しているような気がしてなりません。
連日の激しい雷、それが最新の電化製品に落ちて破壊されたのは、まさに「我が天敵め!」と言わんがばかりで自然・地球の怒りのように感じました。政府の経済対策やエネルギー政策が声高に叫ばれていますが、人間優先で自国の目先の利益ばかりを追求していては、長い目で見て将来、日本だけでなく地球自体が自然からの逆襲により異常だらけになって崩壊してしまわないだろうかと心配になります。今年はその手始めかもしれない、と思いながらも、ここ数日の爽やかな暑さに秋は来てくれそうだ、とほっとする2013年夏の終わりでした。
2013年9月

 今年のジャパンマスターズ(第30回日本マスターズ水泳選手権大会、名古屋)が終わりました。その前に私が所属しているスポーツジムのマスターズ水泳大会春が終わっていました。結果は惨敗・全敗・最悪でした。そのために心を切り替えるのに時間がかかり、このエッセイの寄稿が遅れてしまいました。というのは、直前の怪我や故障のせいなのですが、それも調整ミス―自己責任―実力の無さといえるでしょう。スポーツジムのマスターズ大会は春と秋の半年に1回開催されます。昨年の秋から半年間毎日に近く2~3000m泳ぎ込み、直前まで万全に仕上げてきていたのに、大会前日の夕方、たった15分間ほどやったコンディショニングの一動作で股関節を痛めてしまい、マッサージをし過ぎたせいで、当日朝腰から下が緩みすぎてクラゲになってしまいました。キックが全く打てず本来の泳ぎからは程遠いアップ練習のような泳ぎのまま終わってしまったのです。翌日は呆然と放心状態で、冬場からの苦しい練習と筋トレの努力が、前日の一動作のせいで呆気なく泡と消えてしまうなんてなんと残酷な…!と夢を見ているような気分が続きました。骨盤の歪みを直して数日間休んだ後、気を取り直して次のジャパンマスターズに臨むことにしましたが、次は大会10日前に、筋トレでベンチプレスを50㎏上げた後、夜50mプールで2000mほど練習して、家で絨毯に手をついてちょっと振り向いた拍子に、右肩でピキン!と音がした~その後徐々に右肩腕が前下に落ちて痛くて上がらなくなり、それでもキックだけで数日間練習していたのですが、結局良く治らず、大会前5日間トレーナーから泳ぐことを禁止されたままぶっつけ本番で臨むことになりました。もうタイムには拘らず、3日間3種目(5種目エントリーしましたが、2種目棄権)に出場し、最後に200m個人メドレーを泳げたことを良しとすることにしました。最終日のダウンスイム(レース後体をほぐしながらゆったり泳ぐこと)が一番気持ちよく好調な泳ぎができました。

 ジャパンマスターズ(日本マスターズ水泳選手権大会)とは、1984年から始まった生涯スポーツ<水泳>の一大イベントで、会員数は、30年間で約10倍に増え、全国で現在約5万人、今年は初回から30回連続出場者が10人も表彰されました。18歳以上で5歳ずつ年齢別に分かれて各泳法各距離(リレー種目もあり)で競技をし、年齢区分毎に日本記録があります。最高95歳以上区分で1500mまでの全自由形と背泳ぎ平泳ぎの記録保持者がいらっしゃいます。今年はその最高齢99歳の方が、自由形と背泳ぎの50m・200mに毎日出場されていました。80歳以上の方がスタート台に立つと、水面に飛び込んだ瞬間ばらばらに壊れてしまうのではないか?と皆心配で固唾をのんで見守ります。無事飛び込んで泳ぎ始められた瞬間、ほっと一安心した空気が会場に広がります。80歳以上で200m個人メドレーに出場する人や、4人で合計360歳以上の男子リレーチームもあります。60歳を過ぎて水泳を始めた方もいらっしゃるようです。歳が進んで上の年齢区分になれば順位を上げるチャンスか!?と思うと、上に行けばいくほどモンスターのような人達がいるのです。本当に驚きの連続です。マスターズ水泳の精神は「健康」「友情」「相互理解」「競技」で、水泳を愛する人たちが、自分なりの目標を持ってマイペースで練習に励み、健康で楽しく豊かな人生を送ろうと発展してきたもので、1年を通して全国各地で大会(25m短水路と50m長水路)が行われ、ジャパンマスターズとはその水泳愛好家が一同に会する“水の祭典”全国大会なのです。(毎年7月に4日間開催)多い時は1日に約7千人が出場し、中には元オリンピック選手もいらっしゃいます。私は5年前から出場し始め、年間4~5回(+所属クラブの大会2回)大会に出て、自己記録の更新に挑戦し続けています。そこで難しいのが、練習しながら自分の調子をどう整え、どこにピークを持っていくかと、いうことです。いわゆるコンディショニングの難しさなのですが、北島康介のオリンピックや、今やっている世界水泳バルセロナ大会で毎日何種目も出場している萩野公介君などの調整は、何人ものスタッフが関わって緻密に計画されたものでしょう。私なぞはもちろんその比ではありませんが、それでも冬場泳ぎ込んで、筋トレ陸トレも重ね、食事や栄養、怪我に注意し、1か月前からの練習内容の変更、1週間前からの練習の落とし方、前々日からの体の休め方など、考え考えやってきたつもりなのに、直前の一瞬の動作やダウンスイムのミスなどで、努力が泡と消えてしまいました。体の調子のピークをそのレースに合わせることがどれほど難しいか、またそれにはメンタル面での調整も必須であることを今回思い知ったのです。トップスイマーの方達の努力は本当に大変だろうと想像します。何も知らず考えず楽しく泳いでいる方がいいかな?と時々思うことがあるのですが、取りあえず今は可能な歳まで自分を追い込んで、自分の限界に挑戦してみようと思っています。
2013年7月

