続徒然花

NYタイムズスクエア

NYタイムズスクエア

 このGW83歳の父を連れて、NY~バハマを旅してきました。NYは大学生時代一番行きたかった所であり、医者になるのでなければ勉強しながら生活し活動してみたかった街でした。初めて外国に行ったのは実は遅く30歳の時で、国際学会のため南回り経由で行ったアテネ~スイス~フランスで、その後は仕事関係でヨーロッパが多く、ダイビングでは海中心に旅行していたため、NYはついつい後回しになっていました。
 しかしアラ還が近づいてきたため、早く行っておかなければNYの街を歩けなくなるのではないか?と焦りだし、思い切って予約したものの、誰と一緒に行こうか?と考えた時、丁度去年大病をしたものの回復してきていた父が横におり、昔ハーレーダビットソンを何台も乗り回しルート66を走ってアメリカ大陸横断したいと言っていたことを思い出したので、「行く?」と言うと即座に「行きたい!」と返ってきました。少し懸念はありましたが、最後の親孝行になるかも、と思って決定しました。バハマは野生のイルカと一緒にスイミングできる島があるとのことで是非行きたかったので、NYと組み合わせました。
 高齢のしかも癌を患った父と大分前から予約していたので、旅行ドタキャン保険にも入っておきました。これは結構高額でしたが、母も合わせて旅行前いつ何時急に何が起こる分からないので、必須でした。
 まずNYに到着してすぐ入った大型観光客向けホテルは、ひどくサービスが悪く案内も不親切で、スーツケースを預かってもらって外出しようと待っていましたが、一向にベルボーイらしき人が現れないので、ようやく現れたホテルマンらしき年配の男性に「ベルボーイのカウンターはどこですか?」と尋ねたところ、その横で群がっていた人達の中の60歳台の痩せた白人女性がいきなりすごい剣幕で私に「○×△□☆!!ここはNYよ!!」と怒鳴りつけてきました。私は呆気にとられて「???」としていたのですが、どうやらその人たちはチェックアウトの荷物をベルボーイに運んできてもらうのを待っていた客で、私が横入りしようとしたと思い込んで怒ったようでした。後で分かりましたが、我々の荷物はそこに置いておくだけで良かったのでした。一方的な思い込みでいきなり怒鳴る白人マダム、“ここはNY”とはどういう意味か?私を中国人と勘違いしたのか?日本では受けた事のない理不尽なヒステリー洗礼を到着早々受けたのでした。
 その後、セントラクパークの中を歩いてメトロポリタン美術館まで行くことにしました。セントラルパークは写真やテレビで見るよりはるかに広大で南北4㎞東西800mもあり、半分のところにある美術館までは、肺気腫を持つ父の足で3回ほど休んで1時間かかりました。元々は岩でできたパーク内は、自然と芸術とスポーツと憩が混在した一つの“区”で、昔は殺人などの事件も多く危険な場所と聞いていましたが、夜の一人歩き以外日中は地元のNYっ子や観光客が集う安全な場所に様変わりしていました。
 メトロポリタン美術館は、父も老後時間があると絵を描いているので、共通の趣味として、3~4時間かけてお目当てのゴッホやピカソの原画を鑑賞して回りました。私が見たい絵の所に行って待っている短時間に、父はホールの長椅子に座って、飛行機でぐっすり寝たのに時差のせいか、隣の外人の肩に頭を落としてコックリコックリ寝ておりました。
 夜はネオンに輝くNYマンハッタンの街に繰り出しました。まずはNYの食の象徴であるステーキハウスへ行き、そこで今話題のポーターハウスというT字型の骨の両側にフィレとサーロインが付いて2種類を一度に楽しめるというものをオーダーしました。さあ、出てきた肉の大きさを見て父は口をあんぐり! 二人で四苦八苦して切り分けながら食べていると、隣の席の60台位のご夫婦が頼んだ品が出てきてまた父はあんぐり!夫人の方のステーキの厚みは私達の肉の倍位あり(600~700g?)、とても女性一人では食べられないだろうと思って見ていたのですが、夫人はぺろりと平らげてしまいました。自分の肉を3分の1位しか食べられなかった父は、その夫人の完食の勇士に、目を真ん丸にして感嘆の吐息で「やっぱり沢山肉を食う人間は体格も違うなあ。」と見とれていました。
 はち切れそうになったお腹を抱えて、タイムズスクエアまで歩くと、そこは何色ものネオンが輝くビルに囲まれた世界の交差点で、世界中の観光客でごった返していました。千人位いるかと思われる人混みをただ眺めているだけでしたが、「ここはテロの格好の標的になる!」と思いすぐに立ち去りました。案の定その次の週にテロまがいの車がその群衆に突っ込んで、観光客が数人亡くなっています。
バハマ  ナッソーのホテルからの大西洋

バハマ ナッソーのホテルからの大西洋

 翌日早朝バハマへ飛びました。まもなく大西洋の美しい青が目に飛び込んできて、まもなく多くの島が点在するバハマに入り3時間で首都ナッソーに到着しました。バハマの国の色はピンク、国鳥はフラミンゴ、特産物はピンク色のコンク貝、とピンク尽くしの国で、家々は外壁をパステルカラーに塗っており~公共の建物はカナリアイエロー(医療や教育機関)、ペパーミントグリーン(警察)、フラミンゴ・ピンク(政府機関)で、民家は好きな色に塗って良いそうですがピンクが多く、他にレモンイエローや水色グリーンなど様々~我が家がいっぱい!と親近感を覚えました。元は大富豪の別荘だった屋敷を利用したホテルに入ると、インフィニティープールとブルーグリーンの海に、手入れの行き届いた芝生や椰子の木や植栽の緑、そしてハンモックとデッキチェアーの白が目の中に飛び込んできました。ビーチに足を踏み入れると、サラサラの白砂ですぐに足が砂の中に埋まって行きました。海の中も同様で、大西洋に荒い波が打ち寄せるため、遠くまで泳いでいる人間は私一人でしたが、透明度が高く海底はどこまでも白砂で、石も藻もなく魚は全くいませんでした。海から上がってくると、プールの長椅子に寝そべっていた父が「幸せだなあ、生きていて今が一番幸せだ。3回の手術した去年とは天国と地獄の差だ。死んじまっていたらこんないい所に来れなかったなあ。」と呟きました。
バハマ  エルーセラ島のピンクサンドビーチ

バハマ エルーセラ島のピンクサンドビーチ

 翌日アメリカからの豪華客船がいくつも停泊している港から、小型のフェリーでナッソーの東約90㎞にある珊瑚岩礁の細長い魚の骨のようなエルーセラ島へ行きました。コンク貝と珊瑚の砕けた砂で自然に出来た4㎞に渡って続くピンク・サンズ・ビーチが目的です。ここはダイアナ妃のハネムーンの地としても知られており、コロンブスの船団が水を求めて上陸した島でもあります。真っ先にビーチに向かうと一歩足を入れると、確かにピンク色の砂が白と同等に混ざっており、極細粒なので、一歩足を踏み入れるとぐっと一気にくるぶしまで砂の中にめり込みました。一面を見廻すと、薄いピンクのビーチとアトランティック・オーシャンの紺碧の海と白波のみで視野はいっぱいになりました。他には人がちらほらいるだけで、耳に入るのは、白波がピンクの砂浜に打ち寄せる波の音だけです。ここでも私は一人荒海に入って泳ぎ出し、寄せる波に乗って帰ってくることを繰り返していましたが、魚の姿は全く見えず、透明度の高いピンクの砂の海底が続いているだけでした。果たして魚はどこにいるのでしょう? バハマではやわらかいコンク貝料理を初めて食し、再びNYへ戻り、夜は橋の対岸からと、ロックフェラーセンターの展望台Top of the rockからNYの夜景を鑑賞しましたが、日本でお台場のレインボー・ブリッジから海越しに見る東京のビル群やスカイツリーや六本木ヒルズ最上階から見る東京の夜景に見慣れているせいか、新たな感動は沸いてきませんでした。東京は既に世界のトップクラスの都市に成長しているんだなあ、と実感した次第です。
 翌日はミニバスで回るNY一日観光ツアーに参加しました。日本人ばかり12人で、マンハッタンを中心に南は自由の女神から北はハーレム、イーストリバーを挟んで今流行の発信地であるブルックリンまで余す所なく巡りました。
ワン ・ワールド ・トレード ・センター

ワン ・ワールド ・トレード ・センター

 一番行きたかったのはグランド・ゼロ。2001年9月11日夜当直室でTVニュースを見ていた私は、一機目の飛行機が突っ込んだNYのビルの中層階から煙が出ている映像に切り替わった直後「未曽有の世界的事件が起きた!世界が一気に変わる!」と直感し、即座に政治家の後輩に携帯電話で連絡したのです。その同時多発テロで崩壊したワールド・トレード・センターWTCのツインタワー跡地に造られたMemorialメモリアル、ノウスとサウス二つの巨大プールのモニュメント、その4面の縁には犠牲者の名前が刻まれていました。以前は予約制での入場だったそうですが、今は交差点から誰でも入れるようになっており、訪れる世界各国の観光客がピースサインをして記念撮影する姿に言いようのない違和感を覚えました。三千人近い人がここで一瞬にして命を落としたというのに、どうしてそのような不謹慎な態度が取れるのか?あの悲惨なテロ事件をもう忘れてしまったのか?それとも知らない世代なのか?あの事件の約1週間後、私のパソコンに誰からどこから回ってきたか分かりませんが、“missing”と題した一枚の写真が送られてきました。WTCの屋上デッキで笑って写真に納まっている一人の白人青年の背景の空に一機の飛行機が写っている物でした。“15年8ヶ月後の今私はそこにいるのだ、あの青年はどこに行ったのか?”と空を見上げました。
 その他ウォール街、国連本部、ジョン・レノンが射殺されたダコタハウス、マイケル・ジャクソン等多くのブラック・ミュージシャンを生んだアポロ・シアターやコロンビア大学などを回りました。大学時代私はNYのどこに魅かれて住んでみたい!と思ったのか?当時はまだ治安がかなり悪く、ハーレムは特に立ち入り危険エリアで、こんなに明るく庶民的な雰囲気ではなく、軽く観光気分で行けるような所ではなかったはず。その危険な雰囲気さえ当時の私は魅力と感じつつ、それをかい潜りながら何かクリエイティブなことをしてみたい!と思っていました。しかし今のNY は同時多発テロ以降当時のジュリアーニ市長の元治安の良化が進み、東京と殆ど変らないほど安全な町に変身していました。あの一瞬にしてNYを地獄に陥れた悲惨なテロ事件が、NY市民にそれと比べると遥かにチンケな欲心と自己主義を改心させ、他者を思いやる心を育てたのでしょう。そう考えると危険な香りのなくなったNYに、また今の歳での私は住んで活躍してみたい!と感じなくなっているのは当然です。所詮若気の至りだったのですね。空港へ送迎してくれた日本人ガイド・ドライバーさんの中には、私が大学時代NYに来てそのまま住み着いていたらこうなっていたんだなあ、と思える年頃の方がいました。“If 医者をしないで 何をしていたんだろう?”
 夜はヤンキースタジアムへ行ってメジャーリーグを観戦しました。地下鉄に乗って行くのですが、思ったより安全で東京メトロの銀座線のような雰囲気でした。乗って間もなく席が一つ空いたので、高齢の父を座らせると、すかさずその横の30歳位の男性がさっと席を立って私に譲ってくれました。何と優しい素敵なレディーファースト!ロンドンみたい!日本では絶対に遭遇しない光景です。日本の男性は電車内で朝昼夜問わず、女性が目の前に立っていても寝たふりしてずっと座っていますよね。老人に席を譲る姿もあまり見ません。ヤンキースタジアムは美術館同様入場時のセキュリティーチェックが厳しく長蛇の列になっており、水やバッグも持ち込めませんでした。日本からIN予約をして取った席は一塁側の5階席でしたが、1階上がる毎に25m程のなだらかな上がりスロープを2往復(25m×4回)づつ歩かなくてはいけないので、1階で買ったホットドックとコーラを持って計500mの坂道を一気に歩いて上がったことになります。肺気腫を持つ父は息を切らしてどんどん後ろに姿が見えなくなり、5階に辿り着いた時はもう足が前に出ない有様でした。しかしNYに来て万歩計は毎日12000を超え肺気腫のリハビリには最適だったようで、帰国後に検査した肺機能検査ではかなりの改善が認められたそうです。観戦した試合はなんと!マー君こと田中将大投手が先発でした。この巨大な美しいアメリカの野球場で活躍する同じ日本人が目の前にいる!心臓がドキドキしないんだろうか?上がったりしないんだろうか?と思うと私の方がドキドキしてきました。松井秀樹、イチロー、黒田投手と日本から渡った野球選手がアメリカの野球界でトップ選手としてプレイすることは本当に誇らしいことで、日本人だからといってひるむ時代ではなくなったんだなあ、と実感しました。見事マー君は6回投げて4勝目を挙げ、野球人だった弟を4ヶ月前に亡くした父も感極まっていました。
ヤンキースタジアム

ヤンキースタジアム

 最終日は、グランドセントラル駅から5番街を中心に歩いて見て回りました。両側の石造りの建物にはセレブ御用達の世界のトップブランドが並び、その中にユニクロやGAP、H&M、フォーエバー21といったファストファッションやナイキ、アディダスといったスポーツ店が混じっており、近年のファッション状況を如実に反映していました。NYの街はどこも観光客でいっぱいなのですが、ひときわ歩道上に人がひしめいている5番街の一画56St.に来ました。トランプタワーです。入口にロボコップのような警備の黒人男性が5人ほど、全身鎧のような物を身に着け、頭には大きなフルフェイスのヘルメット、手には本物の巨大な機関銃を抱えて立ちはだかっているのでした。ビルの中にはスターバックスカフェもあるのですが、とても入る勇気は出ません。その目の前で写真を撮るのも気が引けて、向い側の歩道に渡ってからトランプタワーを背景に父を立たせて写真を撮りました。ビルはとても写真1枚に入り切らず、3枚に分けて取りました。なんと!トランプさんはそのペントハウスの自宅からセントラルパークが見渡せるよう、前に立つティファニーのビルの上の空中権を毎月数百万円払って住んでいるとのことでした。何もない空を借りているなんて!しかし移民が多いNYではトランンプ大統領は全くの不人気でした。
トランプタワー前に立つ父

トランプタワー前に立つ父

 NYは100年以上前の建物が沢山残りそれを壊さず利用しているためか、東京より汚く感じられました。所々交差点では地下から白い煙が立ち上っており、地下の排気をしているとのことでしたが、これもビル群で狭くなったNYの空を曇らせている一因でしょうか。東京はやはり世界で一番綺麗な大都会だと思えました。また碁盤の目に区画整理されたNYの街は、南北はAvenue、東西は Streetと表記され分かりやすいのですが、車は一方通行が多く、タクシーに乗るとかなり体が上下に飛び跳ね、道の凸凹がひどいことが分かります。またNYのタクシー・イエローキャブはよく見ると日本のトヨタや日産の車がほとんどで、プリウスが一番多く見られました。逆にアメ車は少なく、近年の世界の自動車産業を反映しているようで、日本とアメリカの経済界のやり取りを垣間見た気がしました。
 帰りのジョン・F・ケネディー空港では、またも出国のセキュリティー検査が厳しく、肌着の下に首から現金袋をぶら下げ、胸ポケットにカプセル薬を入れていた父は、上半身脱がされ、ベルトを取り靴・靴下まで脱ぐよう指示され、私より遥かに遅れて通過してきた時、まるで裸にされたような姿でオロオロしていました。これも過激なテロを防止するためのアメリカ事情なので仕方ありません。帰りの機内で父は、行きに扱い方が分からず見られなかった映画を、私が作動させて楽しく見たようです。定時食の間には追加でカレーまで食べ、8時間はぐっすり寝ていたのに、帰宅してからも即高鼾で寝入りました。「俺は若い頃から苦労してきたからどこでも寝られる。」と言って、ホテルのダブルルームでは私にメインベッドを譲って自分は簡易ベッドに寝てくれました。しかし旅行中は全く怒ったり声を荒げたりすることのなかった父が、帰ってから即怒声を上げている姿に?と思った私は「もしかして旅行中は私に頼って静かにしていたの?」と聞くと、「そうだ。」と白状しました。一度集合場所に私の姿がなく、NYのど真ん中で一人取り残された!と思い狼狽して大変だったとのこと、私はトイレに行っていたのですが、その後は私に置いて行かれないよう、怒られないよう大人しく従っていたとのことです。それが日本に帰って一気に緩み怒ることができるようになったのです。セントラルパークでは、ちょっと目を離すと八重桜の下で、大胆にも外人さんカップルと話していた父なのに、可愛いところもあるんだなあ、と笑えました。しかし「英語話せないのに通じたの?」と聞くと「身振り手振りとハート・to・ハート!」と知っている英単語をいっぱい並べて喋ったとのことでした。ジャパニーズ・フラワー、チェリー、ビューティフル、メニーなど。相手も笑って答えていたようなので、何となくニュアンスは通じたのでしょう。
JFケネディ空港から摩天楼に向かって飛び立つ飛行機9・11を想う

JFケネディ空港から摩天楼に向かって飛び立つ飛行機9・11を想う

 帰国後父は同世代の友人達から、「よくまあその歳で行けたもんだねえ。ところで何しにNY行ってきたの?」と聞かれ、面倒に思い「…商売(陶器商)に行ってきた!」と答えているそうです。今でも実家に行くと「NYとバハマ~感慨深い良い旅行だった。余韻がまだ心に残っている。」と写真を見ながら言っている父です。しかしながら、父と私は趣味・嗜好・行動パターン・考え方が親子で似ているのか、旅行中意見が合わず喧嘩したり、別行動したいと思ったりすることがなく、我慢もせずに相手の希望が自然に読めるので、とても楽でした。DNAって不思議ですねえ~。
2017.7.15

 1月29日最愛の叔父(父の弟)が肺癌で亡くなりました。満78歳でした。

 実は一連の“マヤの呪い”の終わりの方で、食道癌と胃癌を内視鏡で奇跡的に切除でき昨年4月28日一旦終診となった父と同じ日に同じ東京の国立がんセンター中央病院を初診した叔父は、4月の初めに名古屋で肺がんと診断されていました。相談を受けた私は、高校野球でプロのスカウトの目にも留まったスポーツマンで、病気とは縁遠い健康な人というイメージの叔父だったので、にわかには信じられず、1~2月には父の癌を心配していてくれていたのにどうして?と実感が持てないでいました。

 私が生まれてから4年間一緒に住んでいた元家族であり、私が人生で困った時いつも駆け付けて助けてくれた叔父なので、何とかしたいとの想いで1日中がんセンターの各科を回って「手術をして癌を取ってほしい!」と執念のように医者に懇願する叔父に付き添いました。しかし結局手術は無理とのことで諦め、地元の愛知県がんセンターで内科的治療を受けることになりました。その日叔父は我が家に泊まっていってくれたのですが、親戚で唯一初めての人です。それが9ヶ月前のこと、まさかこんなに早く逝ってしまうなんて…。

