巨星墜つ~恩師の思い出

 新型コロナウイルス感染症デルタ株が猛威を振るう中、東京オリンピックが無観客で開催されている8月4日、私の学問上の父といえる恩師京都大学名誉教授木村敏先生がこの世を去られた。一報を聞いて、「えっ……」と言ったまま言葉を失い、しばらく呆然として天を仰いだ。『遂にその時が来てしまったのか…』と。
 2017年6月名古屋の研究会の帰りに転んで腰椎骨折し、京都での手術後急に具合が悪くなり京大病院に入院されたとのことで、8月末私は木村先生のお見舞いに駆け付けた。しかし散歩中で病室にはおられず少し待った後、車椅子に乗った木村先生が帰っていらっしゃった。しかし私を見てもいつものように相好崩して笑顔で出迎えて下さる様子はなく、暫く無表情で私の顔をじーっと見てからやや視線を落として「…申し訳ないけど、誰だか判りません、…私の頭は駄目になってしまいました……私の頭は駄目になってしまいました…」と何度もリフレインされた。私の事が判らないとは、ショックだった。その後無言が続いたため、長居は互いに心が苦しいと思い、短時間で病室を後にした。それが木村先生との最後になってしまった。その後施設に入所されたが、COVID-19の到来もあり、面会に行けないでいた。今年10月に京都で開催される木村先生が創始者である日本精神病理学会に出席しながら、面会に行こう!と心に決めていたが、間に合わなかった。最後は眠るように静かに息を引き取られたとのこと、90歳だった。

≪ 出会い ≫
 小中学校時代今考えてみるとかなりひどい“いじめ”を受けていた私は、いつしかその苦しみから「“人の心”とはどうなっているのだろう?」と考え始め、「そうだ!心の医者になって解明すれば、少しは生き易くなるのではないだろうか?」と思いつき、医学部に入って精神科医になる決心をした。高校時代、学校の図書館や本屋の書籍に自分の追い求めている“心”を教えてくれるものを探し回ったが、一向にそれに出会えず、目標をクリアして医学部に入って2年生時、医学部の図書館で一冊の本に出合った。『分裂病の現象学』という難解な本だったが、引き込まれるように読み「これだ~!私の求めていたものは!!」と歓喜した。いったいこの著者は誰なんだろう?と最終ページの著者欄を見ると、『木村敏』何と我が名古屋市立大学の精神科教授ではないか!ここにいらっしゃるんだ!と二度驚いた。その後学生のうちから参加できる木村先生の精神科の勉強会があると聞きつけて参加したり、私の身近で精神的変調を来す学生が複数現れたため先生に直接相談するようになったりして、木村先生と身近で接する機会が増えていった。当時“女は入局させない”という公言する他科教授が多かった中、木村先生はいつも「精神医学には女性も必要なんだよ」と仰っていた。
 当然卒業したら精神医学の道に進むつもりでいたが、どうせ最後は精神科医になると決めていたので、初めは昔のインターン制(今の研修医制度)のように医学全科を回って勉強しておこう!と、木村先生に断って武者修行に出た。国立静岡病院のレジデントとして神経内科を中心に全科及び夜間救急外来や病理・解剖学まで昼夜を問わず医学の勉強に没頭し、東京大学や大阪大学の高名な先生方の指導の元1年目で厚生省・文部省の班研究に携わり、学会発表や論文に多数従事したため、東大出身の宇尾野院長から東大神経内科に入局しないか、と強く誘われ少し心が揺らいだ。しかし昭和61年木村先生が京都大学精神科教授に就任されることになり、何かの研究会出席のため先生が静岡に来られた折、直接会って話し合うことになった。そこに宇尾野院長も同席し、私の目の前で二人の火花が散っている光景を目の当たりにした。「東大と京大が…こんなひよっこ新米医者の引き合いなんかしないで下さい」と間で身を小さくしていた。悩んだ末、やはり精神医学をやりたい!という気持ちが強く、結局昭和61年4月名古屋市立大学精神科へ入局することにした。が木村先生は1ヶ月後の5月京都大学へ赴任してしまった。その後も木村先生に師事するために、京都大学へ移ろうか画策したが、まだ学園闘争の残煙がくすぶる京大の精神科ではちゃんとした学問はできないだろう、という木村先生の意見から名古屋に留まることにした。しかし先生は名古屋の弟子達のために、定期的に精神病理学の勉強会を名古屋で開いて下った。私はその勉強会に断続的に参加、静岡~横浜、子育て、開業などの事情からなかなか思うように参加できなかったが、最後までメンバーに加えて下さった。2010年発行の大著『パトゾフィーPathosophie(ヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼカーVictor von Weizsacker)木村敏訳(みすず書房)』の巻末に、こんな塵(ちり)のようなゴースト訳読者である私の名前を忘れずに加えて下さったことは、光栄至極ながら甚だ恐れ多い気持ちである。