 和みのクリニックの薔薇は、今年は寒さが長く続いたせいか、GW前から咲き始めて、まだ最後の花が残っていますが、5月末まで1ヶ月間以上咲いていました。こんな年は初めてです。しかもクリニックに上る外階段の壁を伝って伸びていた枝を冬場に切り落として剪定したためか、入口のアーチの左右の薔薇、バタースカッチとロココが揃って一気に大輪で、しかも今年は1茎に蕾が10個以上付いてまるで天然の薔薇のブーケ状に咲いているものがいっぱいあったため、例年以上に圧巻でした。(写真をご覧ください) 圧巻というか、人間でいうと二十歳くらいの若者の生命の勢いのようなものを感じました。一瞬、薔薇にも心があるのではないだろう?と思うくらい毎日愛らしく変わる花の表情に、つい顔がほころび、子供や愛犬と同じように毎日語りかけている私でした。
 その薔薇もほぼ終わり、いよいよ梅雨に突入、5月病と梅雨鬱の患者さんが多く来院される時期です。本来なら、新緑の青葉が町にあふれ爽やかで心地良い季節ですが、4月新学期や新天地で張り切ってスタートした人たちが、GWで一息つくと、スタートダッシュの疲れがどっと出てストップしてしまうのが5月病とされています。また、昔は梅雨時に鬱っぽくなる方が多いとは感じませんでしたが、何年くらい前か、クリニックを始めてからでしょうか、そう感じるようになりました。梅雨時の太陽の光が見えない日々、低気圧や湿度の高さや蒸し暑さのせいもあるのか、何の心因もなくうつ状態に陥る人がクリニックに増えます。春秋の季節の変わり目に気分変調をきたすことはよく知られていると思いますが、最近では冬の寒さが始まる頃から増える冬期うつ病や五月病と共に、季節性の心の病気の一つに含まれるでしょう。
 これらは、太陽の光や温度・湿度・気圧などの地球環境要因によって人間の頭の中のホルモン、いわゆる脳内ホルモンが分泌に変動が起こるせいだと考えられています。人間が地球と共に生きている証拠です。日本には四季があるので、それが如実に表れるのですが(日本でも季節に寄って全く心身の状態が変動しない私のような人もいますが)、タヒチやハワイなど常夏の国では、確かにあまりそういった心の病のことは聞きません。タヒチのボラボラ島に行った時、「将来ここで精神科医をしながら余生を生きていこうかな?」と冗談交じりに言ったところ、「ここにはうつ病になるような人はいないから精神科医はいらないよ。」と言われてしまいました。確かにハワイやタヒチでも雨は降り、乾季と雨季があるのですが、短時間のスコールのような雨で湿気がなく爽やかなのです。(むしろ時々雨が降ってくれないかなあ?と期待するほど暑い時があります。)気分変動を起こすような気候の変化はなく、皆明るく気楽に前向きに生きている印象です。日本人は民族的な性格傾向もあるのでしょうか?それは気候も含めた風土が生み出した性格なのか、元々の生物学的遺伝子DNA によるのかはわかりませんが、四季によって気分が変動する人が結構いらっしゃいます。低く重い雲が長く垂れ込める冬の寒さの厳しい北陸や東北の日本海側の地方ではうつ病の罹患率や自殺率が高く、暖かくて太陽の照る日が多い沖縄や宮崎、静岡といった太平洋に面した地方には明るい人が多くうつ病が少ない、という傾向があるようです。患者さんの中には、自分の苦手な季節、体調不良やうつになりやすい季節を承知している方もいらっしゃいます。
 しかし最近日本の四季はあまり明確に区切れなくなっているのではないでしょうか?5月に真夏日があったり、2月にも20℃を超す日があったり、春でも冬みたいに寒い日があったり、と大体の四季はあるのに、その中で時々全くその季節と違う天候になる日が昔より増えているような気がしませんか? 地球温暖化といわれていますが、人間は人間にとって便利なように次々に文明なるものを発展・開発した結果、自分で自分の首を絞めるような反動=地球環境の悪しき変化→健康被害を起こしているのではないでしょうか。
 その結果、四季による心身の変調が変わってきて予測対処ができなくなっている患者さんも出てきています。今年の梅雨入りも判断を早まったのでは?と思われる節がありますが…。その結果この5・6月やけに体調不良の患者さんが大勢受診されています。
 咲き終わってもう対話ができなくなった薔薇を切りながら、「もっと先の将来・未来はどうなってしまうのだろう?」と案じる私でした。
2013年6月