 自分の子供達には厳しい父親で自分のことをあまり話さない怖い人だったとのことですが、私にはいつも顔をくしゃくしゃにして笑いながらよく話をしてくれ、怒られたことなどありません。28年前初めて患者さんに自殺され、失意のまま病院から帰る途中、交通事故を起こしてしまい、真っ暗な沼に落とされた気分の私のために、叔父は即相手の家に駆け付けて示談交渉してくれました。個性の極めて強い父方同胞の揉め事にはいつもソフトな要の役目を果たして皆をなだめ、私が身内のことで辛い思いをしている時はいつも慰め励ましてくれました。私のジャパンマスターズ水泳大会にも親族で唯一応援に来てくれ、医院開業の際には立派なガジュマルの樹を贈ってくれるなど、優しく心配りの細やかな叔父でした。そのガジュマルが18年経って葉っぱもたわわに付き3m近い天井に届くほどの大木に成長していたのに一昨年突然倒れたのです。診療中どーんという轟音ごうおんがして皆驚き何が?と探すと、1階のリビングで、鉢から根こそぎ土をつけてひっくり返り、ソファーを泥だらけにしているガジュマルをみつけました。大きく育ち過ぎ重心が保てなくなっていたのです。夏に向かう季節だったので、幹を切って低くし葉も減らして再度植えて鉢ごと庭に出し、陽光を浴びて生き返りました。しかし昨年春葉っぱの元気がなくなり落ち始めたので、また庭に出し少し元気を取り戻しました。冬が近づいてきたので家の中に入れると、急に葉っぱが全部枯れ落ち、冬にはついに死んでしまいました。叔父さんから貰った大事な樹だったので、何とか生き返らせたい!と必死に再生を試みた私でしたが、今思うと不思議なほど叔父さんの病歴と重なっているガジュマルの樹生でした。

 叔父の治療は、放射線と抗癌剤で初めは病巣が小さくなり、もしかしたら順調にいくかと思われましたが、昨年9月初め、長年揉め事でバラバラになっていた父方の親族を26年ぶりに再結集する意味で叔父と私の悲願だった祖母の33回忌法要を無事終えた後、ほっとしたのか、縮小したリンパ節から病魔が再発しました。放射線治療の後遺症である肺炎も長引き、副作用が強く出るため抗がん剤治療を再開できないままでいました。

 私は作秋から冬にかけて母のやけどと転倒骨折のため、しばらく叔父を見舞う頻度が減っていたのですが、叔父の病状が深刻であることは分かっていたので、元旦に我が実家の墓参りをしたくてもできない叔父の元を家族で訪れました。一目で全身にむくみを認め、その日から急に歩けなくなったことに嫌な予感を抱きましたが、ベッドで酸素吸入しながら私の持って行った大好物の鳩サブレを口にして「もう医者も見放したわ~。」と言うので、「そんなことないよ!」と答えるのが精一杯でした。直後の4日低酸素状態で再入院となり、6日には一時危篤状態に陥り親族が急遽集められました。譫妄せんもうが出現し、誤嚥性肺炎も併発して絶飲食となりました。11日携帯電話を取り上げられたはずの叔父から留守電が入っていたので、驚いて掛け直すと「2回ご臨終になりかけたよ~。もうだめだ~」と珍しく弱音を吐くため、私が「そんなこと言わないで、週末私が行くまで待っててよ!」と言うと、叔父は泣き出し、たまらず私も電話越しでおいおい泣き合いました。死の恐怖、まさに“一人称の死”に怯えて私を頼ってきてくれたのです。あの気丈夫な勝負師の叔父が。それからの4日間は長く長く感じられました。何とか持ってほしい!と。1月14日仕事を終えて即降りしきる雪の中叔父の病院へ駆けつけましたが、道中全く寒く感じずむしろ暑いと体感して走っていました。病室に着くと叔父はにっこり微笑み落ち着いて「おー」といつものように迎えてくれたので、ホッと一安心しました。酸素吸入をして動きにくい体なのに、私にお茶やお菓子を振る舞おうとしてくれる姿に、こんな状態でも車のセールスマンしてるんだなあ、と思いました。

 精神科の治療として末期癌の患者さんに行う『ディグニティーセラピー』というものがあります。死に向かう苦悩の中で、家族や愛する人に記憶に留めておいてほしい事柄や言葉に関する質問をすることを通して、自分の人生の意味や価値を見い出し、それを残すことによって、より良き死を受け入れてもらうセラピーですが、日本ではまだあまり行われていません。不安定になっている叔父に心穏やかになってもらいたいと思って、そっとその説明書を手渡しましたが、叔父は1~2行さっと目を通しただけで、「…そこに置いといて..」とその紙を私に返しました。まだ病と闘っていたのでしょう。“自分の死”と直面したくない!という意思表示なのだと解釈し、二度とその治療導入は試みないことにしました。キリスト教国と違って日本ではまだまだ“一人称の死”は簡単には受け入れられないんだと実感しました。

 その二日後、父と、思う様に歩けないながら一度行きたいという母を車イスに乗せて3人で叔父を見舞いました。着いた時叔父は検査でベッドにおらず、しばらくすると車イスに乗った叔父が廊下の奥から現れました。すると22歳で嫁いだ母と20歳で義理の弟として家族を始めた叔父は、共に車イスに乗ったまま、まるで少年と少女に戻ったかのように遠くから大きく手を振りながら満面笑みで対面し再会を喜び合いました。お互い世話になった昔話をして「ありがとう」と言い合ったとのことですが、それが二人の最後となりました。母は絶対に泣くまい!と心に決めて涙をこらえていたと言いますが、後で叔父の事を話す時はまだいつも涙声です。父とは喧嘩したら絶対寄りつかない叔父でしたが、母が具合を悪くしたと聞くと、心配して真っ先に駆け付ける叔父でした。年を取って何年経っても世話になったことは忘れないものなんですね。

 翌週、点滴も酸素も外し食べたいものを食べさせてあげようという方針に変わったというので、鳩サブレを持って見舞うと、叔父はベッドで妙に大きないびきをかいて大の字で眠っていました。しばらくそのかたわらに付き添っていましたが、看護師さんが来ると目を開け、私に気付くと、「お~、また来たかあ~、そう来んでいいいって言ったのに~。」と言いながら満面笑みで両手を取って握手してきました。大きな柔らかく温かい手でした。看護師さんたちは「こんな笑顔私達には全然見せてくれないのにね~」と驚き混じりに揶揄やゆしました。しかしその後は「苦しい、胸が苦しい、これは不治の病だよ。」とかすれ声で言うため、私は何も言えずただずっと叔父の右胸をさすっていました。医者なのに日に日に衰弱していく叔父に何もしてあげられない無力感でいっぱいでした。そして「また来るからねえ~。」と言って帰ったのが最後となりました。

昭和30年頃の多治見高校野球部のもの

写真は昭和30年頃の多治見高校野球部のもの

 1月27日母校の多治見高校野球部が21世紀枠で選抜甲子園初出場のニュースが飛び込んできて、私は即座に叔父の息子に電話で伝え、翌朝叔父の愛読新聞である中日スポーツを買って叔父に見せたそうですが、眼は新聞を見ているものの理解できたかどうか定かではなかったそうです。でもきっとそのニュースは叔父の心に届いて喜び安心したのでしょう、あれほど苦しんでいた叔父なのにその翌日1月29日嘘のように穏やかに静かに息を引き取りました。娘がインフルエンザに罹り叔父の元へ行く日を延期していた私は夕方訃報を聞いて「間に合わなかった!」と愕然とし、駅中通路を人目も憚らず涙を流して歩いていました。叔父は高校時代あと少しのところで甲子園には行けなかったものの、岐阜県大会でホームランを沢山打った捕手として当時の南海ホークスや明治大学からスカウトが来るほどの野球選手でした。自分の子供達には一切野球については話さなかったとのことですが、私は同居していた祖母から聞いています。昭和18年叔父が5歳の時に父親が亡くなり、家族がバラバラにならざるを得なかった貧しい家庭で、私の父と末の弟は共に学校へも行けず丁稚でっち奉公ぼうこうを経て自営業の道に就いていたので、叔父の先輩や後輩にはプロ野球へ進んだ人もいましたが、叔父はプロ野球からの誘いを断り堅実なサラリーマンの仕事を選んだとのことでした。トヨタに入ってからは夜間大学に通いながらノンプロで野球を続け、その後は地域の少年野球の監督もしていました。元中日ドラゴンズ監督の高木守道氏とも親交のあった叔父に、私はよくナゴヤ球場へ連れて行ってもらい、叔父と同年代の長嶋・王選手のプレイを間近で見て感動していました。南海に入っていたら翌年あの野村克也さんが入団したので、正捕手は無理だったかもしれないなあ、と晩年叔父は笑って話していました。私は叔父と一緒にゴルフをしたこともありますが、親戚の中では運動能力に関して私が一番叔父と似ているようです。トヨタのサラリーマン時代は野球部でつちかった精神からか、高度経済成長期の日本では皆そうだったようにあまり家にいないワーカホリックで、仕事に関してはとても部下に厳しい上司でした。今ならパワハラで訴えられていたかもしれません。そして部長の地位まで上り詰め、定年退職後は地域の役職に就いて活動していました。自分の限界に挑戦する性質たちは私も似ているので分かりますが、病気に対しても苦しみながら最後まで諦めずに闘っていたのだと思います。叔父はきっともっと生きたかったでしょう。昨年4月癌告知され、我が家に初めて泊まって行った頃、誰が9ヶ月後に叔父がいなくなることを想像したでしょう。おそらくかなり進行の速い悪性度の高い癌だったと思われます。通夜に駆け付ける車の中で父が「お袋が可愛い子から先に呼び寄せてるんだろう。」と言いました。(父の末弟は26年前冬野球をしている最中に50歳で心筋梗塞のため急死しています。)葬儀の後聞いた話ですが、叔父は亡くなる数日前、朝目覚めた時付き添っていた妻に「?なんだ、まだ生きてるんだなあ。お袋が迎えにきたよ。」と言ったそうです。不思議な話です。

 生あるものはいつか死を迎える、と知ってはいるものの、現実に自分もそうなるとは想像できないものです。時々診察室で「死にたい」と言う人がいます。今生きている目の前の事が辛い(自分の思うように生きられず)と、「死」へ逃げた方が楽だと思ってワープしたがるのです。しかし本当に「死」を目前にしている人は、自分の死(一人称の死)が恐ろしく、一日でも生きていたい!と必死に生きるのだと叔父を見て思いました。若者たちよ、安易に「死にたい」と口走ることなかれ!生きていることが当たり前の者は、本当の死の恐怖を知らないで、心の痛みより「死」の方がましだと思って言うのですが、「本当はもっと生きたいんでしょう?自分の望むように。」と問いかけると、皆素直に「うん」と頷きます。

 通夜の斎場に到着した私は、まず叔父の遺影を見て現実を受け止められず胸の奥深くから涙が湧きだし、息が止まっているとは思えないような穏やかな顔の叔父と対面して、まず「ごめんね、何もしてあげられず。」と、そして「有難う、今までずっと。」という言葉がこころから出てきました。これからはもういろいろ相談できる父とは違う存在の叔父はいないんだ、と思うと心細くもなり、また今後父母の最後も見届け受け入れなければ!と心を新たにしました。

 最後に叔父の顔を撫でてお別れしましたが、すっかり冷たくなっていて、最後の握手の柔らかい温もりとは全く違いました。お棺の中にはサラリーマン時代のスーツと大好物の鳩サブレ、そしてお気に入りだった赤い野球帽と共に母校の多治見高校野球部選抜甲子園大会初出場を報じる中日スポーツ新聞を胸元に乗せて荼毘に付しました。生きていたらきっと甲子園に駆けつけ後輩たちの試合を見たかったことでしょう。そして本当に叔父は消えてしまいました。短いながらも闘病中はどんなに苦しかったことか、頑張ったね、今はその苦しみから解放されて楽になれたね、と声を掛けてあげたい私です。
2017.2.15

 またまたしばらくエッセイが書けずお叱りを受けていましたが、今年の我が家の災いとしては最後に残っていた母親が大怪我をしてしまいました。それをきっかけに急遽来年から月曜日も休診にすることを英断したので、ご報告いたします。
 数年前夜中トイレに起きて柱にぶつかって尻もちをついて胸椎圧迫骨折をしてから、右足が震えて歩きづらくなっていた母は、この半年ほど更によく転ぶようになり、10月寝室でも後ろに転んで頭にタンコブを作っていました。「2階の外階段で転んだら命に関わるから気を付けて!」と注意して実家から帰ってきた矢先の11月3日、寒くなってきたからとストーブを出し、その上にやかんを置いて沸いたお湯を使うことを常としていた母は、初歩が上手く出ず、前につんのめってストーブに突っ込みやかんの熱湯を左半身に浴びて大やけどを負ってしまいました。救急搬送されましたが、左腕から脇・背中・顔に及ぶ一部3度を含む2度の熱傷で、右太腿から広範に皮膚を取って移植する手術を受けました。入院中転ぶ原因を神経内科で調べてもらい、珍しい神経変性疾患と診断され、難病指定・身体障害・介護認定を受けることになりました。父も今年3個の癌手術を受けたとあり、とても一人で家事や老々介護は困難と判断し、名古屋にいる妹がウイークデイ、私が週末土曜日診療後から月曜日か火曜日朝まで介護に通うことになりました。
 私の診療もいつか歳を重ねたら少しずつフェイドアウトしていかなければ!と考えつつあったこの頃なのですが、このような事態で急遽決めるのは運命というか自然な時の流れなのかな、と思います。あと何年もつか分からない両親ですが、娘もまもなく学生を終わり独り立ちしていくため、これからの10年は親を看取る人生にしよう!と決めました。色々葛藤のあった親ではありますが、患者さんを診ることを仕事としている医者の私が、自分の親を看ないで放っておくというのは理に反するのではないか、と思い。
 摂食量が激減して体重が32kgになってしまった母に、入院中付き添って病院食を一口ずつ口に運び食べさせていたのですが、いつもは食べたくないと、ペッペッと口から吐き出していた母に、ある日全部間食させた時は至上の喜びを感じました。自分の親を介護できるって幸せだなあ、とつくづく思ったのです。
 このように人生を変える時は期せずして突然変わるものなんだと思います。先走って不安なことをあれこれ考えて来院される患者さんが後を絶ちませんが、先走り不安はその間の人生が無駄になり且つ殆ど想像したようにいかず全く意味がない、私のように決めるべき時が来たらその時決断すればいいのです。

※来年から診療日・診療時間が減ってご迷惑をおかけしますが、以上の事情をどうかご理解していただきたくお願い申し上げます。週4日間集中して診療させていただきます。土曜日診療後から火曜日朝まで緊急の場合は、留守電にメッセージを入れていただければ私の携帯電話に転送され適宜対応するようにさせていただきます。
2016.12.21

 父の手術が無事終わって、マヤの呪いはもう終わった! と思っていた矢先、今度は一番元気だと思われていた父の弟である叔父が同じ病気と分かり又激震が走りました。その叔父が一旦治療を終えて退院が決まり、私が半年間それを目指して練習に励んできた所属ジムのマスターズ水泳大会直前4日前に、国際プールへ自主練に行きました。最後に飛び込み練習で、思いっきり飛び込み台を蹴って飛び込んだところ、空中で右足のふくらはぎが攣って石製の打ち出の小槌のように固まってプールの底に沈んでしまいました。周りにいた人達に引き上げられたのですが、石の小槌のようになっている私の右ふくらはぎはしばらく回復せず動けませんでした。「今回は大会前に怪我しませんでした!」と言えるな、と思っていた私は「またやってしまった! いや、これはきっと夢だ!」と言い聞かせましたが、現実でした。翌日も痛みは引かず、肉離れに近い酷いこむら返りで、まともに歩けない私は、トレーナーさんのところで鍼を打ってもらい、大会まで安静!と言われましたが、大会に出られるか微妙な状態でした。その日の夜、泳げない私は振り込みのために駅前のローソンへ入ってレジへ直行し振り込み用紙とお札を出した直後、突然雷が落ちたのか?と思うほど凄まじい轟音が私の右耳に轟(とどろ)きました。「え?ギャー!」と叫ぶ私に店員はキョトンとしています。その後針を刺すような複数回の痛みが私の耳の中に走り、「ギャー!、痛い!痛い!痛い!」と右耳を抑えて連呼する自分自身に驚きながら、一体何が自分の耳の中で起こっているのか全く分からず、コンビニの中の客達は「可笑しな人がいるなあ」という顔で見ています。どうやら私の他のどこにも当たらず右耳の穴にストレートに直入した小さな動く生き物は入った向きで身動きできず、焦った生き物はどんどん私の耳の奥前方深くへ突き進んでもがいているようでした。虫!?しかもかなりの疝痛、何度も何か鋭い刃で頻回に刺すような痛みが波のように繰り返し、もんどり打っている私にようやく異常事態だと気付いた店員が綿棒を持ってきてくれました。それは全く届かず、光を当てると良いと助言してくれたお客さんがいたので、店員が携帯電話の光を当てるも、全く効果なく、私は「これ以上奥に進んで鼓膜を破らないで!泳げなくなっちゃう!」と叫ぶように祈りました。次に水攻めを試みようと店の中の水道の蛇口から耳の中に水を入れ続けましたが、一旦は治まるものの、水が引くとまた中の虫は暴れ出し、痛みは続きだんだん手足が痺れてきました。店員が救急車を呼んでくれたので、救急車に移動し中で吸引してもらいましたが、隊員は「何か黒いものが見える」と言うだけで、一向に出て来ず、もう大学病院の救急外来へ行こう!ということになりサイレンを鳴らして走り出しました。救急車の中ではもう死んだのか?と思うくらい静かにしていた中の輩は、病院入り口の段差の衝撃で再び暴れ出し、私は悲鳴を上げながら四肢麻痺した状態で救急外来へ運び込まれました。そして耳鼻科医が診察に来て「まずゼリーで虫を殺します。」と言って私の右耳に麻酔のゼリーを入れました。20~30分間私は外来のストレッチャーの上に放置され、その後医者が吸引を試みましたが、ゼリーだけ吸引され虫は全く出てきません。耳鏡でつついて引っ張り出そうした医者は「黄色と黒の縞々が見えます!」と言いました。蜂だ!やはりあの痛みは蜂だったのか!!再び私はショックを受けましたが、「いやもう死んでいるので、何とか取り出しますから力を抜いてください。」と医者。足1本、2本、羽根1枚、2枚、原型をとどめない虫のお尻らしき部分が一つ一つ分解されて取り出され、耳鏡と先の尖った金属製の耳かきのようなものでつつかれまくっている私は必死に痛みをこらえますが、どうしても力が入ってしまいます。四苦八苦していた医者は「ここが大事ですから!」と言って最後の力を振り絞って、私の外耳道の壁に爪を立ててへばりついていたらしき虫の頭と両手のついた胴体を引っ張り出し、何とか無事虫の異物は私の右耳から全部取り出されました。全ての行程に約2時間かかりました。「こんなこと50年以上生きていて初めて!」と言うと医者は「この時期増えるんですよ、耳に虫が入っちゃた人。2週間前来たおばあちゃんも『82年生きてきてこんなこと初めて!』って言いました。こういう時はオリーブオイルを入れるといいですよ。」と教えてくれました。精根尽き果て全身が痺れていた私は、手先足先に少し感覚が戻り動かせるようになってから何とか立ち上がり、タクシー乗り場まで歩いて一人で帰ってきました。翌日近くの耳鼻科へ行って右耳を診てもらいましたが、「外耳道傷だらけですよ!」と言われ抗生物質を塗ってもらったものの、前夜の騒動で心身共に疲れ果てて全く意欲がわかず、二日後の水泳の大会は。当日朝まで右ふくらはぎをアイシングし、右耳が薬でポーンと詰まったままの状態で出場したのですが、結果は当然散々でした。
 どうしてこうも滅多にない(遭遇する確率の低い)悲劇に見舞われ続けるのだろうか?と落胆し呆れる私は、今後隕石が頭の上に落ちてきても驚かないような気がしました。
 「飛んで火に入る夏の虫」ならぬ「飛んで私の耳に入る夏の蜂」事件でした。
2016.8.3.