≪ 木村敏の学問~世界の木村 ≫
 木村先生の精神病理学は難解な文章で知られるが、直接お話しすると、一つ一つの言葉をその語源を大切にしながら、ゆったりと間をおいて話され、また相手の考えもよく聞いて下さるため、とても解り易く、思考の対話をしながら思索が深まっていくのが楽しかった。私は「あなたの脳波はきっとぐちゃぐちゃだ」とか「本当に色んな事をする人だねえ」とよく言われたが、学会や研究会でお会いする度に真摯に問答を重ね、いつも私の神経内科での経験と知識を重視して下さった。そして常に精神医学には女性の立場からの物の見方も大切だとして、よく私に意見を求められた。男女の違いを大切にする学問分野に従事したせいか、私は医者になって“女性だから”ということで不遇な想いを抱いたことは殆どない。男女平等ではなく、男女異種平行(並行・平衡)だと考える。それは木村先生の教えのお陰かも知れない。
 1993年9月第14回精神病理学会(神戸)の時、木村先生と並んで座って話していると、当時木村先生と双璧をなした中井久夫神戸大学名誉教授(元名古屋市立大学精神科助教授でもある)が私のもう一方の横に座られ、木村先生に話しかけられた。学会長の中井先生はややハイテンションで意に介していないようだったが、珍しく木村先生が中井先生にライバル心を剥き出しにして対峙される姿をライブで見た。私は双璧に挟まれ背中が凍る想いがして身をすくめた覚えがある。
 海外の学会でも何度かご一緒した。1989年のギリシャ・アテネでの世界精神医学会では、木村先生夫妻と当時の名古屋大学精神科教授笠原嘉先生夫妻と我が夫婦の3組6人で、帰りのタクシーを拾おうとして、両教授奥方が広い道路の真ん中に出て大奮闘されているのに、男性3人は何もせず道端に佇んでいた光景が懐かしく思い出される。
 1999年第3回哲学・精神医学・心理学の国際会議PPP(仏ニース)では、先生は世界の精神病理学のもう一人の雄ドイツのブランケンブルク先生と共にメダイユ賞を授与された。そこで私は世界の高名な精神病理学者達と直にお話しする光栄な機会を得た。最終日他の日本人参加者が殆ど市中へ遊びに行ってしまい私一人学会出席していたところ、先生に厳しい眼差しで { 私の横に来なさい ! } と指示され、横の席に座らされた。その日は一日中つきっきりで世界の名だたる学者の発表を全部私に解説して教えて下さり、身が引き締まる思いで集中して聞いた。今考えてもあり得ないような貴重な貴重な時間だった。その時私は真剣にフランス留学を画策していた。木村先生の伝手で、娘を連れてパリ(大学)へと。しかし先生はあっさりと「ニース大学にしなさい。そうしたら私がニースへ遊びに来られるから。今パリに私の紹介できる知り合いはいないんだよ」と仰った。「いやこんな明るいコートダジュールの街では、呆けてしまって学問なんてできない」と私は諸事情からフランス留学を断念した。
 2004年ハイデルベルク(独)での第7回PPP会議には娘を連れて出席した。そこで娘は木村先生と初めて対面したのだが、先生は11歳の娘を見るなり相好崩して満面笑みとなり、まるで自分の孫を見るように好々爺としたお顔になられた。その当時先生は既に4人のお孫さんのお爺様だった。
 私の学会発表は必ず聞きに来て下さった。しかしいつも「私はちゃんと書かないと認めない。口で偉そうなことは誰でも言える、が文章にしないとだめだ」と仰っていたため、私もいくつか書いたが、結局2011年第14回PPP世界学会(スウェーデン、ヨーテボリ)で発表したものを論文化してパソコンで先生に送ったところ、「それはとても読みたいんだけど、今プリンターが壊れていて読めないんだよ」と言われたままになってしまった。ただ2006年に私が出したエッセイ集『徒然花』だけは読んで帯文と巻末の寄稿文を書いて下さった。今読み返しても有り難い言葉の数々である。2冊目の『新版徒然花』(2019)はもう寄稿文をお願いできる状態ではなく、完成した本をお送りしたものの、果たして施設内の先生に読解してもらえたかどうか…。
 木村先生には、日本中いや世界中にものすごい数のファンがいる。精神科医、哲学者、社会学者、学生、患者さん等々。ミュンヘン大学、ハイデルベルク大学と渡り、名古屋市立大学・京都大学精神科教授を歴任され、精神医学のノーベル賞と言われる1981年シーボルト賞(ドイツ)1985年エグネール賞(スイス)を受賞されたため、世界学会でも木村先生の横にいるだけで、木村先生の弟子だというだけで、世界中の学者から一目置かれ、高名な世界の精神科医から声をかけられた。先生は、「僕は日本でよりも世界での方が有名なんだ」と自ら仰っていたが、長年私が見る限り、先生のファンは女性よりも圧倒的に男性の方が多かった(先生に言っていたらがっかりされたかも知れないが)。ある時先生は「僕には磁石があるらしい。人を惹きつける磁石を持っている人間がいるという人がいるんだけど、その人がそう言うんだ。」と仰っていた。確かに!木村先生は”見えないものに興味を抱く人達(特に男性)を惹きつける磁石を持っていらしたかもしれない。先生の話し方は、語と語の間に絶妙な間を取って話されるため、皆一瞬はっと惹きつけられる。昔それを真似していると思われる男性先輩先生方を何人かお見かけした。尊敬の念から似てくるのであろうか。言葉一つ一つを語源から大事にして脳内で戦わせながら思索し話されるために、間(ま)が少し開くのだろうか。私も先生の本を読んだり、先生の話を聞いて問答したりする時、頭がくちゅくちゅする感覚が気持ちよかった。脳細胞がこんがらがってからほどける感じか。先生の脳の思索に共鳴したい人が惹きつけられファンになっていたのだろう。東京の講演会でも、私はワクワクして聞き質問に立ったが、終わってから周りの精神科医から「いつもあんな話を聞いているの?授業もそうだったの?」と言われ、「そうだよ」と答えると、「僕は7分で(講演を聞くことを断念して)寝た。」と言われた。私は数少ない先生の女性弟子であり、名古屋市立大学の医学生として先生の講義を受けた最後の弟子であるが、女性弟子は皆やや男性的だったような気がする。精神病理学自体が男性脳的な学問であろうが。