 今回は、マスコミの影響もあってか数年前から内科の紹介や救急経由でも増えている「過呼吸・パニック」について少し専門的な話をしてみます。今月(平成25年5月)末第109回日本精神神経学会(福岡市)でも発表する予定ですが、当院で4年前から行っている運動療法(ヨガ・ピタティス)・自律訓練法の原理を、私の論文から抜粋します。

 『パニック障害や不安神経症、過呼吸症候群などは、根源的には先走り不安の強い性格の者が無意識に自分に“負の自己暗示”をかけて引き起こす病態であると考える。それには、まず正しい呼吸法、すなわち、まず①呼気により残っている肺の空気を吐き切ってから、②鼻からゆっくり吸う腹式呼吸をすることが必須である。その呼吸により、空き容量が大きくなった肺に充分量の酸素を吸い込めるため「酸素が入っていかない」という息苦しさと不安はなくなる。また吸気は交感神経系が優位になり興奮傾向になるが、呼気は副交感神経系が優位になって気分を鎮静させる。過呼吸発作は口で頻回に息を吸う胸式呼吸による交感神経系の興奮が発症のメカニズムに関与していると考えられるが、鼻で速く頻回に息を吸うことは困難なため、鼻吸気の腹式呼吸によりそれも防止できると考える。その呼吸をベースにして、自己の心身のコア(中心軸)から、自分の体の各部分に丁寧に意識を向けながら、集中して自分で自分の体を動かそうとするヨガ・ピラティス運動は、それまで「過去」や「未来」へ心が乱れ飛び、体と心が分離しているように感じて自己コントロールできなかったものに、「現在」にある“身体”を通じて心を統合し、冷静に自己身体への意識を目覚めさせて自分をコントロールできるようにする。つまり、自分の内側から自分で自分の細胞を燃焼しようとするうちに、「自己身体所属感」を回復させるのである。そしてさらに自律訓練法により、自分にマイナスの暗示をかけていたこと、すなわち、不安の強い心が身体症状を引き起こしていたことを体感し、「だから、解除も自分でできるんだ!」と気付き、現実場面でも落ち着いてそれを再現・実践することによって発作が起こらなくなる。このようにパニック発作も過呼吸も、“先走りのマイナス不安”の産物であり、謂わば“無意識の自作自演”症状ともいえる。自分の心と体を一致させ、プラスの自己暗示により時系列に沿って前向きに生きていくことで、不安を払拭し、隠れていた自己治癒力を回復・発揮することができるようになり、その結果薬物療法から脱却できるのである。』

 このように考えて、当院では過呼吸発作やパニック障害の患者さんには、ある程度落ち着いたら自律訓練法と運動療法(呼吸法を含む)をお勧めし、薬物療法もSSRIはあまり使わず最小限にしています。その結果、通院も短期間で治癒する方が多くなっています。心療内科というと、「わかっているけど、自分ではどうしようもできないから、何とかしてくれ!」と言って‘まな板の上の鯉’の如く受診される方がいらっしゃいますが、全部医者に丸投げでは良くならないのです。説明の上、ある程度は事態の原理を理解し、‘心持ち=なるほど!そうしてみよう!’と医者と同じ方向を向いて、本人がまず一歩を踏み出そうとしないと治癒に向かわないのです。昔、初診で「カウンセリングしてください。」と言ったまま、ずっと何も喋らず座り続けていた若い患者さんがいましたが、心療内科医やカウンセラーは心を読む魔術師か何かのように誤解されている節があります。しかし医者はちょっとした気づきと方向転換を促すだけで、むしろ患者さんがすることの方が多いのかも知れません。人間の神経には、自分で動かせない不随意神経と、自分で動かせる随意神経があります。体の症状として出たものを、自分ではどうしようもないもの(不随意神経による)と思い込んで来院する方が多いのですが、実は随意神経を自分で無意識のうちに動かして症状化している場合が多く、その代表格が過呼吸症候群やパニック障害です。即ち、全く急に訳も解らず勝手に起こる症状ではなく、思い当たる心の負担があるはずなのですが、体に症状化すると底に沈殿している原因に目が行かず、その上澄み症状に恐怖を抱いて混乱してしまう病態なのです。上記の原理を少しでも理解して、マイナスの自己暗示に気付き、無意識の悲劇的自作自演を阻止することができれば、病院に駆け込む患者さんも減るのではないかと思うのですが・・・。          