 しばらく諸事情によりこのエッセイを書けずにいましたが、ようやくパソコンに向かいました。昨夏のカンクン旅行後マヤの呪いは解けたと思っていましたが、その後も我が家・親族に青天の霹靂(へきれき)は雨霰(あられ)の如く降り注ぎ、その対応に追われていました。こんなに一度に(数か月の間に)身近な人が癌(末期も含めて)・心筋梗塞・脳梗塞・自動車事故・中毒・事件被害等に襲われることがあるのだろうか?と思わずにいられないくらい起こって、真剣にお正月二度目のお祓いに行きましたが、ご利益はなかったようです。その間常に私の中に浮遊していたのは「死」という概念でした。今のところ取りあえず皆「死」は棚上げ状態となっているのですが、皆~当人と私を含めて~一瞬は「死」を意識したものと思います。
 今年明けの10日に急逝されたジャーナリストの竹田圭吾さんの「癌が見つかってそれで人生終わりというわけではない。ちょっと種類の違う人生が続くだけのことなんですね。」という言葉を偶然テレビで聞いて衝撃を受けました。確かに私は身近な人に「さよなら」のお別れをしなくてはいけないのか、と覚悟したものです。しかしまだ皆さんご存命であることからも、それで即終わりを想像したことは本当に申し訳なかったと思います。実際あと10年以内には癌は不治の病ではなくなる、と言われているほど現代医学は進んでいるとこの度現場に接して知りました。昔の結核などのように。
 また「死」には3種類あって、自己の死である「一人称の死」、親や身内親しい人の死を「二人称の死」、その他見ず知らずの他人の死を「三人称の死」とします。上記の私の周りの近しい人達の中には、自分が末期癌に侵されていたと突然分かったにもかかわらず、全く変わらずあっけらか~んとしている人達がいました。末期癌と聞いて動揺していた私は、少し時間をおいて、失礼かと思いながらもおずおずと「どうしてそのように普通でいられるんですか?」尋ねたところ、皆同様に「だって自分のことのように思えないんですもん。えっ自分が?っていう感じで実感がない。全く自覚症状もないし。」と言うのです。逆に自分が癌になったわけではないのに、身近な身内の危機的事態を自分の事の如く「もうすぐにでも死んでしまって今後自分はどう生きて行けば良いか分からない!」と慌てふためき食事もできず足腰も立たなくなり、当人よりも先に自分の方が今にも死んでしまいそうな嘆き方で常態を保てなくなる人がいます。表面上は何とか取り繕おうとしていましたが、心の中では私もその一人でした。いわゆる「二人称の死」なのに、「一人称の死」の如く受け止めてしまうのです。それは特に配偶者(妻)が多い傾向にあります。当院にはこの「一人称の死」と「二人称の死」のショックから受診される方がいます。「一人称の死」は当然ですが、「二人称の死」も結構重篤でカウンセリング・薬物療法に長い時間を要します。少し前から自律訓練法を含めた心身回復ヨガを行っているヨガスタジオ・リーバでは、癌患者さんとその家族を含めた心身ヨガセラピーを始めたところでもあります。
 私も身近な人に癌を持った当初は、俄かには信じがたい驚きと触れてはいけない領域(タブー)のように感じて、当人に対してその言葉をなかなか発っせず、癌専門の病院へ初めて行った時は、「ここにいる人達は皆まもなく死んでしまわれるのだろうか?」とやや身が震える思いで歩いていたような気がします。急遽付き添って何度も何度もその病院に通う内に「癌」=即「死」ではなく、現代医学により5年生存率10年生存率は特段に上がってきていることを知りました。昔のように「癌告知」をするかしないか、と家族が医師に問われる間もなく、医師は即座に本人に直接検査結果と病状を説明して治療法を選択しよう、というスタンスなっていました。ショックを受けている暇もなく本人は今後を考えなくてはならないのです。しかし竹田圭吾さんもおっしゃっていたように「癌と闘う」というほどの壮絶さではなく、「癌とどう付き合っていくか」という具合です。「一人称の死」や「二人称の死」ということを嘆いている間もなく、どんどん検査と治療は進められていきました。気が付いたら全ての治療は終わり、以前の生活に戻ったのですが、何かが違う、そう「生」に対して本人も私も以前より真摯になっていることに気が付きました。今生きていることに大いなる有難さを感じ、今後生きていくことに対して緻密になったような気がします。竹田圭吾さんの言った「違う種類の人生が続く」、“人生の質が変わった”ような実感です。実際父は実に良い人になりました。母はボソッと「もっと早くこの病気になってくれていたら私は幸せだったのに。」と私に言いました。(笑い)
 私が驚愕した、末期癌⇒自己の死「一人称の死」なのに他人事のように話す人に、それは「一人称の死」を「三人称の死」の如く受け止めていたのではないか?と気付いて聞いてみたところ、「ああ、確かに、そうなのかもしれないな。」という答えがすんなりと返ってきました。精神が強いということではなく、受け止め感じる層が違っている、自分の心と身体が別々に感じられるということなのでしょうか、癌宣告により、「一人称・二人称・三人称」という意識が身体の上を浮遊する、その仕方が人によって異なるのではないかと考えます。しかし治療は「一人称の死」・「二人称の死」を「三人称の死」のように考えた方がうまくいくような気がします。自分や身近な人のことを少し離れたところから眺めて、マイナス思考よりプラス思考で癌と付き合いながら生きて行った方が質の良い人生が送れて、結果としてより少し長く生きられるのではないでしょうか。
 癌患者さんや病院に対していわゆる「三人称の死」として以前おそれ(懼れ・畏れ・怖れ)のような偏見を持っていた自分に対して今では罪悪感すら覚えます。果たして自分がそうなった時どのように感じ対処するのか分かりませんが、今では通い慣れた病院を歩く人々に「一日でも長生きしてください!」と心の中でエールを送って歩いている自分がいることに気付きました。
2016.3.8

 この夏、初めて中米の地と海を訪れました。メキシコのカンクンへの母娘旅行です。当初は、カリブ海のコスメルとマヤ民族の神の泉セノーテでダイビングすることが目的でしたが、最少催行人数に達せず、ジンベイ・シュノーケリングとセノーテ・シュノーケリングに変更せざるを得なくなりました。アエロ・メヒコという航空会社も初めて利用するので、やや緊張して乗り込みました。しかしボーイング787の飛行機内の空気はとても人に優しく、乾燥せず肌やのど・鼻に快適でした。機長の飛行技術もとてもレベルが高い!と感じました。15時間ほどでメキシコシティーへ直行、1時間半のトランジットの後2時間半でカンクンに到着しました。着いた瞬間口を突いて出てきた言葉は「あ~、日本の方が暑いわ!」でした。猛暑の日本より風が爽やかで陽の光も優しく感じました。

 カンクンを拠点にして、ユカタン半島の古代マヤ文明の巨大遺跡チチェン・イツァとトゥルム、セノーテを回りました。マヤ文明は、紀元前3世紀から12世紀にかけて繁栄した後忽然と姿を消したといわれています。天文学(暦)、建築学に優れ、そのミステリアスな信仰と神話など、ガイドさんの話を聞いているうちにどんどん引き込まれていきました。その中でも、神への生贄として生きたまま幼い子供の心臓を取り出して捧げたとか、蹴鞠のような球技で、勝った方のキャプテンが強いものの証として生贄として喜んで捧げられたなどの話は、過去のそういう事実があったその地にいて聞くためか、体の奥深く心(しん)の臓(ぞう)に染み入ってくるような不思議な感覚でした。日中の真夏の日差しの中遺跡巡りを終えて、神秘の泉グラン・セノーテへ。ユカタン半島は大きな山や川がなく、石灰岩の大地の下に濾されてできた迷路のような真水の路が繋がっていて、その天然の井戸のような泉=セノーテは、大昔からマヤ族の大切な生活用水・真水の供給源であり、宗教的に大きな意味を持っていたと考えられています。透明度がとても高く、深い所では30m程のケーブ(洞窟)ダイビングもできるのです。しかし真っ暗な淡水の洞窟の中を潜って進み、頭上の鍾乳石の岩などにダイビング機材が引っ掛かった客に巻き込まれて、ベテランダイバーでも亡くなることがよくあるとの事を現地で聞き、セノーテ・シュノーケリングに変更して良かった!と思いました。確かに水は綺麗で、洞窟深く潜っているダイバーの懐中電灯の光が水面からも見え、とても幻想的でしたが、「どこかであの生贄を捨てたチチェン・イツァの聖なる泉と繋がっているの!?」と思うと、少し背中が冷たくなる気がして、一人で遠くまで楽しく泳ぐことはできませんでした。

 もう1日、折しも日本の沿岸でサメが多数出没し遊泳禁止となるところが多かった時期ですが、何年か前にジンベイザメ目的でタイへ行って全く遭遇できなかったリベンジとして、カンクンから東へ1時間くらいのカリブ海(もうキューバが目と鼻の先の海域)に夏季、多い時は200頭ほど野生のジンベイが現れると聞き、シュノーケリングに行くことにしたのです。ジンベイザメというのは体長10m以上の世界最大の魚ですがとても大人しく、人を襲うことはありません。目的の海域に到着すると、次から次へとジンベイザメに遭遇し、人間の合間を縫うように真横まで来て、丸でザトウクジラのような体で悠々と泳いでくれました。その巨体に圧倒されながら、フィンを蹴って必死に追いかけましたが、最後は体を大きく翻して去って行ってしまいました。私は船と波とジンベイ酔いをしてしまい、念願のジンベイザメとのアイコンタクトは取れませんでした。

 メキシコ・カンクンのホテルはとても綺麗な高級リゾートですが、それ以外ではトイレのドアの鍵は日本の昭和の鍵フック型で、使用した紙は流さず屑籠に入れる方式でした。日本のTOTOがメキシコに行けばかなり儲けられるのではないか?と思いましたが、石灰岩とセノーテの特殊な地形上、先進国型の水洗設備は作れないのかも知れません。

 また道路を走っている車に注目すると、日本製の車はホテルやツアー送迎用の小型バスのような車はトヨタのものが多かったのですが、他には?とメキシコ人の運転手に聞くと、「ツル!」と返ってきました。「何のことだろう?」と思って走行しているその車を指さしてもらうと、なんと!30年くらい前の日産サニーではありませんか?「あれはサニーですよ。」というと、メキシコには大きな日産の工場があって、昔からタクシーはTSUTUなんだと言います。TSURU???確かにその車はいっぱい走っていてほとんどがタクシーで、テールランプの横にはTSUTUというエンブレムが付いています。理由を聞くと、最初にこの車のネーミングを考える時、メキシコ人は日本のイメージというと、「富士山の横に鶴が飛んでいる」絵図だったそうで、その鶴からTSUTUと名付けられたんだそうです。なるほど!でも車の中で、メキシコ人ドライバーがサニーを見つけては「TSUTU! TSUTU!」と連発している姿は、何やら滑稽で笑えてきました。

 因みにカンクンでは日本人も少ないのですが、あの世界中どこにでもいるイメージの中国人が全く見当たりませんでした。街中の看板や外来語の訳語もアジア系では日本語だけで、中国語は全くなし!中国ではカンクンはまだ知られていないのか?とさえ思いました。
お隣のキューバと中国は1960年以来革命を通して強い国交が気付かれているのに…?

 料理はメキシコ料理とイタリア料理が多かったのですが、一つとても美味しい日本料理店に出会いました。「花いち」という寿司と麺が主体の日本料理ですが、ランゴスタ御膳といって夏季限定で取れる ロブスター=ランゴスタ 尽くしの日本にはないメキシコならではのコースです。ロブスターの酢の物、ロブスターの天婦羅、ロブスター寿司、ロブスターの刺身、ロブスター味噌汁など、世界中あちこちで日本料理は食してみましたが、パリよりハワイより美味しい日本料理・寿司店で、カンクンでも高級料理店として有名でした。また、そこで食べている外国人たちの箸さばきもなかなか上手く、子供たちもちゃんと二本の箸を使って食べていました。世界遺産となった和食は確かに世界中に広まっているようです。ディナークルーズとしてカリブの海賊ツアーにも参加しましたが、日本人は我々二人だけで、娘は日本人代表として壇上に上げられ、300人以上の多国籍乗組客の前で日本語を教える役に抜擢され片言の英語で頑張りました。最後にフック船長から「beautiful Japanese lady!」と声掛けられ、日本に優しい国だなあ~と感じました。
取りあえず無事にメキシコ・カンクンから帰ってこのエッセイを書き始めた矢先、カンクンでタクシーに頭をぶつけ首が鞭打ち症のようになってきて、それがほぼ治った頃に飼い犬に右手を噛まれて使用不能となり、娘が食中毒で入院!と立て続けに災難に見舞われ、この紀行文が遅れてしましました。旅行後もずっと何やらマヤの神秘的な余韻に包まれながらいつもの生活をしているような気分だった私は、「もしかしたら連続する災いは、余韻の中に残るマヤの呪いのせいではないのか? 生贄の泉を写真に撮ってきてしまい、そこで買ったマヤの円盤状のカレンダーが災いの元なのではないか?」と考え、写真とカレンダーを近くの神社に奉納してきました。その後災いらしきことは起こっていません。精神医学とスピリチュアルとは別物ですが、アフリカにはまだ医学よりもシャーマニズムの方が信じられている所があります。現代でも科学的なものより目に見えない精神性の方が優位なことがあるのかも知れません。

 初めての神秘的な中米旅行を終えて思うこと~文化や歴史は違っても、マヤ民族の黄色人種で四角い顔や首が短くてずんぐりむっくりした体型は、同じ環太平洋のネイティブアメリカン、ペルー・インカ、エスキモー、アイヌ、(日本)と似通っていると思われます。大昔は太平洋の周りは地続きだったんでしょうね。何やら不思議な縁(えにし)を感じました。次に機会があったら、南アメリカへも行ってみたいなと思います。
2015.10.12

 しばらくエッセイお休みして申し訳ありませんでした。4月末から競泳のマスターズとGW明けには初めてのフィンスイミングの全日本選手権に出場し、その後も所属クラブのマスターズ大会があり、7月20日にジャパンマスターズが終わってようやくほっと一息ついています。その間何度もエッセイを書きかけたのですが、地球規模での異常気象が続き、なぜか春以降患者さんが増えてきて、書き切れませんでした。

 日本では、桜島、口永良部島、箱根山、浅間山の爆発・噴火、関東や九州・沖縄での地震、異様に空気が澄んでいた4月と5月の真夏日、梅雨時期の大雨と台風、梅雨明けの猛暑、毎年毎年異常気象と言われているような気がしますが、それは人間から見た表現であって、地球から見たら、いつも季節が巡ると同じように気候のパターンが繰り返されていたわけではないのかも知れません。
 今の人間が知り得る過去数千年はそうだったかもしれませんが、我々が知りえない過去には違うパターンがあったかも知れません。どちらにしても『地球は生きている』と確信している私には、この異常気象も人間がもたらした功罪だと思えるのです。
 またそのせいか、今年は5月のGW明け例年以上に5月病らしき人が多く受診し、新入生・新入社員・新任教師と年齢・職種の幅も広がりました。しかも人(上司・同僚・先生・同級生)に反応する人や、仕事や勉強の難しさにヘタレる人が多い印象でした。そのほとんどが適応障害なので、原因から遠ざかればすぐ軽快するので、治療は短期間で終了するのですが、これらをうつ病と診断して、長期に休ませたり、多くの薬を服用させたりするのは間違いだと思います。
 最近「レジリエンス」という言葉を聞くようになりましたが、「抵抗力」いわゆる昔でいうと「根性」ですね、それを強めなくてはいけない、と。私が精神科医になった30年位前、スポ根で育った私は、登校拒否に対して「嫌なら学校行かなくてもいいよ。」という声掛けが主流になったことに、大きな違和感を抱きました。驚きというか抵抗感というか…。

 近年はそのスポ根精神の先輩が後輩に怒鳴るだけで、「パワハラ」だの「モラハラ」だのと訴える人が増え、戸惑いを隠せなくなっていた私です。それがようやく「少しは強くなろうとしないとといけないよ!」という風潮が出てきてほっとしています。ただ傾聴と共感だけでは、何も事態は解決しない!と実感していた矢先だったので、今年は5月病的な患者さん達にも少し背中を押すように心がけています。結果としては、概ね良好な経過と結末となっています。フィンの大会も水泳のマスターズも自分の限界に挑戦して猛練習を重ねた結果、実は大した進化は達成できませんでしたが、年齢が進んでも退化しないことが成果かと思って、小さい頃の「努力と根性」を座右の銘にして、もう一度秋に向かってトレーニングしなければ!と猛暑の夏に決意を新たにしている私です。
2015.7.23

 中国の春節に当たる2月日本の各地は中国人の観光客でごった返していました。2月初めに原宿の美容院へ行った際、1年前はあった駐車場が、外国人観光客が増えたとのことで一斉になくなっていて、車を止めるのにかなり離れたところまでうろうろせねばならず、大変な思いをしました。原宿・表参道などは、中国人に限らず、近年世界各国から外国人観光客が押し寄せてきていて、経済的にかなり潤っているようです。2月の連休の時、実家からの帰りの新幹線にお土産を置き忘れて東京駅まで取りに行った際も、八重洲口の駅構内を走り回っている間、中国人らしき家族連れや団体に数多く遭遇しました。手にいっぱいの荷物を持ち抱えながら、まだどこかへ行こうと画策している様子でした。大丸デパートの館内放送は日本語や英語ではなく中国語ばかりで、「ここは中国?」と錯覚しそうになったほどです。
 しかし思えば私が初めて海外に行った1989年、花の都パリで日本人がこの中国人と同じような振る舞いをしていました。当時日本はバブル景気真っ盛りで、団体ツアー客がコンダクターの旗の元、シャンゼリゼを闊歩し、ブランド品を買い漁っていました。歴史ある有名なパリのカフェで、日本人の中年おじさんがパリジェンヌの店員さんに向かって大声で「お~い、姉ちゃん姉ちゃん!」と日本語で呼びつけている光景を目にしました。いつも新橋辺りの飲み屋街でそうしているのか、日本でと同じように日本語振る舞っている姿に、同じ日本人として恥ずかしくなりました。フランスは自国の言語と食文化には崇高な誇りを持っている国です。不機嫌そうにツンとして無表情のそのパリジェンヌを見て、「郷に入りては郷に従え!」という言葉が私の頭に浮かびました。また高級ブランドのエルメス本店に記念にスカーフを買おうと入りました。するとガラスのショーケースの上に誰かが見た後のスカーフが10数枚山盛りになっていたので、その中の物を見ようと手を出したところ、横にいた日本人の20歳代の女性が私の手をはねのけ、そのスカーフの山を全部腕で囲い、「これ全部頂戴!」とケースの向こうに並ぶ数人のパリジェンヌの店員に命じました。「えっ、1枚数万円はするエルメスのスカーフなのに、若いOL風の日本人がよく吟味もせず蜜柑一山を買うかの如く買い占めるなんて!同僚や友人達へのお土産?」と、医者になって数年目の私は唖然としました。パリジェンヌの店員たちは憮然として対応しています。母国の誇り高き高級品で、彼女らだってそんない簡単には買えない、何年も働いてようやく買えるかどうかの代物です。不愉快になるのは当然でしょう。私はその後、吟味に吟味を重ねた末にようやく1枚だけ気に入ったスカーフを買いました。そして店を出て扉が閉まった直後、免税手続きを忘れたことに気付き、再度扉を押して中に入り、対応してくれた女性店員に免税手続きを申し出たのですが、「ノン!今あなたは店の外に出た。手遅れだ!免税手続きはできない!」と断られてしまいました。何度か食い下がったのですが、先ほどの日本人女性のせいか、同じ日本人観光客の私に冷たい表情で目も合わせず「ノン!ノン!」と言って一切取り合ってくれませんでした。こういった日本人の横暴な振る舞い、外国においても日本にいるのと同じように振る舞いその国のしきたりや文化をないがしろにする日本人が当初は多かったのです。
 しかし8年後に再び学会でパリを訪れ、同じエルメスの店に入った時まずびっくりしたのは、店員のパリジェンヌの愛想の良い笑顔と「いらっしゃいませ!」という日本語でのお出迎えでした。しかも日本人専用の階(コーナー)ができていて、そこへ年配のフランス女性に案内されて行き、丁寧に接客され、もちろん免税手続きもしてくれました。買った後は出口まで品物を持って誘導してくれて、最後は「ありがとうございました。またお越しください。」と流暢な日本語でにこやかに深々と頭を下げて挨拶をして見送ってくれたのです。完全に日本風接客をマスターさせられているパリの高級ブランド店員になっていました。8年の間に何とフランスは変わったことか!と驚き唖然としました。これも日本人観光客が増え、その経済効果でさらにフランスが潤うための戦略なのでしょうが、8年前シャンゼリゼ通りに初めてマクドナルドができた時(私も唯一安心できるので入ったのですが)、英語の看板とファーストフードに対する批判が炸裂していた覚えがあるのに、ここまで外国文化に媚びへつらう国になってしまったのか、とやや落胆し興醒めしました。
 昨今の中国人の爆買いとマナーの悪さと同じようだった時代が日本にもあるのです。経済成長著しい新興国が、海外に出始めた時に起こす現象の一つでしょう。新興国は自国が日本が世界の普通だと勘違いしやすいのですが、世界から見ると自国は世界の非常識といえるところが多分にあります。自国の外では、その国に合わせて言動をすることが絶対に必要です。中国は日本から数十年遅れて発展してきている国ですので、いつの日か日本や世界にマナーを合わせてくれる日が来ることを祈念したいと思います。
2015.4.1