≪ スーパーカウンセリングの恩 ≫
 私が人生で一番辛い時、地獄の淵から救って下さったのは紛れもなく木村先生である。1998年心も体もボロボロな時、「すぐ京都にいらっしゃい!」と言われて京都市内の河合文化研究所で、私は“世界の木村”に”スーパーカウンセリング”を受けた。辛らつな言葉の数々だったが、私の心にぐいぐいと突き刺さり、私は目から次々と鱗が落ちた。私の心はリセットされ、その後の人生を生き直すことができた。よく「木村先生は世界的な精神病理学者だが、治療は…?」と言う先生方がいるが、とんでもない!治療も天下一品ですよ!と声を大にして言いたい。あまたの弟子達の中で、世界の木村先生から直接こんなすごい治療(精神療法・カウンセリング)を受けた人は私以外いないだろう。今でも心から感謝している。私の命の恩人と言ってもいいくらい。そして私のその後の治療スタイルは、その時の木村先生の手法が元になっているのかも知れない。ただ傾聴して同調するだけの“よしよし療法”では何も変わらない、外科手術でメスを入れて痛みを伴って病巣を取るように、精神療法でも心の急所にグサっと来るがそこを内省して立ち上がらせる、という手法が患者さんのため(根治)になる!と考えるようになった。
 2010年に出版された先生の自伝『精神医学から臨床哲学へ』(ミネルヴァ書房)は、毎日出版文化賞を受賞されたが、その本の303ページに私を登場させてもらっている。2002年秋、横浜に住む同い年だった娘のまり子さんが心身不調だとのことで治療を頼まれた。多くの弟子の中から何故私に娘さんを託されたのだろう?と身を引き締めながら診察に当たった。暫くして精神科医としてメンタルな要因はほぼ解決したはずなのに、身体症状が再発したため、不審に思って血液検査をしたところ、医者一年目で身体科の研修をしたとしか言えないが、嫌な予感がした。すぐにCT検査を依頼したところ、図星だった。何故私の前に診ていた内科医が見つけられなかったのだろう!すぐに木村先生に電話した。まり子さんは余命3~4か月とのことであったが、抗癌剤を使わず民間療法で3年間以上生きられた。私は療養中のまり子さんを時々往診してお孫さん達とも交流したが、偉大な父を持つ子供の苦悩も垣間見た気がする。先生の前述した自伝書の巻末の人名索引に、ニーチェとハイデガーに挟まれて私の名前が掲載されているのを見て、驚き恐れおののいた。