 PS.) 我が家の薔薇が今年も咲き始めました。自宅車庫の上のピンクの薔薇は、可愛らしい色鮮やかで薫り高く、クリニック入口のアーチの薔薇は両側から大粒の蕾が揃って咲き誇ろうとしています。昨年大きく広がりすぎた枝を切り落としたため今年は大振りの花が沢山一斉に開きそうです。気候のせいもあってGW終わり頃から10日間程が見頃でしょうか? お近くにいらした際は是非一度ご覧になって下さい。 
Please take a photograph whenever you like. 
2013年5月

 今年も早4分の一が過ぎ、四月新年度が始まった!寒さの厳しかった冬のために、今年は満開が早くなった桜が散り始める中、入社式、入学式が続々と行なわれている。

 しかし昨年度ほど、受験生・就活者の受診が多かった年はない!という印象である。秋口はおろか、1年前の春先から、次の年の大学受験や高校受験を控えた若者、中学受験をさせる子供を持つ母親、就活に向けてエントリーシートで悩む大学3・4年生等の受診が後を絶たなかった。受験が不安で学校へ行けない、模試を受けられない、眠れないと訴え、「試験や就活に落ちるとこの世の終わり、自己否定されるようだ」と言う。そして親子で「就活うつ」になる場合もあり、なかなか就職が決まらず自殺に至る若者もいるという。

 このような人は、秋から冬にかけて以前から数名見かけられたが、昨年のように1年間を通して万遍無く毎月数名受診した年はない。私が受験期にあった昭和50年代にこのような現象はあっただろうか?確かに大学受験や医師国家試験はかなりのプレッシャーだったが、ただ勉強するしかなかった、あるいは不安を打ち消すために勉強していたともいえる。自分だけではなく皆不安だろうから、と他人に不安を漏らすとか逃げ出すことは考えられなかった。

 ではなぜ昨年このような現象が起こったのか? と考えてみた。
 不安なら嫌なら辞めればいいのに、逃げられない、こぼれ落ちたら生きていけないように思う、というのは、何か大きな道=“普通”というベルトコンベアーの上に乗っていないと安心できない、と言っているように感じる。小・中・高・大・就職という大方の人が乗る人生のベルトコンベアーのようなものがあって、その途中の関所を皆と同じように乗り遅れることなくスムーズに通り過ぎないと落伍者のように感じるようだ。なぜ皆と一緒でないといけないのか?体の成長と同じように、人生の歩みは一人一人違っていて良いはずなのに、日本人特有の集団心性のせいか、皆と同じであれば安心、皆と違うと不安になるらしい。たまたま生まれた年毎に子供を学年でくくって教育を進めてきた弊害でもあろう。体も心も知力にもその人の伸び時というものがあって、早発だったり晩成だったりバラバラで良いのに…。

 また不安になる人は、「先のことを予想する」人である。情報がありすぎるためにそれに頼りすぎて翻弄されて不安を増大させているように見える。先のことを考えたら、躁病かよほどのプラス思考の人でない限りたいていの人が不安になるだろう。またそういう人が先のことを考える場合、「今」が続くと想定しているようだが、未来は予測不能に変化して「今が続かない」ことだけは確かなことなのに…。未来だった時点を通り過ぎて振り返ってみると、過去に想像していた時点の現実の様相は全く違っていた、ということがほとんどだろう。したがって先々のことを予想することは意味がなくエネルギーの無駄遣いである。そういう人にいつも私は「明日の晩御飯のことまで考えれば良い。その先のことは考えるべからず!」と言っている。

 究極の状況にある人は先のことなど全く考えられないという。今晩寝るところや食べるものに窮している人々は、未来がどうなるかよりまず「今」をどうするか!が問題なのである。「死」より「生」を強く求めて。そういう地域では自殺は皆無だという。日本の「先のことを予想する」人はある意味では恵まれた文化・生活環境にある人、生命時間的に猶予のある人なのである。食べるものや屋根のある家は当たり前にあるために意識が向かず、それよりもっと先の人生が今の自分の希望通りにいかないのではないか?というマイナス思考=先走り不安、失敗を恐れる精神的な弱さからくる怯えに襲われているのであって、不安になるなら考えないか、考えるならプラス思考で突き進むべきであろう。

 冒頭のような若者が増えてきた日本は、やはり生活的・文化的に豊かな国であり、情報化社会に翻弄され、総日本人化し精神的に弱体化してきているのではないかと考える。もっと世界に対して危機感を強く持って、個々人で考え行動できるような若者であふれるような国になってほしいと考えるのは私だけだろうか? と思った桜咲く4月1日だった。
2013年4月