 高倉健さんが亡くなった。一瞬「えっ!?」と私の中の何かが止まった気がした。特別熱狂的なファンではなかったが、一昨年秋にテレビのバラエティー番組に出演されているところを偶然見て(めったにその番組は見ないのだが)、「あっ、健さんでもバラエティーに出るような時代になってしまったんだ…」とちょっと驚きというより残念な気持ちを抱いた覚えがある。銀幕のスター「高倉健」が身近なおじさん(おじいさん?)に見えて、良い意味で親しみを感じたというのではなく、雲の上の近寄りがたい最後の日本男児が下界・俗世に下りてきてしまったというある種の落胆である。あの時私の中で「高倉健」は死んでしまった。ので今回訃報を聞いて「ああ、やっぱりいなくなってしまわれたのか…」という想いが心の中にポッカリ浮かんだ。私は任侠映画時代の高倉健は知らない。「幸せの黄色いハンカチ」以降の健さん映画を大学時代かなり凝って見た時がある。美空ひばりと同い年の母が「高倉健が日本で一番いい男だ。」と言ってファンだったこともあり、江利チエミと結婚・離婚したことも驚きだったが、武田鉄也が「幸せの黄色いハンカチ」に出ている姿を見て「どうしてフォークソングの歌手が映画に出るの?」と当時としては不思議な起用に驚いた記憶がある。路線を大きく方向転換して孤高に生きる健さんにブレナイ自我の強さを感じ、日本男児の象徴として“決して死なない”イメージがあったのに、「あの健さんでも死んでしまうのか…」と“生ある者は皆必ず死する”、という当たり前のことを再認識し、同時に自分の生まれた昭和が終わってしまった、という気分になった。健さんと言えば、硬派。「硬派」…そして「大和撫子」「亭主関白」「三歩後ろを歩く」などの言葉はもう死語に近いものとなっている今の平成日本。面白くなければ女の子にもてないという軟派男児や草食系男子が増え、テレビもお笑い系ばかりで、堅い番組が数少なくなっている。私が歳のせいで考えや志向が古いのかも知れないが、本当に健さんのような男性を周りで見なくなったと実感する。年末、指を怪我した私は泳ぐこともできず、健さんの遺作映画を立て続けに観た。しかし、「駅」「幸せの黄色いハンカチ」などは昔(35年位前)観たはずなのに、錆の部分以外ほとんどあらすじもシーンも覚えていなかった自分に唖然とした。本当に歳をとってしまった、と。遺作映画となった「あなたへ」の健さんの歩き方・後ろ姿に、80歳を超えた父の姿が重なった。いつか父にもこのような日が来るんだ…、と。胸が詰まる想いがした。
 さらに年末、訃報が飛び込んできた。2歳下の私の後輩が二人急死と病死したという。ショックだった。あんなに元気だった彼が、前日までジムで見かけた彼女が、と。人の一生とは儚いもので、いつか自分にも来るもの、いつ突然来てもいいように覚悟しておこう!と思った。そして年末年始の6日間は大晦日も元旦も朝から深夜までずっと書類のダンシャリに明け暮れた。30年分の論文・文献や、引っ越し以来15年間開けていなかった段ボールの中の学問・仕事関係の書類を1枚づつ目を通して整理して一つの引き出しにまとめ、あとは大量処分した。すっきりした!海外旅行に行くより。しかし年明け手伝ってくれた父が倒れた。「本当に死んでしまう!」と不安になった。急遽朝一の新幹線で駆けつけ救急受診させ、原因を解明し何とか回復傾向に向かっている。正月から半月経ってようやく皆で行けた墓参りでは、我が家の墓にだけ花がなく、眼前に広がる雲一つない青空にそびえる御嶽山は、もう噴煙を上げておらず、代わりに美しい雪を頂いていた。あそこにまだ何人もの人が埋まっていると思うと、「自然とは残酷でもあるなあ」との想いを抱いた。
2015.1.21

 9月の連休に、お彼岸と30年前に亡くなった祖母のお墓参りと敬老の日(さらに私の記念すべき誕生日も)を兼ねて、多治見の実家へ帰りました。盆地である多治見市の南西の山の上にある我が家のお墓から、東の御嶽山が晴れた日にはよく見え、雲一つなく晴れ渡ったその日の朝も、昔爆発してできた大滝崩れの跡までくっきりと見えました。祖母が眠るお墓の真正面に御嶽山を眺めて一休みしながら、「そういえばあの爆発はいつだったかねえ?おばあちゃんの死ぬ前だったか後だったか?」と父に聞くと、「確か前だったと思うよ。だからもう30数年前だね。」と答えが返ってきて、「しばらく静かだからそろそろ危ないねえ。」と会話を交わしたところでした。その2週間後奇遇にも御嶽山は水蒸気爆発しました。しかも35年前より被害が大きく、いまだに行方不明の方々がいらっしゃるという状況が続いています。実家からは毎日噴煙が上がっているのが見えるとのことです。私はそういう山々に囲まれたて育ったせいか、逆に海に対する憧憬の念が強いのかも知れません。
 しかし戦後最大の火山噴火被害となった今回の御嶽山の爆発に加え、その後台風18号・19号と次々に大型台風が日本列島に上陸し、自然災害によって亡くなる人の報道は後を絶ちません。美しい山の紅葉を見ている時急にその山が爆発し、鉱物の巨岩が頭の上から降ってきて、直前まで「今日、今、死ぬ」と思っていた人はいないでしょう!台風でも地震・津波でも雷の被害でも同様で、自分の寿命が今日尽きるとは誰も思わずに生きていたでしょう。直前に一瞬は覚悟するのかも知れませんが、自然災害、というか地球・太陽系の現象に巻き込まれた時、人間という生物はなんと儚い存在なのか。人間が蟻や蚊を安易に潰して殺すように、いえもっと小さい微生物に相当するかもしれません。
 人間の寿命は80歳くらいですが、このようにもっと早く突然終わりが来るかも知れません。クリニックには先のことばかり心配する人が多く来院されますが、それは今の世の中がこのまま続くと想定した上での予期不安であって、条件が正しくありません。未来は予測不能に変化するのであって、今が続かないことだけは確かです。だから、今、今日一日をもっと大事に前向きに生きなければならないのではないでしょうか。不安の強い人には「今日の晩御飯のことまでしか考えないように!」と言っています。今・今・今の連続が過去から未来に続く時間の線~人生~になっていくのです。いつ果てるか分からない自分の今の命。過去を悔いたり、未来を不安がったりする時間があるのなら、「今」に集中して生き、より良いプラスの「今」を連続させて、自分の人生時間を実のある豊かなものにしていきたいですね。
 御嶽山噴火で亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。  
2014.10.16.

 この夏はかなりの時間を海の上もしくは海の中で過ごしました。というのは、2011年の東日本大震災以降日本の海に入ることを控えていた私が、もう一度海を確認してみよう!と思うようになったのです。

 土曜日の診療後即成田空港へ向かい、4時間強のフライトでその日の内にはパラオに到着し、翌朝からダイビングショップ・デイドリームさんの龍馬号というクルーズ船に乗り込んで、洋上に停泊している船で寝泊まりしながら一日中ダイビングをしていました。パラオ共和国は、日本との時差はなく北緯8度に位置し、太平洋戦争中日本領だったこともあり、日本語が所々残っていたり、流暢な日本語を喋る人がいたりする親日国です。残っている日本語としては、以前行ったジープ島のあるトラック諸島と同じく、「ベンジョ」「チチバンド」「エモンカケ」などがありますが、一緒にダイビングしていた30代の日本人男女は「衣文掛け」が分からない!とのことで驚かされました。外来語の「ハンガー」が行き渡りすぎて、なくなりつつある古き良き日本語がパラオの地で生きているんだなあ、と不思議な気分になりました。また、「パラオには天気予報はない!」と最初に聞かされ???と思っていたのですが、海に出るとすぐにその意味が解りました。太陽と風と潮によって、水に覆われた地球は、水蒸気が上がって雲になり雨が降ることを繰り返している、そして天気は一日中変化するので、予測がたてられず、その意味もないのです。良く考えたら、その頃日本を襲っていた台風はパラオの辺りで発生することが多いものなのです。潜り終わって水面に出ると晴れていた空が雨になっていたり、強風で停泊している龍馬号がクルクルと回っていたりする日もありました。また二日目は満月に当たり、夜船の屋上に上がると、明かりはなく真っ暗なはずが、眩しいほどの月明りで360度空と海が照らされ薄明るく浮かび上がり、まるで私がその景色を独り占めしているようでした。電気など全く必要ありません。星ももちろんいっぱい明るく輝いていましたが、月の模様が日本で見るのと違ってくっきり鮮明で、ちゃんとウサギが臼を突いている姿に見え、日本の空がいかに濁っているか思い知らされました。早朝6時まだ日が昇る前からスピードボートでダイビングポイントまで行って潜るearly morning diving、一旦龍馬号へ戻って朝食後またボートで午前2本、龍馬号で昼食を取って午後ポイントを変えてもう1本、夕食後7時半から9時過ぎまで、真っ暗な海でnight diving(mid nightもある)と1日最高5本(31%のネンリッチド・エアータンクを使用したため普通の酸素ボンベより長く沢山潜れるのです)と、{海に潜る―食べる―寝る}だけの生活でした。もちろん洋上なので、電波は届かずWi-Fiもなく、テレビ・携帯電話・メール・インターネットはできず、初めは残してきた娘のことが気がかりで落ち着きませんでしたが、しかし諦めると却ってその方が俗世から切り離され落ち着いてきました。いかに俗世は情報に翻弄されているかがよくわかりました。龍馬号では、そこにいる数人の人間としか交流がなく、海の中では海の生き物と水を介した非言語的コミュニケーションを試みるしかありません。最終日の早朝ダイブでは、なんと待ちに待ったジャイアントマンタの朝ご飯に遭遇し、1時間近く私たちの周りを回遊してくれました。時に私に近づいてきてくれたように感じ、その優雅な姿に感動しながら昼には岐路につきました。

撮影:森本茂夫氏

 翌早朝4時にパラオを飛び立ち、9時には成田へ到着、昼前に自宅に帰ると、すぐにまたパッキングをし直して御蔵島(東京都)でイルカとモノフィンダイビングをするために夜竹芝へ向かいました。午後10時半出航して、板の和室で雑魚寝しながら(もちろん寝心地は最悪!)三宅島経由で朝6時に御蔵島へ到着、8時半から小舟で島周辺に住んでいる野生のイルカに会いに出かけました。御蔵の海はタヒチと違って黒く荒々しく、海の中には珊瑚はなく大きな丸い石がゴロゴロ並び、海水はパラオに比べて格段に塩辛く口に入ると大変でした。私は初めてモノフィンで海に入ったのですが、黒潮の流れが速く船は大きく揺れ、フィンの脱ぎ履きに手間取り、船の中で何度もひっくり返りました。島一周約2時間に最多で8回までイルカを見かけると皆一斉に海にダイブすることを繰り返すのですが、時にはイルカに逃げられてしまうこともあり、海の透明度が悪くイルカが良く見えないこともあります。イルカを見かけると、ジャックナイフで海底7~8mまで一気に素潜りし、群れの中に入っていきます。呼吸が続く限りイルカと戯れようとするのですが、なかなかタイミングが合わず、更にビデオを撮ろうとすると体力の消耗が激しく、1本潜って次に潜るまでエネルギー回復に結構時間を要するのでした。しかし1回目にかなりの数のイルカたちと遭遇し、途中で1匹のイルカが私の所へUターンしてきてくれ、「一緒に遊ぼ?」と言っているかのように体を私の目の前に寄せてつぶらな目で視線を合わせて誘いました。水は空気より感情を伝えやすいということですが、確かにそのイルカの心は私に伝わりました。私も「よ~し、行こう!」と答えて一緒に海中をぐるぐるモノフィンで天に地に右に左に乱舞した挙句、サーッと踊りに飽きたのかイルカは去っていきました。ビーフィン(二枚の足ひれ)よりモノフィン(二本の足を揃えて履く一枚板の足ひれ)の方がはるかに速く泳げイルカについていけましたが、私の息はイルカほど続きません。海上に上がり、一回呼吸をし直してまたジャックナイフで潜りましたが、群れは遠くに見え、モノフィンでも追いつけませんでした。船に上がった途端、船酔い波酔いイルカ酔いで激しい吐き気に襲われ、私同様イルカに弄ばれた人間でいっぱいの船になっていました。御蔵島のイルカにはID名前が付けられており、子供や孫の確認も取れて系統図もあります。イルカはビーフィンよりモノフィンに興味があるようで、それを履いた人間を一人ひとり確認して回っているようでした。1日2周船で回り、最終日の朝は6時から潜って再び船での岐路についたのですが、結局イルカに翻弄されてロクなビデオは撮れずに終わりました。

 1週間ほとんど海水浸しの夏休みを終え、今夏の締めくくりとして8月31日逗子湾でのオープンウォター2.5kmビーフィン部門に初チャレンジすることにしました。その前3回湘南へ海泳ぎの練習に行きましたが、波のうねりと水の量、潮の辛さはプールとは全く違い、前方確認しつつ泳ぎも変えなければならず、かなり勝手が違いそうだ、と感じていました。午前9時5分海水温22℃曇り空の中フィンを履いて一斉に海中スタートしました。クラゲと寒さ予防にラッシュガードを着ていたので、泳ぎ始めると快適な水温に感じ、透明度も良く波も穏やかで絶好のコンディションでした。しかし満潮が8時半と聞いたので、1.25km先のブイからの折り返しの方が大変なのではないかと予想して、行きはゆっくり波に乗りながら抑え目に泳ぎました。それでも時々顔を上げて前方の目印を確認すると、在らぬ方を向いていて慌てました。左右に蛇行しながら何とか折り返しのブイまで泳ぎ着き、Uターンすると一気に波が変わり、泳いで体を進めることがきつくなりました。引き潮に逆らって泳がなくてはなりません。また湾の外海近くなのか左右から寄せて返す波に両方向から大きく飲まれ、体は大きくもんどり打ちます。顔を上げても目標物は見当たらず、ブイも波で見えません。自分が一体どちらの方向を向いているのかわからず、ただ右に左にコースを大きく外れていることはライフセーバーの誘導で予想できたのですが、どこが正しいまっすぐなコースか、どう修正してよいかの分からなくなり、周りに同泳者は見当たらず、大海原に自分一人ビリで置いてきぼりか迷子になっているような心細さに襲われます。ゴールから左右に90度はぶれてジグザグに泳いでいたと思われます。ここで慌てて不安になると恐怖心からパニック状態に陥ってしまうと思い、ひたすら冷静に「人影と船に向かって泳げばいつか活路が見いだせる!」と自分を落ち着かせ、時々立ち泳ぎもしました。ようやく女性ライフセーバーに「ゴールはどこですか?」と聞いて目印を教えてもらい、湾内に入って横波もなくなったので、最後500mは落ち着いてまっすぐ泳げました。海底の砂模様が見えてきた時は、「やったー!到着だ!」と安堵しました。ちょうど50分でゴールした時は、潮で口は辛く乾き、疲労で酷い顔だったはずです。給水を取る余裕もありませんでした。トータルで2.7㎞は泳いだでしょう!結果は女性の部で全年齢中6位でした。ゴールしてみると、やはり疲労や波酔い、低体温症、パニック状態でリタイアした人が結構いたようです。とにかくタイムや順位より初挑戦で完泳できたことに万歳!です。いつも日本の海水浴場ではブイより遠くへ泳いで行けないので、大手を振ってそれより先に泳いで行ける!との思いから参加した海の大会でしたが、やはり外洋では安易に泳がない方が良いということを学びました。
PS.) しかし日本の海は外国より潮辛い!です。
2014年9月

 サッカーのW 杯はドイツの4度目の優勝で幕を閉じ、私の32日間に及ぶ睡眠不足との戦いの日々もようやく終わった。実は私は昭和53年の第11回W杯アルゼンチン大会から36年間サーカーフリークである。高校生の頃、深夜の「三菱ゴールデンサッカー」というテレビ番組を一人で密かに見ていた。そして当時は日本など出場に全く手が届かないW杯というオリンピックより盛大な世界的なサッカーの祭典を見て興奮していた。好きが高じて、大学時代テニス部がオフの冬サッカー部のマネージャーを引き受けることになり、試合のスコアラーを務めたこともある。1978年マリオ・ケンペスに魅了されて以来のアルゼンチンファンである。ユースで優勝した時のマラドーナとディアスの若き日の顔がついこの間のことのように思える。プラティニが名古屋の瑞穂サッカー場のこけら落としに来た時、初めて芝のサッカー場での試合を見て驚いた。というのもそれまでサッカーは土のサッカー場でしか見たことがなく、20歳頃のラモスが名古屋に来た時、積雪で泥んこになり、時にボールが止まる試合を観戦していた覚えがあるからである。1985年静岡でレジデントをしていた時も、時間を縫って草薙競技場へ高校サッカーの静岡県予選をバイクで足繁く見に行っては将来のスター選手発掘に目を輝かせていた。そこで最初に見つけたのが、武田修宏君である。「この子は将来スターになる!」と。