あざみ野うかい亭にて

あざみ野うかい亭にて


≪ 縁 ≫
 2006年12月私の初版エッセイ集『徒然花』の出版記念パーティーに出席できなかった(代わりに主賓の祝辞として先生の手紙を読み上げさせてもらった)木村先生は、東京のシンポジウムの帰りに我が家に来て下さり、父を交えて三人でお向かいのうかい亭で会食した。初めは「僕は単品でいいよ」と言っていらしたのに、コースを頼んだ私と父の一品目を見て「美味しそうですね~、私も同じコースに…」とあっさり変更され、あまりグルメではなかった木村先生ですら、うかい亭の料理には舌鼓を打ちながら完食された。そして徐々に意気投合したのか同じ岐阜県人の父(昭和20年当時、先生は高山市、父は可児市在住だった)と戦争中の話に花が咲き、「岐阜市大空襲の時、南(父は西)の空が赤く染まったのが見えたねぇ」と61年前奇遇にも同じ時同じ光景を見た話をされていた。
 2004年ハイデルベルクの後、娘と京都旅行をした際、嵐山にある先生のご自宅を訪問して再会した。奥様を含めて大人三人が話している間黙っていた11歳の娘が、大人の話の間が開いたところ、おもむろに先生に向かって右掌を上にして差し出し「あの~、有名な方ですか?」と真顔で聞いた。呆気に取られている私と先生の間を縫って、奥様が「いいえ~、ただの爺さん!」と絶妙な合いの手を入れられ大爆笑した。まり子さんの病気療養で体調を崩された奥様に再ショックを受けられていた先生、そのお二人が娘を交えて元気に笑っていらっしゃる姿を見てほっとした。その娘の受験に際しては、高校受験や大学受験で、木村先生の文章が国語の試験(評論文)に度々登場した。模擬試験中塾の国語の先生に「本当にこの文章の先生知ってるの?どんな先生?」と問われて、「うん。ただの爺さん」と娘は答えたという。それを木村先生に話すと、「そうなんだよ、日比谷高校の入試に使われて、終わってから二千円送って来たよ。筆者には事前に連絡なしだね」と笑っていらした。2012年の大学入学センター試験の初日帰宅した娘が、私に現代国語の問題に出た漢字〈セッショウ〉について質問した。軽く前後文を聞くと生物学的な内容だったので、〈殺生〉かなあと軽く話していた。試験二日目の昼パソコンを開くと、久しぶりに木村先生からメールが来ていた。『昨日のセンター試験に僕の分章が使われたらしい。筆者の僕がどこに書いたか全く覚えていない文章なんだけど、梨都ちゃん受けたんですよね?出来はどうでしたか?』とのことだった。『えっ!』と驚いて、新聞を開いて前日のセンター試験の国語欄を見ると、確かに評論文の作者は<木村敏>とあった。似たような内容の本は我が家の本棚にもあるが、先の漢字は〈折衝〉だった。試験から帰って来た娘に事の顛末を話すと、「え~っ、木村先生の文章だったの? 全然できなかったって先生に言っといて!」と驚き肩を落とした。いやはや縁があるものだ。その後先生に会った時「謝礼はまた二千円でしたか?」と尋ねると、「…いや~、あれは“万”はいったよ」と笑って答えられた。