 2013年も始まって早1ヶ月が経ちました。アルジェリアという世界の(危険な)最前線で働く日本人がテロの標的になるという衝撃的な事件で幕を開け、今後の地球・世界の成り行きにただならぬ気配を感じているのは私だけでしょうか?
 この年末年始、これが最後の親孝行と思い両親をハワイへ連れて行きました。母は初めてで、父は42年振り、私も8年振りのハワイでした。昨年9月末に胸椎圧迫骨折をした母のコルセットが取れてまもなく出発したため、ほとんど専属添乗員兼主治医状態の旅でした。
 まずハワイ島のヒロへ。ここは日系人が中心に栄えた街で、あちこちに日本の匂いを感じます。ヒロの北ホノムという町の断崖絶壁に建つB&Bに宿泊したのですが、その途中の道の片側に広がる墓地には日本式の墓石が立ち並び、ここは日本?と錯覚してしまいます。ヒロは1946と’60年二度の津波で壊滅的な被害を受けた町であり、そこにその時亡くなられた日系人も眠っておられるとのことで、一昨年の東日本大震災3・11が重なりました。B&Bでの夜は、ただ波のうなり声を聞き、月光に照らされる幻想的な海面を眺めるしかない大自然の時空でした。翌朝「バシッ!パシャッ!」という音に無意識に導かれカーテンを開けると、真下の海に見えたのは、海面からまっすぐに吹き上げられた潮の白い線でした。「クジラだ!」しばらくの間私は、何度も何度も体をくねらせ潮を吹いては体やひれで海面を打ち、大海原を一人でup and downしながら逞しく生きている様にくぎ付けになっていました。

 元旦はキラウエアへドライブしました。今も噴火を続けている活火山で、火の女神ペレが住んでいるといわれるハレマウマウの火口からチェーン・オブ・クレーター・ロードを走りました。マウナロアの山頂から一気に海岸まで溶岩のみの道路を走るのですが、こんなに人間がいない草木も生えていない地球上の広大な土地があることに両親は驚き、自然の驚異にひれ伏すしかありませんでした。神話ではペレが遂に勝てず二度と近づかなかった雪の女神ポリアフの住むマウナケア山の西北側コナは乾燥した土地で生物は乏しく、南東側のヒロは水と緑豊かな土地で動植物や人々が住み繁栄してきました。しかし最近はコナの方が観光地化しリゾートホテルやショッピングモールが建ち並んでいるのですが、8年前と違って溶岩だらけの土地に草が所々生え、観光客も以前ほどおらず正月だというのにやや閑散として、世界的な経済不況をここでも感じざるを得ませんでした。
 次にオアフ島へ移動しました。ワイキキの町並みは、娘が「なんか原宿みたい」と言う通り、外国に来ている実感がなく、日本人に迎合しすぎているようで興醒めでした。高級ブティックはほとんど客が入っておらず、対照的に安価大量生産品の店がごった返していました。何もここで買わなくても日本で買えばいいや!とウインドーショッピングに徹しました。ワイキキで最初に感じたことは「“寒い!”」でした。午前10時、海に入ろうにも寒くてなかなか入れず、沖合にサーファーがいる以外人影はまばらでした。それでも意を決して私と娘は海に足を入れ沖合まで泳いでみましたが、ワイキキの浜で見ている日本人の中にはユニクロのダウンを着ている人さえいました。母も日本を発つ時着ていたカシミアのカーディガンを着てワイキキのベンチに座るか、部屋に籠りっ放しでした。「こんなにハワイって寒かったっけ?もう『常夏のハワイ』とは言えないよ!」と叫ぶ私でした。
 やはり地球がおかしい!日本から友人が「ハワイは暖かいでしょ?日本はすっごく寒いよ!」とメールをくれましたが、「ハワイがこんなに寒いんだから、日本が極寒なのは当たり前」と思った次第です。その頃オーストラリアは45度の猛暑でした。地軸がずれてるんだろうか?潮流と風がおかしいのか!はたまたマントルで何か起こっているのか???
 日本に帰るとテレビで映画「アバター」をやっていました。以前見た時とても感動したためもう一度見ました。地球人がよその惑星へ行って、人間に有用な鉱物を得るために、その惑星の命の木を切り倒してしまう物語です。ジェームス・キャメロン監督が「タイタニック」を撮った時使ったトラック諸島の沈船内を潜ったことのある私には、監督のメッセージが痛いほど分かります。“木の根っこにチャージして生き物は絆を結ぶ”ことの意味―人間は地球という命の源である惑星に生かされているはず、なのにその主のごとく傲慢に尊大に振る舞って、本来の主たる地球の資源を人間のために食いあさって破壊しつつある―と。
 経済優先に世の中が進んでいくと、大事なものを見落とすのではないでしょうか?地球の7割が海であり、残りの3割の限られた住みやすい土地に住んでいるだけの人間が、そんな傲慢な考えと振る舞いで地球の自然を自分たちに都合のいいように変化させたら、地球も黙ってはいないでしょう。地球創生以来の自然の脅威~異常気象や地震・津波はそのような地球の怒りと思えてならないのです。ハワイ島の火の女神ペレや、アバターのメッセージの如く。
 そして1月後半アルジェリアの事件が起こりました。何もない溶岩ではなく砂漠の真ん中の世界で家族と離れて働いている日本人に、「ダイハード」などの映画の世界だけのことと思っていたことが現実に起こった!津波ではなく異人種の銃により。犬にもドーベルマンなどの猟犬からチワワ・プードルといった愛玩犬まで、また海の生き物ではサメやシャチからイルカやクマノミまで、サメにもホオジロザメからジンベイザメまで違いがあるように、人間にも太古の昔の人食い人種やアラブの盗賊・海賊からタイや日本などの温和な民族までDNA上に気性の差があるでしょう。世界を移動する時いつもこのことを忘れないで息をしていなければ!と思います。
 世界は時間的(情報化により)にも空間的(飛行機により)にも確実に近くなり、人間世界も地球環境も、globalizationが進み、明治維新前の各藩が日本国になったように、今世界の国々が地球としてひとつになりつつあります。が、歴然とした違いも共存しています。今後は日本(人)の価値観だけで考えていては、物事は見えてこないし進んでいかないでしょう。地球規模でこれからを考えていかなければ!それは経済だけでなく、地球環境、さらには人間が不得意な海の世界や、もしかしたら地球の奥深くマントルといったところまでも考えなくてはいけないかも知れません。
2013年2月