 W杯の主だった試合は全部ビデオに撮っていた。1986年アルゼンチンが優勝した時のマラドーナの5人抜きや神の手も当然VHSに撮ってあるが、結果を知ると見直さないのがサッカーの試合である。ブラジルのジーコやソクラテスらの黄金のカルテットも見ていた。当時は圧倒的に南米のサッカーの方が魅力的だった。1990年ブレーメが蹴った鋭い左足のキックがゴールネットを揺らして西ドイツ(当時)が優勝した時、子供のように泣いているマラドーナの姿は痛々しかったが、ドイツは強い!と思ったものである。そして1993年のJリーグ発足時、日本でスキラッチやジーコ、リトバルスキーといったW杯のスターたちがプレイしている姿に驚き頬をつねったこともある。しかしそれから急に増えた俄かサッカーファンに圧倒されてかやや私の中のサッカー熱は冷めていった。’94アメリカ大会のバッジオのPK外し、ドーハの悲劇、’98フランス大会の中山の初得点、そして’02の日韓大会へと時は進んでいった。日韓大会では事前の抽選で54通り中2会場8名分当ったため、札幌でのドイツ-サウジアラビア戦と、仙台でのメキシコ-コスタリカ戦を見に行った。目の前でクローゼのヘッドでのハットトリックを見て、「すごい選手が出てきた!日本のサッカーなんてまだ子供レベルだ!」と痛感したものである。彼の跳躍力というか得点感覚は、眼の前で生で見ると人間というより動物に近いものがあり、サッカーを見ているというよりアクロバットでボールが操られているように感じた。予感通り、今年のW杯でクローゼは世界歴代第1位の得点王になったではないか。そして新横浜での決勝戦も直前でチケットが手に入り見ることができた。試合開始前のセレモニーが始まり、予選から参加した世界中の国旗が紙吹雪と共にサッカー場の天井から次々に下りてくると、私は全身が感動で満たされ震えだし、思わず涙が溢れ出て人目も憚らずウエーブと共に泣き続けていた。「ワールドカップの決勝戦!一生に一度かも知れないこの瞬間ここにいられるなんて!夢のようだ。」と。今回開幕戦の国歌斉唱でネイマールが泣いていたのも同じ気持ちなのではないかと思う。私はドイツの大きな山高帽をかぶって応援していたが、ブラジルが優勝、しかし出口からの帰り道では、ブラジルサポーターのおじさんたちと肩を組んでサンバを一緒に歌って踊りながら歩いていた。サッカーを愛する気持ちは世界共通、試合が終われば敵味方はない!と思ったものである。中田英寿選手が引退してから、私のサッカー熱はやや萎んでしまった。’06ドイツ大会は私のお眼鏡通りクローゼは得点王になったが、南アフリカ大会の記憶は治安の悪さのせいか興味が持てずあまりない。

 そして今回のブラジル大会、本当は観戦に行きたかった。そして今回は日本も多くの選手が海外プロリーグでプレイし、世界でのレベルアップが見られるかもと、期待した。

 初戦のコートジボアール戦、前半本田のゴールで先制したが、コートジボアールのサッカーは力強く綺麗だと思った。集中力も途切れず、心の底で「やばいぞ、強い!」と思った。後半ドログバが登場すると、データラボッチでも見たかのように、勝っているのに日本選手たちが皆浮き足立ち始めたではないか!まずはザッケローニ監督が一度入れようとした交代選手を引っ込めるという動揺を示した。イタリア人監督の顔が日本人に見えたのは私だけだったろうか?「勝ってるんだよ!」と叫んでも当然届かず、逆にコートジボアールの選手たちは生気を吹き込まれたかのようにリズムよく動きだし、あっという間に2点奪われ、そのまま敗戦になってしまった。ドログバ・マジックをかけられたようだった。その後私は専門家の立場として、ドログバという選手は何かシャーマン的なものを持った人なのだろうか?という興味から、コロンビア-コートジボアール戦を凝視した。日本戦と同ように後半途中から登場し、いきなりコーナーキックにヘッドを合わせて弾き出した。やはり?と思いきや、その2本目のコーナーキック、ドログバの前にすっと出てきてシュートを決めた選手、それがハメス・ロドリゲスだった。ドログバを一人間としてものともせず、果敢にその前に出て打ちのめした。その後もロドリゲスは私が見たこともないカウンター・キラー・ライナーパスを前線に蹴って、一発でシュートを決めさせる離れ業をした。彼とコロンビア選手たちはドログバ・マジックなどにはかかっていない!という強い精神力を感じた。ということは日本がメンタル面で弱い!ということである。ロドリゲスをはじめとする世界は技術もメンタルも日本をはるかに上回っている、と痛感した。日本は強くなったかも知れないが、世界もさらに上のレベルで強くなっている!これは勝ち目がない、というのが開幕間もない私の印象だった。第2戦のギリシャ戦もレッドカードで相手が1人減ったのに、負けているかの如く暗いメンタルを引きずったままドローに終わった。当然第3戦のコロンビア戦は、後半ロドリゲス投入で一気に3点追加されて負けた。1軍対2軍の戦いのようだった。
 その後ロドリゲスは私の先見の明の通り得点王になったが、破ったブラジルも、ネイマールの負傷欠場で、前半30分で5失点と大敗。私はあまりに惨い試合に耐えきれず、準々決勝からは全試合ライブで観戦したが、この試合だけハーフタイムでテレビを消した。開催国なのにあまりに残酷で見ていられなかった。コールドゲームにしてあげれば、とさえ思った。それほど、ブラジルは精神的に脆く立て直し不可能だった。元々ブラジル国民とはそんなに陽気ではなく、ナイーブで湿っぽい性格である。サンバを陽気な音楽と踊りだと思っている人が多いようだが、実はアフリカから黒人達が奴隷として鎖に繋がれ船で南アメリカへ送られてくる道中、悲しみを打ち消すために皆が歌い始めた音楽がサンバである。若い頃ラテン音楽を少々やっていた私は、歌いながらその悲しみ・哀愁を痛感したものである。クリニックにも故郷から遠く離れてうつ状態に陥ったブラジル人が時々来院し、一度落ち込むとなかなか立ち直れない傾向がある。案の定、結果に落胆したブラジル国民には、自殺者も出たし、暴動も起きた。’94アメリカ大会でもコロンビアがオウンゴールで負けた後エスコバル選手が殺された事件もそうだが、南米サッカーは魅力的な反面、感情的過ぎるのではないか。ウルグアイのスワレス選手の噛み付き事件や、試合に負けると見ている方が感動するほど泣いている南米選手などからも。(欧州の選手は敗戦後大泣きしていただろうか?)アフリカ勢やアメリカも健闘し、予選敗退したがオーストラリアやイランもかなり強くなった!と唸らされたほど好ゲームが続く中、決勝は最初に予想した長年私が応援し続けているドイツ・アルゼンチンの2国となった。できれば両チームとも負けにしたくない!延長・PKでもずっとドローでいってほしい!と願った。アルゼンチンチームにはできれば決勝ではディマリオに出てほしかった。全く違うタイプのサッカーをする欧州と南米チームの対戦で、120分間集中して全く飽きなかった。36年間サッカーを見てきた中で、文句なく最高の試合ベストゲームだったといえる。良いものを見せてもらった!と感動した。しかしドイツは強かった!良く似ているが、私は’90マテウス率いるベッケンバウアー監督のチームの時より強かったと思う。最後は心なしかアルゼンチンの方を応援していた私であるが、ほぼ互角の戦いの末、PK で決着するよりすっきりした結末だったかもしれない。終わってみれば、判官びいきで「メッシに勝たせたかった。」という人が多かったのではないか。

 結局決勝リーグに進んだチームは皆メンタル面が強く、オランダを含む3強は特に強かった。実力・技術・チームワーク・監督采配以上にメンタルの強さが必要だと実感した。事実後で知ったが、あのハメス・ロドリゲスのコロンビアは、やはりメンタルトレーナーがしっかりついてコントロールしていたらしい。日本チームにもいるのだろうが、効果は全く表に出ていない。ブラジル同様優しさとか繊細さとかは日本人の良い点でもあるが、戦争代わりの平和的スポーツの戦いにおいては不味かろう。今後是非強化すべき点であると思われるが、まだ日本にはあまり根づいていない分野である。スポーツ精神医学会に所属してトップアスリートのメンタルケアを垣間見ている立場からも、選手・治療者双方にその意識と絶対数が少ないのが現実といえる。今回のブラジルW杯での日本の敗戦ショックはかなりのものだっただろうが、「自分たちのサッカーができなかった」というより、それが実力であり、世界も同様に進化しており、やはりまだまだ世界との力の差は縮まっていなかった現実を受け入れるべきであろう。もしかしたら、海外組と呼ばれる選手たちが増えて世界に近づいた印象を持ったかも知れないが、それが温床として油断になり貪欲さや危機感が薄れたのかも知れない、と思った。2020年東京オリンピックや次回ロシアW杯に向けてどこまで日本のスポーツは向上させられるのであろうか?スポーツ精神医学会に所属している自身にとっても切実な課題だと思わされた大会だった。
2014年7月

 このGWは15年来の念願だったグランドサークルを巡る旅を敢行してきました。グランドサークルとは、アメリカ合衆国南西部のアリゾナ州とユタ州にまたがる半径約230㎞の円内地域をいい、太古からの神秘的な奇岩やダイナミックな景観など、むき出しの地球を見ることができ、古代先住民の遺跡及びそのネイティブアメリカン最大のナバホ族の居留地が含まれてもいます。国立公園や州立公園、世界遺産なども数多く、今回はラスベガスからグランドキャニオン~モニュメントバレー~アンテロープキャニオン~ホースシューベントを車で回ることにしました。いつも海ばかり行っている私にとって、浮力に頼らず重力と戦わねばならない山の行程は、やや不安を伴うものでした。

グランドキャニオン

 東京の辰巳国際水泳場でマスターズの4レースに出場してほとんど一日中プールで過ごした日の深夜便で羽田から飛び立った私は、着いた朝ラスベガスを出発した車中ひたすら眠っていました。目が覚めるとそこは別世界!人間の歴史よりはるかに長い時間をかけてコロラド川が研ぎ澄ました赤茶けた奇岩の壁、地球の大きな地殻変動と風雨による浸食などの大自然が作り出した驚異の光景グランドキャニオンが目の前に広がっていました。その長さは446㎞(東京~米原に相当)、幅は13~26㎞、深さは1600mと雄大で、日没の夕陽と日の出の朝陽に照らされキャニオンの凹凸が刻々と異なる色合い・表情を見せる様を気温1℃の寒さに耐えながら鑑賞・感動し、本当にいつか誰かが言った「ここに立つと、今まで自分が悩んできた諸事が、何とちっぽけなことだったのか!と思える。」という言葉が自然と脳裏に浮かびました。

モニュメントバレー

 様々なポイントからグランドキャニオンを鑑賞した後、アメリカの原風景と言われるモニュメントバレーへ移動しました。数々の映画のロケ地となった巨大なビュート(赤い岩の残丘)が静寂な中整然と立ち並ぶネイティブアメリカン最大のナバホ族の居留地です。そこには今も電気や水道といった文明の利器に頼らない伝統的な生活を続けている7家族がいるとのことで、そのナバホのガイドさんの案内の元、未舗装の赤土(一部砂漠)の凹凸道を車で進みました。色々な形の巨大なビュートを様々な角度から眺め、夕陽・朝日に照らされ浮かぶビュートの雄々しい姿を静かに鑑賞し、「ホーガン」と呼ばれる木を円錐形に組みその上に赤土をお椀型に固めた「かまくら」のような家(入口は太陽が昇る方向に開けられている)で昔ながらの暮らしをするナバホの人々の地を巡るうちに、その自然と調和しながら生き続ける人々の謙虚さに染まったのか、私もいつしか敬虔な気持ちになっていました。

アンテロープキャニオン

 最後の日はナバホ居留地にあるもう一つの、そして今回の私の旅の最大の目的であるアンテロ―プキャニオン(アッパー、ロウアー)へ。水流と風が長い年月をかけてらせん状に刻んだ赤土砂漠の地下洞窟で、深さ36m、幅2~3mの亀裂の内、太陽の光はわずかしか差し込まず、その光が赤~ピンク~紫色の砂岩(陶器の素焼のよう!)の水流模様の壁に反射して美しい色のグラデーションが浮かび上がります。砂を含んだ光のビームと岩のドレープが幾重にも折り重なって、神々しいまでの幻想的な大自然の造形美に酔いしれながら、何度も立ち止り見上げシャッターを切り、聖堂のような洞窟探検を感動の連続のまま地上に出ました。ここもナバホのガイドさん付きでないと入れない神聖な場所です。

ホースシューベント

 最後に、コロラド川が侵食した馬蹄形型の断崖絶壁ホースシューベンドを見て、もっとこの地に居続けたい!という後ろ髪を引かれる想いを抱きながら帰路につきました。海とはまた違う地上の、地球自然の原風景に圧倒され続けた1600㎞に及ぶ私の旅は、予想をはるかに上回る感動で心満たされ、ナバホ族の人々が今も太陽・地球・自然と共に生きている姿に、海で学んだ地球に沿う生き方と共通するものを感じ、その大切さを再確認しました。

ラスベガスの街

 車は6時間走って夜、一転して超人工的な物・事の権化のような街ラスベガスへ帰還しました。人間の欲の坩堝(るつぼ)のような24時間眠らない街ラスベガス。カジノや巨大な超高級ホテル群と世界中の超一流人気ブランドが名を連ねる巨大ショッピングモール、エンターテイメントショーや世界中のグルメダイニング、とにかくアメリカは何でもデカイ!数時間前の風景との落差が大きすぎてめまいしそうな私に追い打ちをかけるように、チェックインした某有名超一流Bホテルで、何と!1泊30~50万円もしそうな250㎡位のスイートルームに案内されたのです!何かの間違いではないか?と思いフロントに電話し、「こんな広い部屋は怖いので、もっと小さい小さい部屋に変えて下さい!」と懇願、先程までいたナバホ・ネイションのホーガンで十分な気分でいる私なのに、「今晩はそこしか空いていないから。」と却下され、夢の中~まるでハリウッド映画の中に入らされたような気分でした。物欲がほとんどない今の私に、ラスベガスの街は「無駄な人工物の巨大集積場!」としか映らず、豪華な広すぎる部屋、週末で一晩中賑わうメインストリートの喧騒、救急車やパトカーのサイレンでほとんど眠れませんでした。シルクドソレイユのOのショーを見ましたが、日頃水泳と筋トレを続けている私には、内村航平君がいっぱい!とシンクロナイズドスイミング&飛び込みにしか見えず、ダンサーの筋肉や関節ばかりに目が行き、「あの筋肉はどうやったらできるんだろう?」とか「あの関節はどうなっているんだろう?」と思いながら見ていたので、やや興醒めの鑑賞でした。また、地上旅行のため4日間泳いでいない私は、禁断症状のようにたまらず練習!と競泳用水着とゴーグル・キャップを持参してホテル中庭に配置された5個のリゾートプールへ駆け付けたのですが、朝から集う世界中の宿泊客の中ちゃんと水泳している人はおらず、ビキニにサングラスをかけて胸辺りまでしか水につからず、多くはプールサイドでお昼寝・読書・シャンパン片手のセレブ達でした。しかしここまで来たから!と意を決して(さすがにディズニーのピンクのキャップは被りませんでしたが)一番長い(といっても15mくらい)プールの壁沿いを5往復して切り上げました。アップにもならず…。

 この人間のあらゆる物欲が詰まったラスベガスの街と、地球・自然と調和して生きるナバホ族居留地、この二つのアメリカの対極を見た旅でした。5年くらい前までは私もラスベガス派だったのですが、最近はすっかりナバホ化していました。何がきっかけでそうなったのか?しかし今の方が断然楽に生きられています。最近の精神医療でも、精神病より、うつ状態や神経症から人生相談的なことの方が増えています。それはどこかしら欲が満たされずに嘆いて来院する人々のような気がします。アングロアメリカンがアメリカ大陸の西部開拓を始めた侵略欲により、ネイティブアメリカンの人々は先祖代々受け継がれてきた豊かな土地を追われ、高地砂漠地帯と呼ばれる不毛の土地・居留地に押し込められたのですが、図らずもそこには膨大な量の石油が埋蔵されていることがわかり、多くの観光資源と共に「宝の山」と化すことになったのです。日本も明治以来の西洋化、戦後の高度経済成長、バブル時代とその崩壊を経て、americanize~globalizationが進み、白人同様欲を満たそうとする傾向が強くなったのではないでしょうか?しかも一人一人自己意識が強くなり、それは良い一面もありますが、その欲が満たされないと苦しみ嘆き来院するという構図が考えられます。ナバホの人々から学んだ謙虚さから、欲を捨ててあるいは減らして、あるがままの自分を受け入れつつ自然と調和して生きること、そうすることで楽に生きられ、医療のお世話にならずに済む人が増えるのではないでしょうか。今回は海ではなく地面からですが、同様に自然・地球・太陽・人間についてまた多くのことを感じ学んだ心洗われる旅でした。
2014年5月

 ようやく春が来たって感じですね。今冬日本列島は長い長い寒い寒い冬でしたね。関東地方では2月の大雪2回と3月20日頃の寒の戻りと、毎日ます天気・気候の話から始まるニュース番組が多かったように思います。もう雪と寒さはこりごり!という方も多いのではないでしょうか?しかし春が来た!と思った途端、花粉症でボロボロの方もいらっしゃるでしょう。PM2.5で霞のように曇っていたり、ノドンが飛ばされたり、マレーシア航空機が行方不明になったり、と天空の状況がやや忙しいこの春です。
 音楽家O氏の障害者偽装やリケジョO女史の論文疑惑といった事件が続き、袴田事件の再審請求が決定しました。「偽り」というキーワードが浮かびました。
 クラシック音楽に疎い私は、O氏のことは全く存じ上げておりませんでしたが、疑惑が浮上してからテレビ画面で見たO氏の壁に自分の後頭部を打ち付けるシーンを見ただけで、何らかの人格障害がありそうな人だと推察しました。
 またO女子に関しては、私も医者の最初は内科で脳科学の実験・研究をしていて、論文・学会発表といった仕事に日夜追われていた時期があるので、少なからず興味を持って見ていました。何日も徹夜に近く実験・研究を重ねてもなかなか思ったような結果が出ず、マイナスデータの発表で終えた次第です。従って、31歳でネイチャーに論文が掲載させるなんて有り得るとしたら何とラッキーな!と驚いたのですが、でもなぜ、一流の科学的研究者が実験している様子をズームアップしてカメラに撮らせるんだろう?しかもいくら若いとはいえ、寝る時間も惜しんで形振り構わず日夜実験に没頭していたはずなのに、今エステに行ってきばかりで、今美容院でヘアメイクしてきました!と言わんばかりの綺麗なお顔と今は珍しき白の割烹着でカメラに露出するんだろう?と不思議に思いました。あの映像はスタップ細胞という世紀の大発見を報道するというより、O女史の美しき容貌を強調して何か演技的でショービジネス的な匂いを感じ怪訝に思いました。それは誰の意図なのか?本人か、理研か?
 徐々に研究界の異常な構造が報道されるようになってきましたが、科学的研究の最先端というのは、昔から皆我先に!と発見・発表のスピード競争に焦らされ、キナ臭い話が横行しているようです。多額の研究費を国からもらうためや名誉欲のために、本来の研究目的が歪められていくのです。しかし果たして科学や医学が進歩することは全て手放しで喜べることでしょうか?もちろん病気の人には良いことですが、それはあくまでも正しく使われた場合であって、物事には必ず裏の反面があり、それを悪用する輩が出てくれば、人類にとってまた地球にとって脅威となるのではないでしょうか。人間が長生きしすぎることや、O女史が会見で言っていたように「夢の若返り」が可能になることが全て良いことでしょうか?今よりさらに長寿社会になって人間が溢れかえったら、それを支える世代は国力を増してもっと頑張らなくてはいけません。女性がいつまでも老いず欲の強い美人のおばあちゃんばかりになってしまったら?私は、自分に手を加えずに天寿を全うし、可愛い梅干しばあちゃんになりたいと思っているのですが…。
 「偽り」というのは、人間が欲を満たしたいがために、少しの「魔」を許してしまった結果大きくなったものでしょう。いづれにしても、欲を減らして生きることが生きやすくするコツだと常々思っている私です。
2014年4月