≪ 教え~最期に ≫
 木村先生は最晩年まで患者さんの診療をこなし、とにかく臨床の診察を大事にするよう教えられた。少年犯罪が続発して私がテレビや新聞によく出ていた静岡時代、「先生のような高名な精神科医がマスコミに出てちゃんとしたことを話して下さいよ」と進言すると「いやぁ、僕なんかが出ても視聴率上がらないからね、断り続けていたらマスコミも諦めて来なくなったよ」と言われた。一方で「診てない人の事を聞いた情報だけであれこれ推察して言うのは失礼なことだ!」と語気を強くされ、「…まあしかし、マスコミが君を放っておかいないだろうなあ…しかし精神鑑定はしなさい。実際に(被疑者に)会って診察するのはとても勉強になる」と教えられた。先生は重大事件犯の精神鑑定を数多くされているが、その教えから私も精神鑑定を幾つかしてきた。そしてマスコミからは遠ざかった。
 今40年以上教えを乞うた唯一無二の恩師木村敏先生がこの世にいなくなってしまわれた。がまだ京都に行っていないので、実感がない。あの大きな何にも動じない先生の頭と体が止まってしまうなんて…。もう難しい問答もできなくなってしまった。頭がくちゅくちゅする快感も得られない。いま改めて先生の著書『あいだと生命』を読み直している。そしてやはり「人と人との間」(昭和47年弘文堂)は名著である。振り返ってみると、私もずっと精神医学・精神科の医療をしながら、人と人の間~患者さんと自分の間~の何かに拘り魅了され思索し続けているようだ。娘が「コロナが治まったら一緒に木村先生のお参りに京都へ行こう」と言ってくれている。
 こんな偉大な世界的精神科医に巡り合い指導され、私は本当にラッキーだったと思う。私の人生において、木村敏先生との出会いは必然であり、先生はその要所で必ず現れる道標のような、そしていつもその上で導いて下さっている風のような存在だった。
精神医学の巨星が堕ち、一つの時代が終わったような気がする。
長い間本当にご指導ありがとうございました。 安らかにお眠りください。

2021.9.7

20210908-2

https://www.asahi.com/articles/ASP866RT5P86PTFC00X.html
https://mainichi.jp/articles/20210807/k00/00m/040/189000c

木村 敏 (きむら:びん) 略歴 著書・訳書多数
1931年(昭和6年)生まれ
1955年 京都大学医学部卒業
1961-1963年 ミュンヘン大学精神科に留学
1969-1970年 ハイデルベルク大学精神科客員講師
1974-1986年 名古屋市立大学医学部精神科教授
1986-1994年 京都大学医学部精神科教授
1992-2001年 日本精神病理学会理事長
1995-2001年 龍谷大学国際文化学部教授
2004-2005年立命館大学文学部哲学科客員教授
1981年 第3回シーボルト賞(ドイツ)
1985年 第1回エグネール賞(スイス)
2003年 第15回和辻哲郎文化賞
2010年 第64回毎日出版文化賞
2012年 第30回京都府文化賞特別功労賞

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