   10年前に始めた絵画教室は、今は1年間のお休み中です。クリニックには院長自らが描いた油絵が数点展示されています。きっかけは青葉区制5周年企画として同区在住の俳優の石坂浩二さんが先生になって生徒を募集するという青葉区の広報を見て応募し、当選したことからです。兼ねてからいつか油絵を描きたい!という思いを持っていましたが、なかなか良いつてがなく、テレビで石坂さんがキャンバスに紙粘土をくっつけて油絵具を塗っていく手法をされているのを見て、「この人だ!」と思いすぐ応募しました。選考の作文は自信があったので、診療の合間にカルテ紙に鉛筆で書きました。水彩画には自信を持っていましたが、初め油絵具を上手くキャンバスにのせられず、四苦八苦しました。3作目の人物画で娘を描くことから、感情を絵に載せる感覚に目覚め、夜中を徹して描くようになりました。

   その後はダ・ビンチの模写や海の想像画、解剖学的人物画、質感を追求した静物画など、テーマを決めて1年に2点ほど一気に集中して描きました。学会発表や論文、被災地支援などのために描く時間が制限され苦しみました。彫像が好きな私はいつか懸案である立体画を描きたいと思いつつ、好きな美術展を巡りながら現在は充電中です。

   海外に行っても必ず美術館巡りはします。また立体の方が好きな私は(陶器の里で、陶磁器卸業を営む家で育ったためか)、クリニックを含むジョージアン様式の我が家も内外装共にデザイナーとオリジナルでデザインしました。細かい部材も海外旅行で買い集めた物を取り付けました。たとえばパリの‘家のデパート’で見つけたドアノッカーなど。今年12年振りに外観を塗装し直しましたが、屋根も含めて色は何度も再考を重ねました。

   ダイビング・美術を通して、世界中を旅することは私のライフワークであり、地球規模で物事を考えることglobalizationが必須だと思っています。
2013年1月

   今年も7月15日(日)ジャパンマスターズ水泳選手権大会に出場しました。2年前から出ているのですが、小学生以来の水泳を始めたきっかけは、開業して毎日朝から晩まで座りっぱなしの生活になり運動不足を痛感したからです。また当初はゴルフにはまって体育会系並みにバックティーから打っていたのですが、パワーアップのために、水中の全身運動として水泳を再開させたのです。初めは一人でマイペースに続けて1000m位泳いでいただけなのですが、そのうちスポーツジムで仲間ときついレッスンを受けてタイムも計るようになって、どんどん自分を追い込むようになりました。いろいろな大会に出るようになり、あちこちのクラブの練習に出て、4泳法を習い、どうしたらもっと綺麗にもっと早く泳げるようになるのか!と追求するうちに、すっかり他のスポーツは遠ざけて水泳だけに打ち込むようになっていました。もともと体を動かすこと、特に球技が好きな私にとって、水は目に見えないとても大きな扱い困難な道具であり、だから挑戦し甲斐のあるスポーツでした。どんなに疲れていても、水に入るとすーっと体と心が楽になり、ハードな練習を終えて家に向かって坂を上がって歩き出すと、行く時の体の重さが嘘のように爽快に軽く感じ「泳いでよかった!」と心の中で叫ぶのでした。