 この2月は、とにかく雪だらけで終わったような印象です。関東では人生で初めて雪掻きをした人も多いのではないでしょうか?かなり雪が降り積もる岐阜県で育った私でさえ、こんなに多くの雪掻きをしたのは初めてです。屋外のごみ箱はソフトクリームのようになっており、クリニックの外階段は、ラージヒルのジャンプ台のように斜面状に30~40㎝雪が降り積もって、夜看板の照明が当たると、今にも葛西選手が滑って来そうな美しい姿になっていました。しかも2週続けて週末に!
 おかげで今年最初のマスターズ水泳大会は、駅とバス停で1時間弱立って待ち、雪の谷と山をクロスカントリーのように歩いて3時間かけて会場に辿り着きました。アップもソコソコに召集へ行くと、公式の50mプールで8コースなのに、私の組はなんと私一人!他の7人が棄権でした。一人でどう泳いで良いか分からずあたふたしているうちにスタート!広いプールを独り占めして泳ぎ始めました。しかし50mでターンした途端、股関節から下はばったり止まってしまい???雪の中の行軍と長時間で冷えた足腰は、水泳用と全く違う仕様になっていました。しかし凡タイムながら、私の年齢区分では初の金メダル!何と銀も銅もおらず、私一人のエントリーだったのです。帰りもバスが運休で、駅まで歩いて帰り、たった130秒(2種目)泳ぐために5時間ほど雪の中を歩いた日となりました。  翌週も5日間連続で雪掻きをして、いつもの筋肉痛とは全く違う体のあちこちがガタゴトいっているような状態が続きました。ヨガでようやくほぐれましたが…。
 また我が家は、全館気調システムの室外機が屋根から滑り落ちた雪に埋もれて止まってしまい、2階はシベリアの寒さになりました。メーカーの修理技術員もこの雪でフル回転の結果風邪で倒れられ、我が家に入るのに1週間かかったため、その間患者さんには診察室でコートを羽織ってもらいました。多摩地区の友人宅では、60㎝程降り積もった雪の重みに耐えられなくなった駐車場の屋根が崩れ落ち、買って3ヶ月の新車のベンツが朝ぺっちゃんこに潰れていたそうです。静岡にいた時は「岐阜県出身でいいわね~。雪が見られて!静岡では雪を見られないから、子供は富士山の方へ『雪見遠足』ってのに行くんですよ。」と言われて驚いたことがあります。しかしこの度の大雪で被害続出し、関東の人はもう雪はこりごり!と痛感したことでしょう。
 逆に冬季五輪のソチは暖かくて雪の確保が大変だったようで、なんだか皮肉ですね。
終わってみると、今回のオリンピックはメダルの数や色よりも、競技の質や選手の心に感動したといえないでしょうか?選手たちは日頃から、ワールドカップや世界選手権といった4年に1回のオリンピック以外で試合を繰り返しこなしているため、昔ほどお国のため!という責務よりも、今までの集大成として自分が納得できる内容として結果を出したい!という気持ちで臨んだ人が多かったように感じます。だからか、結果に関係なく清々しさを随所に感じました。特に最後のフィギュアスケートの浅田真央ちゃんは圧巻でしたね。私も寝ないでライブで見ていました。正直言って、今まで同郷の真央ちゃんの演技、上手だとは思いますが感動したことはありませんでした。今回は見ていた日本中の人いえ世界中の人が感じたように、真央ちゃんの心・気持ちが伝わってきて感動し自然に涙が溢れ出て、人々の方が真央ちゃんに“心の金メダル”をあげたい気分になったのではないでしょうか。と同時に、本物のオリンピックの金メダルの意義って何だろう?と考えさせられもしました。フィギュアスケートなどの主観や好みの入った芸術点で競う競技だけでなく、ジャンプの飛計点や複合のルール変更などは、誰にでも一目瞭然のスピード競技と違って、よくわからない採点基準で、審判も人間なんだなあ?と思うしかないのですが…。近年のメダル至上主義がいかに国家間の虚栄心と経済絡みで、本来のオリンピック精神からほど遠いものになっていることに気付かされながら、しかし選手同士は国の威信をかけた戦争のようにではなく、いつも世界大会で競い合ってコミュニケ―ションが取れている同じ競技の仲間・同志という雰囲気が伝わってきて、スポーツの世界でのグローバリセーションの拡大を実感した大会でもありました。
 オリンピック効果として競技の翌日から、診察に着た患者さんの口から「真央ちゃんを見たら、自分が情けないと思った。私も頑張らなきゃ!」「レジェンド葛西に感動した。俺も負けてられない!」という言葉がたくさん聞かれました。私は「薬より効くなあ~!」と感じ入った次第です。
2014年3月

 2014年が明けてもう1ヶ月が経とうとしており、すっかり普通の生活モードです。
 しかし今年のお正月は、味気なく、めでたさ・賑わい・盛り上がりに欠けたように感じます。着物などの和風の雅を目にすることが少なく、初売りや福袋で活気づく街の風物詩がなかったような…、時の流れの線上に1月1日という元旦が乗っていただけという印象でした。正月休みに海外で潜っている(ダイビング)年はそう感じるのですが、今年は実家に帰省して日本にいたので、私だけの印象なのかと思っていたら、年が明けて診察にいらした患者さんと話すと、大多数の方が同じ印象を持っていらっしゃいました。これはいったい何でしょうか?
 犬連れで大晦日車を飛ばして3時間を切って帰省したのに、帰り1月2日昼過ぎ箱根駅伝を見終わって実家を出たところ、新東名の前後大渋滞にはまって、家に着いたのは夜11時前、ほぼ9時間かかりました。御殿場ジャンクションの手前の駿河沼津から止まってしまい50㎞4時間半でした。どうして皆もっとゆっくり故郷にいないの?どうしてさっさと現実の生活に戻ろうとするの?と不思議に思いました。まあ私もそうなんですが、年末ぎりぎりに故郷へ帰り、親に顔見せ元旦親戚と酒盛りしたら早々に都会の家に帰って自分たちの正月を楽しみ直そう!というスケジュールなのでしょうか?核家族化が進むと親元でゆっくりする家族は少なくなってきたようです。1月4日から仕事始まりの人もいらっしゃるとは思いますが、年末の大掃除から正月夫の親元での家事によりゆううつになるお嫁さんを想って早めに帰ろうとするのかも知れません。とにかく新東名ができたのに、二股に分かれるジャンクションの前後渋滞はすさまじい限りでした。これならハワイやニューカレドニアに行けちゃったね!と言いながら、2つトンネルを抜けるのに1時間=ガソリンのメーターは1目盛り4~5リットル減りました。しかし今年のお正月は長い休みだったのに、海外に行ったという人の声はあまり聞きませんでした。何となく家でのんびり過ごしてしまったという人ばかりで、皆さんお金を使わなくなっている印象を持ちました。4月から消費税が8%に上がり、3月末納期の各種PCの大改修を控えて各企業が戦々恐々としているようですが、そんな時に浮かれて海外やら贅沢品に散財などしていられないよ!ってことでしょうか?
 成人式、センター試験は大雪も降らず静かに過ぎ、今のところ大事件や大災害は起こらず、昔から毎年流行っているノロウイルスのニュースで騒いでいるくらいで、何やら嵐の前の静けさのようで不気味です。今、中国や北朝鮮やシリア・ロシア・タイなど 海外は紛争が続いていたり一触早発の雰囲気があったりと、物騒な映画を地で行くような情勢にあります。今年地球を揺るがす大事件が起こらなければ良いが…と願う年初でした。
2014年1月

 今年も12月に入り残りあとわずかになりました。この1年間何をしたんだろう?と考えて、何も浮かんでこない自分を情けなく思う年の瀬です。
 世の中の流れは予想不可能に変わっていきますが、リーマンショック及び東日本大震災以後落ち込んだ日本経済は今徐々に回復傾向にあると言われていますが、果たして本当に良くなっているのでしょうか? 実家の陶磁器産業界はまだまだトンネルの中に入ったままのようですが、日本経済界を代表するものとして車産業を覗いてみようと思いたって、約30年振りに東京モーターショーに行ってみました。車好きな父の影響で、10~20代は毎年名古屋のモーターショーに行っていたのですが、久しく車に興味がなく、ただ移動の手段と考え、震災後エネルギーの無駄使いをなくすべき!と車開発に反対であった私にとって、敵地偵察のような気分でもありました。最終日の日曜日の朝、たまにしか乗らない乗用車に乗ってお台場まで走ったのですが、会場の周辺の駐車場は臨時も含めて長蛇の列!晴海の2020年東京オリンピックでの選手村予定地辺りまで回されたのですが、駐車待ちの列は一向に進まず、諦めていったん都内で用を済ませてから、午後1時過ぎに再び行ったのですが、まだ並んでいて入れませんでした。仕方なく会場からかなり遠いコイン駐車場に止めて歩いて歩いてようやく2時半頃会場へ。しかしそこから入るにはまた人人人の波!入ってからトイレやコンビニに入るにも長蛇の列に並ばねばならず、車を見始めたのはすでに3時過ぎていました。そこで国産車と外国車数社に絞って回ることにしましたが、お目当ての車を見ようにもスマホやタブレットを高く上げて撮影する人だかりで車の全身は見られず、前の人の掲げるタブレットに映る車を見てながら、諦めてお賽銭を遠くから投げて帰る初詣のような私でした。しかし確かに車産業は活気を取り戻している風でした。30年前とは違うコンピューター満載の次世代型スーパースポーツカーand/or実用ファミリーカーに、夢見るように目を輝かせ胸膨らませ、わくわく且つ驚きながら人波の中次々に車を見て回る人々の姿に、日本はまた元気を取り戻しそうだ!と確信しました。他の産業はまだまだ景気低迷しているところもあるでしょうが、まずは日本の緻密な物作りの代表格として、車産業を皮切りに。格好良く走りまわす自己主張の権化のようだった昔の車と違って、現代の車はEVやクリーンディーゼルなどを取り入れながら、ただ単に移動の手段であるだけでなく、人に夢と希望を与え元気にさせつつ、安全に確実に生活の一部として人に寄り添うあるいは一体化した存在になっていると感じ、「車」の意義を見直しました。
 10日間で100万人近くの来場者数、満足度90%以上、と今年の東京モーターショーは大盛況だったこと然りです。またエコカーやリサイクルといった環境やエネルギー問題への配慮に時代の変遷を痛感しました。「環境に優しい」という表現は、今まで人間が地球の環境を傷つけ破壊してきたから気付いたのであって、実は「これから罪滅ぼし」というべきだと思うのですが…。しばらく物欲を失っていた私も、心を揺さぶられる車に出会ってしまい、12年目に突入した愛車を買い替えてみようかな?と思案している次第です。
2013年12月

 最近着物にはまっています。着るものというと、仕事着とスポーツウエア・水着以外ユニクロのホームウエアしか最近身に着けていない私は、いつの間にか洋服への興味がとんと失せていました。20代はファッション雑誌を見てはウインドーショッピングに明け暮れ、40代半ばまで素敵な洋服を身にまとうと、あたかもモデルさんのように自分が綺麗に見えるという幻想に駆られていたようですが、数年前から、どんなに素敵な洋服を見ても自分にあてがって想像することを全くしなくなっていました。摂食障害の患者さんのみならず思春期以降の女性はこぞって痩せて綺麗になって素敵な服を着たい!と言いますが、そうでしょうか?と私は首をひねります。お母さん世代もテレビショッピングなどで、ダイエットして痩せて○号の服が着られるようになった!と喜びの声をあげていますが、私には???です。10年前の私ならその言葉に全く疑問を抱いていなかったでしょうが、何が変わったのでしょうか?最近、仕事と水泳を含めた運動以外のことをあまりしていない私は、ちゃんとした服を着て靴を履いて外出する機会が激減しています。たまに研究会などに行く時は、クローゼットの中を漁って昔の服のどれを着たら良いか、靴ってものをちゃんと履かなきゃいけない!と慌てます。お陰様で体型は変わっていないので流行遅れの服でも着られるのですが、それを着た自分を見ても綺麗に見えず、ウキウキせず、もう新たに洋服を買う気にはなれません。歳のせいもありますが、お店で7号9号11号とサイズだけ違えてデザインが同じ立体裁断された洋服を見ても、そこに自分の体を入れるだけで美しく見えるとは思えないのです。そこで…、最近娘の成人式が迫り15年以上用無しにしていた和ダンスを探ることになって、思い出したのです。そうだ!結婚してすぐに私は「毎日着物を着て過ごしたい!」と宣言して、着付けを習おうとしたことがあったんだ、と。和ダンスを開けてみると、25年前に母が買い揃えてくれた加賀友禅の色留袖や佐賀錦の袋帯、大島紬や喪服など全く未使用の着物が山ほど眠っていました。着物は全て昔自宅で和裁をしていた祖母の手縫いなので、全部私サイズに仕上がっています。小学4年生の時「おばあちゃんが作ってくれた着物」という題で書いた作文がハードカバーに載ったのですが、その本も出てきました。そうだ、もう洋服は終わりにしてこれからは着物を着よう!と一念発起して、着付けを習いに行くことにしました。その初回、20歳過ぎまで祖母と母に正月や行事の際にマネキンのように棒立ちで着物を着せられていた私は、下着から長襦袢、着物までおぼろげながらですが、ほぼ着方を覚えていました。見様見真似で娘に浴衣も着付けていたのですが、ほぼ間違っていなかったことを知りました。細かい所や最近使う小物については教えてもらいましたが、帯だけはどう結んでいるのか背中で見えなかったので、一から習うことになりました。要は平面裁断の布を自分の体に上手に巻きつけて着れば良いのです。そうすると面白いように、眠っていた着物を片端から出して練習の度に着てみる私でした。しかも普段にも気軽に着られるように、ウエスト周りにタオルなどを入れて補正しないで、使う腰紐をできるだけ少なくする着付け方を教えてもらうことしました。そして3回目にはほぼ一人で着物を着られるようになりました。現代の日本女性は、立体裁断の○号の洋服!を目指して自分の体形を変えることに執心しているようですが、平面裁断の着物を自分の体形になじませて美しく着る風習に戻れば、摂食障害や人と体型を比べて落ち込んだり喜んだりする女性が減るのになあ…と思う私でした。
 もう一つ、先月末私の通っているスポーツジムのイベントで季節外れの餅つきがありました。入館して目にしたのは、杵を振り上げてふらふらしている若い女性スタッフの姿でした。「次、打ってみてください!」とすぐに振られて、物心頃ついた頃から高校生ぐらいまで実家では毎年年末1日中餅つきをしていたため、「今まだつけるかなあ?若い子に教えてあげようかな?」と思いながら私は杵を受け取りました。昔は、前日の夕方から祖母と母が餅米の用意をして、当日の早朝から釜戸でその餅米をせいろで蒸して、親戚が集まって来ると男性が木の臼と杵で餅をつき、女性が手返しして伸餅に伸ばしたりあんころ餅を作ったりしました。私は小学生の頃から、男女両方の仕事をして育ちました。12月の寒い朝から、湯気が立ち上る中、みんなで掛け声をかけながら次々に餅をつき、最後につきたての餅を頬張る熱気に溢れた年末恒例のイベントでした。「重たいですよ。」と言われて杵を受け取った私は、「どこが重たいの?」と思うと、瞬く間に昔の餅つきを思い出したようで、右足と右肩を前に出して腰を入れ、振り上げた反動から臼の真ん中に一番ヘッドスピードが速くなるよう杵を振り下ろしていました。それからはどんどん快調に一人で餅を打ち続け、誰も手返ししてくれないので、一旦杵の先にお湯をつけて餅の形を直してまた10回以上打ち続けました。「何で誰も手を出さないの?」と怪訝に思っていると、周囲の人は私の道に入った餅のつき方に驚き唖然として見入っていたのです。だんだん昔を思い出していい気になって打ち続けていた私も、「この辺りにしておこう。」と杵を置いたのですが、35年以上前の所作を体が覚えていたことに自分自身驚かされました。
 昔取った杵柄とはこのことなんですね。小さい頃習ったことは頭ではなく、体が覚えている、と。むしろ頭ではどんどん忘れていくことが多いのに、体に染みついた遠く長い記憶は薄れない、と。それを体感した10月でした。
2013年11月

 9月中旬大型の台風18号が日本列島を大掃除してくれたかのように縦断して行った後、4日間全く雲のない澄み切った空気の晴天が続いて、あっという間に秋になってしまいました。今夏エアコンの室外機のような熱風が行き場を失って籠り切っていた日本上空の空気を、一斉に吹き飛ばして、綺麗な空気に入れ替えてくれた台風に感謝しきりの私でした。(被害に遭われた方には申し訳ありません。)今年は晩夏にヒグラシの鳴き声もほとんど聞かれず、すぐに夕方鈴虫の鳴き声を聞くようになって、涼しさにほっとされた方も多いでしょう。やはり私は秋が好きです。夏の海も大好きですが、秋・伊勢湾台風の時に生まれた私は、秋を感じると体は落ち着き心は嬉しくなります。一方、この秋の訪れに寂しさや心細さを感じて、何となく不安になったり気分が落ち込んだりする人が増えます。夏から冬に向けての急な気温の低下や気圧の変化に体がついていかず、身体不調を起こす人も多く来院されます。最近では、秋バテとか秋うつともいうようです。心身が繊細な人達なのでしょう。私はそういう意味では四季を通じて全く変化を感じず鈍感なのでしょう。
 長い夏休みの後、学校に登校できなくなる子供も多い季節です。しかし勉学の秋・スポーツの秋としては最適な季節で、大学の秋入学には大賛成です。外国と時期を同じにする意味もありますが、受験時期を2月のインフルエンザや花粉症の流行る時期から夏休み前の6~7月という良い時期にずらして受験生を楽にさせ、その後長い夏休みで発散させ、9月秋入学で一気に勉学意欲を高めるのが良いのではないかと思っています。
 スポーツといえば、2020年夏のオリンピック・パラリンピックが東京で開催されることになりましたが、今夏のような暑さだと諸外国の選手たちは大変ですね。熱中症で倒れる観戦者が続出する危険性も想定しておかないといけません。しかし招致委員会の方々のスピーチは素晴らしかった!特に高円宮久子妃殿下の英語・フランス語は、生中継を見ながら鳥肌が立つほど気品に溢れていて素晴らしく久々に感動しました。日本人ってこんなに国際的になっていたんだ!と。2年前の私のスウェーデンでの国際学会発表は果たして大丈夫だったんだろうか?と思わずにはいられませんでした。これからは医者やビジネスマンだけでなく、スポーツする人も単なる旅行者もグローバルに英語を話せなくてならない!と感じた人が多いのではないでしょうか?なんと我が娘も同様に久子様のスピーチに感動し、その直後からi-Potに今までの音楽の代わりに英語のCDを入れて通学途中聞くようになりました。そしてスポーツ医療の分野で2020東京オリンピックに出場することを目指して留学する!と宣言したのです。まあ夢は大きい方が良い!と、その後のことも考えながらやるよう励ました母=私です。
 秋はまた各企業が忙しくなる季節です。決算期の会社もあるし、年末の過大な目標に向かってスタートを切る企業もあります。このところ新型うつなる逃避的な出社できないサラリーマンは減少傾向にある印象でしたが、これから本物の働き過ぎの疲弊うつ病が増えてくる時期に突入する!?と構えています。
 いずれにせよ、秋はいろいろな意味で変動の大きい季節です。今年もあと3ヶ月、1週間毎の繰り返しも13回ですが、冬に向かって足元を踏みしめながら一日一日過ごしていきましょう。
2013年10月