   週に5~6日(1日は休んで)2~3000m泳ぎ、週に3日くらいは筋トレとヨガ・ピラティス、そして寝る前には毎晩筋膜リリースとストレッチを欠かさない生活が続いています。
2012年12月

   海のない山の国岐阜県で生まれ育った私は、海に大いなる憧れを抱いていました。医師になって1年目神経内科のレジデントとして国立静岡病院で研修を始めました。歓迎の昼食会に連れて行ってもらった帰り、車窓からわずかに海が見えた時、私の心は高鳴り、すぐにでも飛び込みたい気分になりました。まもなく同僚にダイビングの免許を取りに行こうと誘われて、二つ返事でOKし、仕事と勉強の合間を縫って清水へ通いました。指導してくれたインストラクターがその当時日本一の素潜りの記録保持者だったこともあり、40m位まで潜りました。そして名古屋の大学病院に戻って精神科医になってからも、時々伊豆や沖縄へ行ってダイビングをしていました。子育てで一時中断しましたが、娘がダイビング許可年齢である12歳になった時、西表島での母娘ダイビングから再開し、タヒチ・ニューカレドニア・アンダマン海・ジープ島など世界中の海を潜るようになりました。医師としてレスキュー・ダイバーのライセンスも取りました。特にタヒチはリピーターになってしまい、今年5月にはランギロア島まで行ってダイブマスターを取得、グランブルーの海で野生のイルカたちと触れ合い共潜してきました。タイのカオラックではスマトラ沖地震の津波の痕を辿りながら、まさにその時津波が押し寄せていった海の底を潜っていた人達は全く変わりなく気付かずにいたことに驚かされました。日本も教訓としなければいけない、と思って帰国した直後に3・11が起こりました。トラック諸島のジープ島では、電気も水もない直径40mの無人島で5日間、ダイビングしながら極めて原始的な生活を強いられましたが、人生観が変わり、とても新鮮な気持ちになりました。

 地球は水で覆われ水が循環している星で、地球の7割が海です。残りの3割の平らな便利な所に住んでいるだけの人間が地球の主人公のように考え振舞っていることが滑稽に思えるようになりました。海の中には人間よりはるかに多くの大小さまざまな生物・魚が生息し、必死に貪欲に生きています。その海に入っていく時人間はよそ者です。が海に入ると体も心もなぜか活性化されて元気になります。それは海と人間の体液のPHが同じで、体の中の元素の数も同じだからだそうですが、それは人間がまさしく海から誕生した証拠でしょう。特にジープ島はサンゴ礁の上にできた島のせいか、5日間いただけで髪もお肌もしっとりつやつやになりました。風邪気味で潜ると治ってしまうこともよくあります。海底深く熱水の噴き出しているところに生命の源があると最近考えられているようですが、そう考えると、これだけの生命体を生んでいる=“地球は生きている!”と思わざるを得ません。また「人間は地球の天敵である」ことは確かです。異常気象と言いますが、それは人間から見た見方であって、地球から見たら「人間に対して怒っている」事態なのかもしれない、と思えてきます。人間の生活や欲のために、化石燃料や天然ガス・放射能物質更にはレアアースなるものまで求めて地球深く採掘するという暴挙を、再考すべきなのではないでしょうか。地球環境をさらに壊し地球を怒らせないかと。

 海・ダイビングは私に多くのことを教えてくれます。また世界中に多くの友人ができます。海を介した触れ合いは、老若男女や国境を越えて、人間~魚・動植物~地球の観点から趣深く広がっていきます。これからも日焼け、シミなど全く恐れず、世界中の海を潜り続け色々考えていきたいと思っています。海は私の元気の源です。
2012年11月

   我が家にはミニチュアダックスの愛犬「モエム(萌夢)」9歳♂がおります。クリーム色のロング毛で、生まれつき目が見えず、犬仲間にも入れない自閉症犬です。ヘルニアをやったため現在体重5kg位を維持していますが、番犬のつもりで吠える時の声は大型犬を想像させます。甘える時の鳴き声は♀かと思うほど可愛らしく、とても同じ犬の声とは思えない多面性があります。このモエムの存在に気付いていらっしゃる長年の患者さんは、診察より先に「今日モエムちゃんは?」と言って会いたがられるほど人気者で、初診で声が出ず表情が出せず疎通が取れなくなっていた患者さんに、アニマルセラピーとしてモエムを登場させたところ、一目で表情が和らぎ、モエムを撫で抱き上げた途端声が出た、というエピソードがあります。場所さえあればアニマルセラピーもやりたいのですが…。

モエムを育てていると、この自閉症犬の常同行為は人間と同じですし、自分を好きな人か嫌いな人かも自分とその人間との間の空気で嗅ぎ取っているようです。最近発見されたヒッグス粒子が犬には見えるかわかるのでしょうか? 私が悲しんでいるのも怒っているのも、擦り寄ったり後ずさったりして分かっているようです。そして昼休み疲れている時は、ソファーでモエムを抱いてシェスタします。冬は暖かくアンカのようですが、夏は暑苦しくて途中でギブアップします。いずれにせよあと何年くらい一緒に暮らせるか? 我が息子はちょうど同じくらいの寿命の私の両親と今後長生き合戦です。
2012年10月

   開業して薔薇が好きなことに気が付きました。庭のバラ以外にも。クリニックの内装に使っている壁紙や装飾オブジェ、カレンダー、絵画、メモ用紙に至るまで薔薇が入っていました。当初クリニック名も「和みのバラメンタルクリニック」にしようかと言っていた程です。しかし棘のある薔薇で和む?とは?ということになり、没になりましたが…。

クリニックに上がる階段入口の上にクリニックの看板と共に薔薇のアーチがあります。このアイアンのアーチは院長のデザインによるオリジナルで、アーチの右側の淡いピンクのバラが「ロコロ」、左側のピーナッツバター色のバラが「バタースカッチ」という名前です。共にオールド・クラシック・ローズで、蓼科のバラクライングリッシュガーデンから取り寄せました。開業と同時に始めは高さ1mほどの苗木から育ち、6年ほどで両方のバラが上部で繋がり、今では上部が重なり合って、さらに先が伸びて行き場がなくなるほどになっています。一時クリニックへ上がる建物の壁伝いにドアの手前まで伸びていましたが、今春の12年振りの外壁再塗装に際して、患者さんの昇降の妨げにならないよう誘引方向を変えました。5月のバラの最盛期には見事なまでの大輪の珍しい2種類のバラがたわわに咲き誇り、昼も夜も見物客が訪れ、写真を撮られていきます。この薔薇は四季咲きで、一度咲き終わってまた6~7月と秋にも咲きます。二度目以降は小さい薔薇になり数も減りますが、時々お正月辺りの冬にもポツンと咲いていることがあります。

自宅車庫の上のテラスの柵の周りにももう少し明るいピンクの可愛い吊るバラが咲き誇ります。こちらのバラの方が小ぶりで早く咲き、甘い香りも強く道行く人が見上げます。

薔薇の手入れはラ・フランスというお店の人に手伝ってもらいながら、毎月肥料を変え、咲き終わった薔薇の花柄摘みは院長自らせっせと行い、10年間見事に咲き続けています。

日当たりの良い当地は薔薇に適しているのです。我がクリニックのバラに刺激されたのか、お向かいのうかい亭さんも7年前から庭にバラを咲かせられるようになりました。

その他、庭には玄関周りや自宅の中庭も含めて色々な植物を植えて育てています。コニファー各種、季節の寄せ植え、ヒメシャラ、ソヨゴ、山帽子、アジサイ、クリスマスローズ、紅葉、トネリコ、万作、沈丁花などなど、鉢で買って来たものを最後は庭に植えて育て続けています。一時はハーブもやっていましたが、時々来る父親が草刈りと称して雑草と見分けがつけられないまま、何度も抜かれてしまったので、止めました。季節の変わり目にはせっせと鉢植えの花を植えかえていますが、休みの日や夜に一人でやっております。

いずれにしてもあまりカッチリとはせず、目指せ!セント・アンドリュース!とばかりにできるだけ自然に任せたいと思ってやっております。

自宅室内の観葉植物も長い物では、26年育て続け、ひ孫玄孫以上に株分けしたものもあり、養子に出したものも数知れず、リビングは見方によってはジャングルの様かもしれません。クリニックにも緑を置いていましたが、待合室の空気を綺麗にしようと空気清浄機を置いたら、綺麗な酸素を吹き出しているため、二酸化炭素を好む植物はどんどん元気がなくなってしまい、悩んだ末、人間の患者さんのおいしい空気希望を優先して、緑は自宅リビングに移動しました。従って今待合室はやや殺風景ですが、花台には自宅庭の花を生けたり、院長自らの切り花アレンジを飾ったりして、患者さんに少しでも和んで頂こうとしております。

自分がこんなに植物に手を掛けるとは思っていませんでしたが、植物もペットの動物も人間と同じで子育てなんですよね。心を掛けて愛情を注いでやらないとだめになってしまう。手を掛けいっぱい声をかけてやると反応があるんです。これは人間が無機物だと思っている地球上の全てのものについていえるのではないでしょうか? ちなみに今春塗り替えた我が家についてもそう思いました。家は生きている! と。
2012年7月

〒225-0011
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あざみ野2-6-77
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 午後:15:00~18:30

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 〈再来〉8:30~13:00
  受付 8:00~12:30
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*初診患者がない場合は、13時で終了とさせて頂きます。

休診日:
月曜午前・木曜・日曜・祝日
※臨時診療あり。
年末年始、夏季休暇
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