8月26日ようやく日本中猛暑地0の日になりました。
今年の夏はとにかく暑かった、日本もこんなに暑くなるものなんだ、と誰もが思ったのではないでしょうか。私は岐阜県多治見市で生まれ育ちました。先日四万十市に抜かれるまで、熊谷市と共に2007年に40.9℃を記録した日本一暑い所でした。昔は、冬は確かにどっと雪が降ることがあり、よく雪掻きはしたし、降り積もった雪の道を朝登校中山肌の下り坂で滑って崖から落ちたこともありましたが、猛暑の記憶はありません。
町の真ん中を流れる土岐川が作った三段のV 字谷の盆地で山に囲まれ緑が多かったのですが、陶磁器が主産業だったため山を削って陶土を掘り、その広大な跡地に名古屋のベットタウンとして住宅街が広がりました。その山の位置からのエアコンの熱風が谷底の盆地に流れ下り、木々が減って潤いを失った大気の温度をさらに押し上げることになって、気温40℃を超す日本有数の暑い地となってしまったのです。
この夏帰省した折、広いアスファルトの駐車場で、私のサンダルの甲の部分のエナメルが熱で溶けて壊れ、Mダックスの愛犬モエムを少し歩かせたら即刻熱中症になって意識朦朧となり、車に乗ったら外気温は43.5℃を示しました。その日の多治見市の最高気温は39℃近くでした。しかし年老いた両親は熱帯夜でもいつも体に悪いから、とエアコンを消して寝るのです。今年関東では夜もエアコンを消せなかったと思いますが、長年厳しい環境で生活している人たちは我慢強いものです。
自宅に帰ると、帰省前夜激しい落雷があった我が家のパソコン3台が動かなくなっていました。落雷の光とものすごい金属音の雷鳴と同時に停電した1発はどうやら裏の家の室外機に落ちたものだったようで、その誘導雷が我が家のルーターに入って壊れていました。4日間四苦八苦してようやく3台のパソコンは再起動しましたが、裏の家のエアコンは修理に2週間以上かかり、猛暑と熱帯夜の中戦前の生活を強いられたようです。貴重な体験をされて、さぞかし心身は鍛えられたことでしょう。
半面タヒチからの便りによると、今年のタヒチの夏はとても涼しく過ごしやすくて、まるで避暑地のようだったとのことです。また日本でも「沖縄へ避暑に行こうか?」という声が上がるように、本州より沖縄の方がいつも気温が低く、異常な気象でした。しかしここ最近『異常気象』という言葉は毎年発せられているような気がします。地球上のどこの何が正常で何が異常なのかわからない程、年々地球環境は変化してきているのではないでしょうか?40・50年前から気候がこんなに変わってきてしまっているということは、来年も再来年も夏は今年のように暑くなってそれが普通になってしまうかもしれません。原因として海水温の上昇や、偏西風の吹き方の変化があるなどと言われていますが、前にも書いたように、文明の進歩と言いながら、人間が自分たちの都合の良いように開発し地球に傷をつけてきた功罪として、地球が人間に天罰を下しているような気がしてなりません。
連日の激しい雷、それが最新の電化製品に落ちて破壊されたのは、まさに「我が天敵め!」と言わんがばかりで自然・地球の怒りのように感じました。政府の経済対策やエネルギー政策が声高に叫ばれていますが、人間優先で自国の目先の利益ばかりを追求していては、長い目で見て将来、日本だけでなく地球自体が自然からの逆襲により異常だらけになって崩壊してしまわないだろうかと心配になります。今年はその手始めかもしれない、と思いながらも、ここ数日の爽やかな暑さに秋は来てくれそうだ、とほっとする2013年夏の終わりでした。
2013年9月

 今年のジャパンマスターズ(第30回日本マスターズ水泳選手権大会、名古屋)が終わりました。その前に私が所属しているスポーツジムのマスターズ水泳大会春が終わっていました。結果は惨敗・全敗・最悪でした。そのために心を切り替えるのに時間がかかり、このエッセイの寄稿が遅れてしまいました。というのは、直前の怪我や故障のせいなのですが、それも調整ミス―自己責任―実力の無さといえるでしょう。スポーツジムのマスターズ大会は春と秋の半年に1回開催されます。昨年の秋から半年間毎日に近く2~3000m泳ぎ込み、直前まで万全に仕上げてきていたのに、大会前日の夕方、たった15分間ほどやったコンディショニングの一動作で股関節を痛めてしまい、マッサージをし過ぎたせいで、当日朝腰から下が緩みすぎてクラゲになってしまいました。キックが全く打てず本来の泳ぎからは程遠いアップ練習のような泳ぎのまま終わってしまったのです。翌日は呆然と放心状態で、冬場からの苦しい練習と筋トレの努力が、前日の一動作のせいで呆気なく泡と消えてしまうなんてなんと残酷な…!と夢を見ているような気分が続きました。骨盤の歪みを直して数日間休んだ後、気を取り直して次のジャパンマスターズに臨むことにしましたが、次は大会10日前に、筋トレでベンチプレスを50㎏上げた後、夜50mプールで2000mほど練習して、家で絨毯に手をついてちょっと振り向いた拍子に、右肩でピキン!と音がした~その後徐々に右肩腕が前下に落ちて痛くて上がらなくなり、それでもキックだけで数日間練習していたのですが、結局良く治らず、大会前5日間トレーナーから泳ぐことを禁止されたままぶっつけ本番で臨むことになりました。もうタイムには拘らず、3日間3種目(5種目エントリーしましたが、2種目棄権)に出場し、最後に200m個人メドレーを泳げたことを良しとすることにしました。最終日のダウンスイム(レース後体をほぐしながらゆったり泳ぐこと)が一番気持ちよく好調な泳ぎができました。

 ジャパンマスターズ(日本マスターズ水泳選手権大会)とは、1984年から始まった生涯スポーツ<水泳>の一大イベントで、会員数は、30年間で約10倍に増え、全国で現在約5万人、今年は初回から30回連続出場者が10人も表彰されました。18歳以上で5歳ずつ年齢別に分かれて各泳法各距離(リレー種目もあり)で競技をし、年齢区分毎に日本記録があります。最高95歳以上区分で1500mまでの全自由形と背泳ぎ平泳ぎの記録保持者がいらっしゃいます。今年はその最高齢99歳の方が、自由形と背泳ぎの50m・200mに毎日出場されていました。80歳以上の方がスタート台に立つと、水面に飛び込んだ瞬間ばらばらに壊れてしまうのではないか?と皆心配で固唾をのんで見守ります。無事飛び込んで泳ぎ始められた瞬間、ほっと一安心した空気が会場に広がります。80歳以上で200m個人メドレーに出場する人や、4人で合計360歳以上の男子リレーチームもあります。60歳を過ぎて水泳を始めた方もいらっしゃるようです。歳が進んで上の年齢区分になれば順位を上げるチャンスか!?と思うと、上に行けばいくほどモンスターのような人達がいるのです。本当に驚きの連続です。マスターズ水泳の精神は「健康」「友情」「相互理解」「競技」で、水泳を愛する人たちが、自分なりの目標を持ってマイペースで練習に励み、健康で楽しく豊かな人生を送ろうと発展してきたもので、1年を通して全国各地で大会(25m短水路と50m長水路)が行われ、ジャパンマスターズとはその水泳愛好家が一同に会する“水の祭典”全国大会なのです。(毎年7月に4日間開催)多い時は1日に約7千人が出場し、中には元オリンピック選手もいらっしゃいます。私は5年前から出場し始め、年間4~5回(+所属クラブの大会2回)大会に出て、自己記録の更新に挑戦し続けています。そこで難しいのが、練習しながら自分の調子をどう整え、どこにピークを持っていくかと、いうことです。いわゆるコンディショニングの難しさなのですが、北島康介のオリンピックや、今やっている世界水泳バルセロナ大会で毎日何種目も出場している萩野公介君などの調整は、何人ものスタッフが関わって緻密に計画されたものでしょう。私なぞはもちろんその比ではありませんが、それでも冬場泳ぎ込んで、筋トレ陸トレも重ね、食事や栄養、怪我に注意し、1か月前からの練習内容の変更、1週間前からの練習の落とし方、前々日からの体の休め方など、考え考えやってきたつもりなのに、直前の一瞬の動作やダウンスイムのミスなどで、努力が泡と消えてしまいました。体の調子のピークをそのレースに合わせることがどれほど難しいか、またそれにはメンタル面での調整も必須であることを今回思い知ったのです。トップスイマーの方達の努力は本当に大変だろうと想像します。何も知らず考えず楽しく泳いでいる方がいいかな?と時々思うことがあるのですが、取りあえず今は可能な歳まで自分を追い込んで、自分の限界に挑戦してみようと思っています。
2013年7月

 和みのクリニックの薔薇は、今年は寒さが長く続いたせいか、GW前から咲き始めて、まだ最後の花が残っていますが、5月末まで1ヶ月間以上咲いていました。こんな年は初めてです。しかもクリニックに上る外階段の壁を伝って伸びていた枝を冬場に切り落として剪定したためか、入口のアーチの左右の薔薇、バタースカッチとロココが揃って一気に大輪で、しかも今年は1茎に蕾が10個以上付いてまるで天然の薔薇のブーケ状に咲いているものがいっぱいあったため、例年以上に圧巻でした。(写真をご覧ください) 圧巻というか、人間でいうと二十歳くらいの若者の生命の勢いのようなものを感じました。一瞬、薔薇にも心があるのではないだろう?と思うくらい毎日愛らしく変わる花の表情に、つい顔がほころび、子供や愛犬と同じように毎日語りかけている私でした。
 その薔薇もほぼ終わり、いよいよ梅雨に突入、5月病と梅雨鬱の患者さんが多く来院される時期です。本来なら、新緑の青葉が町にあふれ爽やかで心地良い季節ですが、4月新学期や新天地で張り切ってスタートした人たちが、GWで一息つくと、スタートダッシュの疲れがどっと出てストップしてしまうのが5月病とされています。また、昔は梅雨時に鬱っぽくなる方が多いとは感じませんでしたが、何年くらい前か、クリニックを始めてからでしょうか、そう感じるようになりました。梅雨時の太陽の光が見えない日々、低気圧や湿度の高さや蒸し暑さのせいもあるのか、何の心因もなくうつ状態に陥る人がクリニックに増えます。春秋の季節の変わり目に気分変調をきたすことはよく知られていると思いますが、最近では冬の寒さが始まる頃から増える冬期うつ病や五月病と共に、季節性の心の病気の一つに含まれるでしょう。
 これらは、太陽の光や温度・湿度・気圧などの地球環境要因によって人間の頭の中のホルモン、いわゆる脳内ホルモンが分泌に変動が起こるせいだと考えられています。人間が地球と共に生きている証拠です。日本には四季があるので、それが如実に表れるのですが(日本でも季節に寄って全く心身の状態が変動しない私のような人もいますが)、タヒチやハワイなど常夏の国では、確かにあまりそういった心の病のことは聞きません。タヒチのボラボラ島に行った時、「将来ここで精神科医をしながら余生を生きていこうかな?」と冗談交じりに言ったところ、「ここにはうつ病になるような人はいないから精神科医はいらないよ。」と言われてしまいました。確かにハワイやタヒチでも雨は降り、乾季と雨季があるのですが、短時間のスコールのような雨で湿気がなく爽やかなのです。(むしろ時々雨が降ってくれないかなあ?と期待するほど暑い時があります。)気分変動を起こすような気候の変化はなく、皆明るく気楽に前向きに生きている印象です。日本人は民族的な性格傾向もあるのでしょうか?それは気候も含めた風土が生み出した性格なのか、元々の生物学的遺伝子DNA によるのかはわかりませんが、四季によって気分が変動する人が結構いらっしゃいます。低く重い雲が長く垂れ込める冬の寒さの厳しい北陸や東北の日本海側の地方ではうつ病の罹患率や自殺率が高く、暖かくて太陽の照る日が多い沖縄や宮崎、静岡といった太平洋に面した地方には明るい人が多くうつ病が少ない、という傾向があるようです。患者さんの中には、自分の苦手な季節、体調不良やうつになりやすい季節を承知している方もいらっしゃいます。
 しかし最近日本の四季はあまり明確に区切れなくなっているのではないでしょうか?5月に真夏日があったり、2月にも20℃を超す日があったり、春でも冬みたいに寒い日があったり、と大体の四季はあるのに、その中で時々全くその季節と違う天候になる日が昔より増えているような気がしませんか? 地球温暖化といわれていますが、人間は人間にとって便利なように次々に文明なるものを発展・開発した結果、自分で自分の首を絞めるような反動=地球環境の悪しき変化→健康被害を起こしているのではないでしょうか。
 その結果、四季による心身の変調が変わってきて予測対処ができなくなっている患者さんも出てきています。今年の梅雨入りも判断を早まったのでは?と思われる節がありますが…。その結果この5・6月やけに体調不良の患者さんが大勢受診されています。
 咲き終わってもう対話ができなくなった薔薇を切りながら、「もっと先の将来・未来はどうなってしまうのだろう?」と案じる私でした。
2013年6月

 今回は、マスコミの影響もあってか数年前から内科の紹介や救急経由でも増えている「過呼吸・パニック」について少し専門的な話をしてみます。今月(平成25年5月)末第109回日本精神神経学会(福岡市)でも発表する予定ですが、当院で4年前から行っている運動療法(ヨガ・ピタティス)・自律訓練法の原理を、私の論文から抜粋します。

 『パニック障害や不安神経症、過呼吸症候群などは、根源的には先走り不安の強い性格の者が無意識に自分に“負の自己暗示”をかけて引き起こす病態であると考える。それには、まず正しい呼吸法、すなわち、まず①呼気により残っている肺の空気を吐き切ってから、②鼻からゆっくり吸う腹式呼吸をすることが必須である。その呼吸により、空き容量が大きくなった肺に充分量の酸素を吸い込めるため「酸素が入っていかない」という息苦しさと不安はなくなる。また吸気は交感神経系が優位になり興奮傾向になるが、呼気は副交感神経系が優位になって気分を鎮静させる。過呼吸発作は口で頻回に息を吸う胸式呼吸による交感神経系の興奮が発症のメカニズムに関与していると考えられるが、鼻で速く頻回に息を吸うことは困難なため、鼻吸気の腹式呼吸によりそれも防止できると考える。その呼吸をベースにして、自己の心身のコア(中心軸)から、自分の体の各部分に丁寧に意識を向けながら、集中して自分で自分の体を動かそうとするヨガ・ピラティス運動は、それまで「過去」や「未来」へ心が乱れ飛び、体と心が分離しているように感じて自己コントロールできなかったものに、「現在」にある“身体”を通じて心を統合し、冷静に自己身体への意識を目覚めさせて自分をコントロールできるようにする。つまり、自分の内側から自分で自分の細胞を燃焼しようとするうちに、「自己身体所属感」を回復させるのである。そしてさらに自律訓練法により、自分にマイナスの暗示をかけていたこと、すなわち、不安の強い心が身体症状を引き起こしていたことを体感し、「だから、解除も自分でできるんだ!」と気付き、現実場面でも落ち着いてそれを再現・実践することによって発作が起こらなくなる。このようにパニック発作も過呼吸も、“先走りのマイナス不安”の産物であり、謂わば“無意識の自作自演”症状ともいえる。自分の心と体を一致させ、プラスの自己暗示により時系列に沿って前向きに生きていくことで、不安を払拭し、隠れていた自己治癒力を回復・発揮することができるようになり、その結果薬物療法から脱却できるのである。』

 このように考えて、当院では過呼吸発作やパニック障害の患者さんには、ある程度落ち着いたら自律訓練法と運動療法(呼吸法を含む)をお勧めし、薬物療法もSSRIはあまり使わず最小限にしています。その結果、通院も短期間で治癒する方が多くなっています。心療内科というと、「わかっているけど、自分ではどうしようもできないから、何とかしてくれ!」と言って‘まな板の上の鯉’の如く受診される方がいらっしゃいますが、全部医者に丸投げでは良くならないのです。説明の上、ある程度は事態の原理を理解し、‘心持ち=なるほど!そうしてみよう!’と医者と同じ方向を向いて、本人がまず一歩を踏み出そうとしないと治癒に向かわないのです。昔、初診で「カウンセリングしてください。」と言ったまま、ずっと何も喋らず座り続けていた若い患者さんがいましたが、心療内科医やカウンセラーは心を読む魔術師か何かのように誤解されている節があります。しかし医者はちょっとした気づきと方向転換を促すだけで、むしろ患者さんがすることの方が多いのかも知れません。人間の神経には、自分で動かせない不随意神経と、自分で動かせる随意神経があります。体の症状として出たものを、自分ではどうしようもないもの(不随意神経による)と思い込んで来院する方が多いのですが、実は随意神経を自分で無意識のうちに動かして症状化している場合が多く、その代表格が過呼吸症候群やパニック障害です。即ち、全く急に訳も解らず勝手に起こる症状ではなく、思い当たる心の負担があるはずなのですが、体に症状化すると底に沈殿している原因に目が行かず、その上澄み症状に恐怖を抱いて混乱してしまう病態なのです。上記の原理を少しでも理解して、マイナスの自己暗示に気付き、無意識の悲劇的自作自演を阻止することができれば、病院に駆け込む患者さんも減るのではないかと思うのですが・・・。          

 PS.) 我が家の薔薇が今年も咲き始めました。自宅車庫の上のピンクの薔薇は、可愛らしい色鮮やかで薫り高く、クリニック入口のアーチの薔薇は両側から大粒の蕾が揃って咲き誇ろうとしています。昨年大きく広がりすぎた枝を切り落としたため今年は大振りの花が沢山一斉に開きそうです。気候のせいもあってGW終わり頃から10日間程が見頃でしょうか? お近くにいらした際は是非一度ご覧になって下さい。 
Please take a photograph whenever you like. 
2013年5月

 今年も早4分の一が過ぎ、四月新年度が始まった!寒さの厳しかった冬のために、今年は満開が早くなった桜が散り始める中、入社式、入学式が続々と行なわれている。

 しかし昨年度ほど、受験生・就活者の受診が多かった年はない!という印象である。秋口はおろか、1年前の春先から、次の年の大学受験や高校受験を控えた若者、中学受験をさせる子供を持つ母親、就活に向けてエントリーシートで悩む大学3・4年生等の受診が後を絶たなかった。受験が不安で学校へ行けない、模試を受けられない、眠れないと訴え、「試験や就活に落ちるとこの世の終わり、自己否定されるようだ」と言う。そして親子で「就活うつ」になる場合もあり、なかなか就職が決まらず自殺に至る若者もいるという。

 このような人は、秋から冬にかけて以前から数名見かけられたが、昨年のように1年間を通して万遍無く毎月数名受診した年はない。私が受験期にあった昭和50年代にこのような現象はあっただろうか?確かに大学受験や医師国家試験はかなりのプレッシャーだったが、ただ勉強するしかなかった、あるいは不安を打ち消すために勉強していたともいえる。自分だけではなく皆不安だろうから、と他人に不安を漏らすとか逃げ出すことは考えられなかった。

 ではなぜ昨年このような現象が起こったのか? と考えてみた。
 不安なら嫌なら辞めればいいのに、逃げられない、こぼれ落ちたら生きていけないように思う、というのは、何か大きな道=“普通”というベルトコンベアーの上に乗っていないと安心できない、と言っているように感じる。小・中・高・大・就職という大方の人が乗る人生のベルトコンベアーのようなものがあって、その途中の関所を皆と同じように乗り遅れることなくスムーズに通り過ぎないと落伍者のように感じるようだ。なぜ皆と一緒でないといけないのか?体の成長と同じように、人生の歩みは一人一人違っていて良いはずなのに、日本人特有の集団心性のせいか、皆と同じであれば安心、皆と違うと不安になるらしい。たまたま生まれた年毎に子供を学年でくくって教育を進めてきた弊害でもあろう。体も心も知力にもその人の伸び時というものがあって、早発だったり晩成だったりバラバラで良いのに…。

 また不安になる人は、「先のことを予想する」人である。情報がありすぎるためにそれに頼りすぎて翻弄されて不安を増大させているように見える。先のことを考えたら、躁病かよほどのプラス思考の人でない限りたいていの人が不安になるだろう。またそういう人が先のことを考える場合、「今」が続くと想定しているようだが、未来は予測不能に変化して「今が続かない」ことだけは確かなことなのに…。未来だった時点を通り過ぎて振り返ってみると、過去に想像していた時点の現実の様相は全く違っていた、ということがほとんどだろう。したがって先々のことを予想することは意味がなくエネルギーの無駄遣いである。そういう人にいつも私は「明日の晩御飯のことまで考えれば良い。その先のことは考えるべからず!」と言っている。

 究極の状況にある人は先のことなど全く考えられないという。今晩寝るところや食べるものに窮している人々は、未来がどうなるかよりまず「今」をどうするか!が問題なのである。「死」より「生」を強く求めて。そういう地域では自殺は皆無だという。日本の「先のことを予想する」人はある意味では恵まれた文化・生活環境にある人、生命時間的に猶予のある人なのである。食べるものや屋根のある家は当たり前にあるために意識が向かず、それよりもっと先の人生が今の自分の希望通りにいかないのではないか?というマイナス思考=先走り不安、失敗を恐れる精神的な弱さからくる怯えに襲われているのであって、不安になるなら考えないか、考えるならプラス思考で突き進むべきであろう。

 冒頭のような若者が増えてきた日本は、やはり生活的・文化的に豊かな国であり、情報化社会に翻弄され、総日本人化し精神的に弱体化してきているのではないかと考える。もっと世界に対して危機感を強く持って、個々人で考え行動できるような若者であふれるような国になってほしいと考えるのは私だけだろうか? と思った桜咲く4月1日だった。
2013年4月

 2013年も始まって早1ヶ月が経ちました。アルジェリアという世界の(危険な)最前線で働く日本人がテロの標的になるという衝撃的な事件で幕を開け、今後の地球・世界の成り行きにただならぬ気配を感じているのは私だけでしょうか?
 この年末年始、これが最後の親孝行と思い両親をハワイへ連れて行きました。母は初めてで、父は42年振り、私も8年振りのハワイでした。昨年9月末に胸椎圧迫骨折をした母のコルセットが取れてまもなく出発したため、ほとんど専属添乗員兼主治医状態の旅でした。
 まずハワイ島のヒロへ。ここは日系人が中心に栄えた街で、あちこちに日本の匂いを感じます。ヒロの北ホノムという町の断崖絶壁に建つB&Bに宿泊したのですが、その途中の道の片側に広がる墓地には日本式の墓石が立ち並び、ここは日本?と錯覚してしまいます。ヒロは1946と’60年二度の津波で壊滅的な被害を受けた町であり、そこにその時亡くなられた日系人も眠っておられるとのことで、一昨年の東日本大震災3・11が重なりました。B&Bでの夜は、ただ波のうなり声を聞き、月光に照らされる幻想的な海面を眺めるしかない大自然の時空でした。翌朝「バシッ!パシャッ!」という音に無意識に導かれカーテンを開けると、真下の海に見えたのは、海面からまっすぐに吹き上げられた潮の白い線でした。「クジラだ!」しばらくの間私は、何度も何度も体をくねらせ潮を吹いては体やひれで海面を打ち、大海原を一人でup and downしながら逞しく生きている様にくぎ付けになっていました。

 元旦はキラウエアへドライブしました。今も噴火を続けている活火山で、火の女神ペレが住んでいるといわれるハレマウマウの火口からチェーン・オブ・クレーター・ロードを走りました。マウナロアの山頂から一気に海岸まで溶岩のみの道路を走るのですが、こんなに人間がいない草木も生えていない地球上の広大な土地があることに両親は驚き、自然の驚異にひれ伏すしかありませんでした。神話ではペレが遂に勝てず二度と近づかなかった雪の女神ポリアフの住むマウナケア山の西北側コナは乾燥した土地で生物は乏しく、南東側のヒロは水と緑豊かな土地で動植物や人々が住み繁栄してきました。しかし最近はコナの方が観光地化しリゾートホテルやショッピングモールが建ち並んでいるのですが、8年前と違って溶岩だらけの土地に草が所々生え、観光客も以前ほどおらず正月だというのにやや閑散として、世界的な経済不況をここでも感じざるを得ませんでした。
 次にオアフ島へ移動しました。ワイキキの町並みは、娘が「なんか原宿みたい」と言う通り、外国に来ている実感がなく、日本人に迎合しすぎているようで興醒めでした。高級ブティックはほとんど客が入っておらず、対照的に安価大量生産品の店がごった返していました。何もここで買わなくても日本で買えばいいや!とウインドーショッピングに徹しました。ワイキキで最初に感じたことは「“寒い!”」でした。午前10時、海に入ろうにも寒くてなかなか入れず、沖合にサーファーがいる以外人影はまばらでした。それでも意を決して私と娘は海に足を入れ沖合まで泳いでみましたが、ワイキキの浜で見ている日本人の中にはユニクロのダウンを着ている人さえいました。母も日本を発つ時着ていたカシミアのカーディガンを着てワイキキのベンチに座るか、部屋に籠りっ放しでした。「こんなにハワイって寒かったっけ?もう『常夏のハワイ』とは言えないよ!」と叫ぶ私でした。
 やはり地球がおかしい!日本から友人が「ハワイは暖かいでしょ?日本はすっごく寒いよ!」とメールをくれましたが、「ハワイがこんなに寒いんだから、日本が極寒なのは当たり前」と思った次第です。その頃オーストラリアは45度の猛暑でした。地軸がずれてるんだろうか?潮流と風がおかしいのか!はたまたマントルで何か起こっているのか???
 日本に帰るとテレビで映画「アバター」をやっていました。以前見た時とても感動したためもう一度見ました。地球人がよその惑星へ行って、人間に有用な鉱物を得るために、その惑星の命の木を切り倒してしまう物語です。ジェームス・キャメロン監督が「タイタニック」を撮った時使ったトラック諸島の沈船内を潜ったことのある私には、監督のメッセージが痛いほど分かります。“木の根っこにチャージして生き物は絆を結ぶ”ことの意味―人間は地球という命の源である惑星に生かされているはず、なのにその主のごとく傲慢に尊大に振る舞って、本来の主たる地球の資源を人間のために食いあさって破壊しつつある―と。
 経済優先に世の中が進んでいくと、大事なものを見落とすのではないでしょうか?地球の7割が海であり、残りの3割の限られた住みやすい土地に住んでいるだけの人間が、そんな傲慢な考えと振る舞いで地球の自然を自分たちに都合のいいように変化させたら、地球も黙ってはいないでしょう。地球創生以来の自然の脅威~異常気象や地震・津波はそのような地球の怒りと思えてならないのです。ハワイ島の火の女神ペレや、アバターのメッセージの如く。
 そして1月後半アルジェリアの事件が起こりました。何もない溶岩ではなく砂漠の真ん中の世界で家族と離れて働いている日本人に、「ダイハード」などの映画の世界だけのことと思っていたことが現実に起こった!津波ではなく異人種の銃により。犬にもドーベルマンなどの猟犬からチワワ・プードルといった愛玩犬まで、また海の生き物ではサメやシャチからイルカやクマノミまで、サメにもホオジロザメからジンベイザメまで違いがあるように、人間にも太古の昔の人食い人種やアラブの盗賊・海賊からタイや日本などの温和な民族までDNA上に気性の差があるでしょう。世界を移動する時いつもこのことを忘れないで息をしていなければ!と思います。
 世界は時間的(情報化により)にも空間的(飛行機により)にも確実に近くなり、人間世界も地球環境も、globalizationが進み、明治維新前の各藩が日本国になったように、今世界の国々が地球としてひとつになりつつあります。が、歴然とした違いも共存しています。今後は日本(人)の価値観だけで考えていては、物事は見えてこないし進んでいかないでしょう。地球規模でこれからを考えていかなければ!それは経済だけでなく、地球環境、さらには人間が不得意な海の世界や、もしかしたら地球の奥深くマントルといったところまでも考えなくてはいけないかも知れません。
2013年2月

   10年前に始めた絵画教室は、今は1年間のお休み中です。クリニックには院長自らが描いた油絵が数点展示されています。きっかけは青葉区制5周年企画として同区在住の俳優の石坂浩二さんが先生になって生徒を募集するという青葉区の広報を見て応募し、当選したことからです。兼ねてからいつか油絵を描きたい!という思いを持っていましたが、なかなか良いつてがなく、テレビで石坂さんがキャンバスに紙粘土をくっつけて油絵具を塗っていく手法をされているのを見て、「この人だ!」と思いすぐ応募しました。選考の作文は自信があったので、診療の合間にカルテ紙に鉛筆で書きました。水彩画には自信を持っていましたが、初め油絵具を上手くキャンバスにのせられず、四苦八苦しました。3作目の人物画で娘を描くことから、感情を絵に載せる感覚に目覚め、夜中を徹して描くようになりました。

   その後はダ・ビンチの模写や海の想像画、解剖学的人物画、質感を追求した静物画など、テーマを決めて1年に2点ほど一気に集中して描きました。学会発表や論文、被災地支援などのために描く時間が制限され苦しみました。彫像が好きな私はいつか懸案である立体画を描きたいと思いつつ、好きな美術展を巡りながら現在は充電中です。

   海外に行っても必ず美術館巡りはします。また立体の方が好きな私は(陶器の里で、陶磁器卸業を営む家で育ったためか)、クリニックを含むジョージアン様式の我が家も内外装共にデザイナーとオリジナルでデザインしました。細かい部材も海外旅行で買い集めた物を取り付けました。たとえばパリの‘家のデパート’で見つけたドアノッカーなど。今年12年振りに外観を塗装し直しましたが、屋根も含めて色は何度も再考を重ねました。

   ダイビング・美術を通して、世界中を旅することは私のライフワークであり、地球規模で物事を考えることglobalizationが必須だと思っています。
2013年1月

   今年も7月15日(日)ジャパンマスターズ水泳選手権大会に出場しました。2年前から出ているのですが、小学生以来の水泳を始めたきっかけは、開業して毎日朝から晩まで座りっぱなしの生活になり運動不足を痛感したからです。また当初はゴルフにはまって体育会系並みにバックティーから打っていたのですが、パワーアップのために、水中の全身運動として水泳を再開させたのです。初めは一人でマイペースに続けて1000m位泳いでいただけなのですが、そのうちスポーツジムで仲間ときついレッスンを受けてタイムも計るようになって、どんどん自分を追い込むようになりました。いろいろな大会に出るようになり、あちこちのクラブの練習に出て、4泳法を習い、どうしたらもっと綺麗にもっと早く泳げるようになるのか!と追求するうちに、すっかり他のスポーツは遠ざけて水泳だけに打ち込むようになっていました。もともと体を動かすこと、特に球技が好きな私にとって、水は目に見えないとても大きな扱い困難な道具であり、だから挑戦し甲斐のあるスポーツでした。どんなに疲れていても、水に入るとすーっと体と心が楽になり、ハードな練習を終えて家に向かって坂を上がって歩き出すと、行く時の体の重さが嘘のように爽快に軽く感じ「泳いでよかった!」と心の中で叫ぶのでした。

   週に5~6日(1日は休んで)2~3000m泳ぎ、週に3日くらいは筋トレとヨガ・ピラティス、そして寝る前には毎晩筋膜リリースとストレッチを欠かさない生活が続いています。
2012年12月

   海のない山の国岐阜県で生まれ育った私は、海に大いなる憧れを抱いていました。医師になって1年目神経内科のレジデントとして国立静岡病院で研修を始めました。歓迎の昼食会に連れて行ってもらった帰り、車窓からわずかに海が見えた時、私の心は高鳴り、すぐにでも飛び込みたい気分になりました。まもなく同僚にダイビングの免許を取りに行こうと誘われて、二つ返事でOKし、仕事と勉強の合間を縫って清水へ通いました。指導してくれたインストラクターがその当時日本一の素潜りの記録保持者だったこともあり、40m位まで潜りました。そして名古屋の大学病院に戻って精神科医になってからも、時々伊豆や沖縄へ行ってダイビングをしていました。子育てで一時中断しましたが、娘がダイビング許可年齢である12歳になった時、西表島での母娘ダイビングから再開し、タヒチ・ニューカレドニア・アンダマン海・ジープ島など世界中の海を潜るようになりました。医師としてレスキュー・ダイバーのライセンスも取りました。特にタヒチはリピーターになってしまい、今年5月にはランギロア島まで行ってダイブマスターを取得、グランブルーの海で野生のイルカたちと触れ合い共潜してきました。タイのカオラックではスマトラ沖地震の津波の痕を辿りながら、まさにその時津波が押し寄せていった海の底を潜っていた人達は全く変わりなく気付かずにいたことに驚かされました。日本も教訓としなければいけない、と思って帰国した直後に3・11が起こりました。トラック諸島のジープ島では、電気も水もない直径40mの無人島で5日間、ダイビングしながら極めて原始的な生活を強いられましたが、人生観が変わり、とても新鮮な気持ちになりました。

 地球は水で覆われ水が循環している星で、地球の7割が海です。残りの3割の平らな便利な所に住んでいるだけの人間が地球の主人公のように考え振舞っていることが滑稽に思えるようになりました。海の中には人間よりはるかに多くの大小さまざまな生物・魚が生息し、必死に貪欲に生きています。その海に入っていく時人間はよそ者です。が海に入ると体も心もなぜか活性化されて元気になります。それは海と人間の体液のPHが同じで、体の中の元素の数も同じだからだそうですが、それは人間がまさしく海から誕生した証拠でしょう。特にジープ島はサンゴ礁の上にできた島のせいか、5日間いただけで髪もお肌もしっとりつやつやになりました。風邪気味で潜ると治ってしまうこともよくあります。海底深く熱水の噴き出しているところに生命の源があると最近考えられているようですが、そう考えると、これだけの生命体を生んでいる=“地球は生きている!”と思わざるを得ません。また「人間は地球の天敵である」ことは確かです。異常気象と言いますが、それは人間から見た見方であって、地球から見たら「人間に対して怒っている」事態なのかもしれない、と思えてきます。人間の生活や欲のために、化石燃料や天然ガス・放射能物質更にはレアアースなるものまで求めて地球深く採掘するという暴挙を、再考すべきなのではないでしょうか。地球環境をさらに壊し地球を怒らせないかと。

 海・ダイビングは私に多くのことを教えてくれます。また世界中に多くの友人ができます。海を介した触れ合いは、老若男女や国境を越えて、人間~魚・動植物~地球の観点から趣深く広がっていきます。これからも日焼け、シミなど全く恐れず、世界中の海を潜り続け色々考えていきたいと思っています。海は私の元気の源です。
2012年11月

   我が家にはミニチュアダックスの愛犬「モエム(萌夢)」9歳♂がおります。クリーム色のロング毛で、生まれつき目が見えず、犬仲間にも入れない自閉症犬です。ヘルニアをやったため現在体重5kg位を維持していますが、番犬のつもりで吠える時の声は大型犬を想像させます。甘える時の鳴き声は♀かと思うほど可愛らしく、とても同じ犬の声とは思えない多面性があります。このモエムの存在に気付いていらっしゃる長年の患者さんは、診察より先に「今日モエムちゃんは?」と言って会いたがられるほど人気者で、初診で声が出ず表情が出せず疎通が取れなくなっていた患者さんに、アニマルセラピーとしてモエムを登場させたところ、一目で表情が和らぎ、モエムを撫で抱き上げた途端声が出た、というエピソードがあります。場所さえあればアニマルセラピーもやりたいのですが…。

モエムを育てていると、この自閉症犬の常同行為は人間と同じですし、自分を好きな人か嫌いな人かも自分とその人間との間の空気で嗅ぎ取っているようです。最近発見されたヒッグス粒子が犬には見えるかわかるのでしょうか? 私が悲しんでいるのも怒っているのも、擦り寄ったり後ずさったりして分かっているようです。そして昼休み疲れている時は、ソファーでモエムを抱いてシェスタします。冬は暖かくアンカのようですが、夏は暑苦しくて途中でギブアップします。いずれにせよあと何年くらい一緒に暮らせるか? 我が息子はちょうど同じくらいの寿命の私の両親と今後長生き合戦です。
2012年10月

   開業して薔薇が好きなことに気が付きました。庭のバラ以外にも。クリニックの内装に使っている壁紙や装飾オブジェ、カレンダー、絵画、メモ用紙に至るまで薔薇が入っていました。当初クリニック名も「和みのバラメンタルクリニック」にしようかと言っていた程です。しかし棘のある薔薇で和む?とは?ということになり、没になりましたが…。

クリニックに上がる階段入口の上にクリニックの看板と共に薔薇のアーチがあります。このアイアンのアーチは院長のデザインによるオリジナルで、アーチの右側の淡いピンクのバラが「ロコロ」、左側のピーナッツバター色のバラが「バタースカッチ」という名前です。共にオールド・クラシック・ローズで、蓼科のバラクライングリッシュガーデンから取り寄せました。開業と同時に始めは高さ1mほどの苗木から育ち、6年ほどで両方のバラが上部で繋がり、今では上部が重なり合って、さらに先が伸びて行き場がなくなるほどになっています。一時クリニックへ上がる建物の壁伝いにドアの手前まで伸びていましたが、今春の12年振りの外壁再塗装に際して、患者さんの昇降の妨げにならないよう誘引方向を変えました。5月のバラの最盛期には見事なまでの大輪の珍しい2種類のバラがたわわに咲き誇り、昼も夜も見物客が訪れ、写真を撮られていきます。この薔薇は四季咲きで、一度咲き終わってまた6~7月と秋にも咲きます。二度目以降は小さい薔薇になり数も減りますが、時々お正月辺りの冬にもポツンと咲いていることがあります。

自宅車庫の上のテラスの柵の周りにももう少し明るいピンクの可愛い吊るバラが咲き誇ります。こちらのバラの方が小ぶりで早く咲き、甘い香りも強く道行く人が見上げます。

薔薇の手入れはラ・フランスというお店の人に手伝ってもらいながら、毎月肥料を変え、咲き終わった薔薇の花柄摘みは院長自らせっせと行い、10年間見事に咲き続けています。

日当たりの良い当地は薔薇に適しているのです。我がクリニックのバラに刺激されたのか、お向かいのうかい亭さんも7年前から庭にバラを咲かせられるようになりました。

その他、庭には玄関周りや自宅の中庭も含めて色々な植物を植えて育てています。コニファー各種、季節の寄せ植え、ヒメシャラ、ソヨゴ、山帽子、アジサイ、クリスマスローズ、紅葉、トネリコ、万作、沈丁花などなど、鉢で買って来たものを最後は庭に植えて育て続けています。一時はハーブもやっていましたが、時々来る父親が草刈りと称して雑草と見分けがつけられないまま、何度も抜かれてしまったので、止めました。季節の変わり目にはせっせと鉢植えの花を植えかえていますが、休みの日や夜に一人でやっております。

いずれにしてもあまりカッチリとはせず、目指せ!セント・アンドリュース!とばかりにできるだけ自然に任せたいと思ってやっております。

自宅室内の観葉植物も長い物では、26年育て続け、ひ孫玄孫以上に株分けしたものもあり、養子に出したものも数知れず、リビングは見方によってはジャングルの様かもしれません。クリニックにも緑を置いていましたが、待合室の空気を綺麗にしようと空気清浄機を置いたら、綺麗な酸素を吹き出しているため、二酸化炭素を好む植物はどんどん元気がなくなってしまい、悩んだ末、人間の患者さんのおいしい空気希望を優先して、緑は自宅リビングに移動しました。従って今待合室はやや殺風景ですが、花台には自宅庭の花を生けたり、院長自らの切り花アレンジを飾ったりして、患者さんに少しでも和んで頂こうとしております。

自分がこんなに植物に手を掛けるとは思っていませんでしたが、植物もペットの動物も人間と同じで子育てなんですよね。心を掛けて愛情を注いでやらないとだめになってしまう。手を掛けいっぱい声をかけてやると反応があるんです。これは人間が無機物だと思っている地球上の全てのものについていえるのではないでしょうか? ちなみに今春塗り替えた我が家についてもそう思いました。家は生きている! と。
2012年7月

〒225-0011
神奈川県横浜市青葉区
あざみ野2-6-77
TEL:045-902-0753
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火・水・金曜日
9:00~12:30
15:00~18:30
(初診は全時間内で)

土曜日
 再診 8:30~13:00
 初診 13:00~15:00

休診日:
月曜・木曜・日曜・祝日
※臨時診療あり。
年末年始、夏季休暇
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