叔父に捧げるレクイエム

 1月29日最愛の叔父(父の弟)が肺癌で亡くなりました。満78歳でした。

 実は一連の“マヤの呪い”の終わりの方で、食道癌と胃癌を内視鏡で奇跡的に切除でき昨年4月28日一旦終診となった父と同じ日に同じ東京の国立がんセンター中央病院を初診した叔父は、4月の初めに名古屋で肺がんと診断されていました。相談を受けた私は、高校野球でプロのスカウトの目にも留まったスポーツマンで、病気とは縁遠い健康な人というイメージの叔父だったので、にわかには信じられず、1~2月には父の癌を心配していてくれていたのにどうして?と実感が持てないでいました。

 私が生まれてから4年間一緒に住んでいた元家族であり、私が人生で困った時いつも駆け付けて助けてくれた叔父なので、何とかしたいとの想いで1日中がんセンターの各科を回って「手術をして癌を取ってほしい!」と執念のように医者に懇願する叔父に付き添いました。しかし結局手術は無理とのことで諦め、地元の愛知県がんセンターで内科的治療を受けることになりました。その日叔父は我が家に泊まっていってくれたのですが、親戚で唯一初めての人です。それが9ヶ月前のこと、まさかこんなに早く逝ってしまうなんて…。

 自分の子供達には厳しい父親で自分のことをあまり話さない怖い人だったとのことですが、私にはいつも顔をくしゃくしゃにして笑いながらよく話をしてくれ、怒られたことなどありません。28年前初めて患者さんに自殺され、失意のまま病院から帰る途中、交通事故を起こしてしまい、真っ暗な沼に落とされた気分の私のために、叔父は即相手の家に駆け付けて示談交渉してくれました。個性の極めて強い父方同胞の揉め事にはいつもソフトな要の役目を果たして皆をなだめ、私が身内のことで辛い思いをしている時はいつも慰め励ましてくれました。私のジャパンマスターズ水泳大会にも親族で唯一応援に来てくれ、医院開業の際には立派なガジュマルの樹を贈ってくれるなど、優しく心配りの細やかな叔父でした。そのガジュマルが18年経って葉っぱもたわわに付き3m近い天井に届くほどの大木に成長していたのに一昨年突然倒れたのです。診療中どーんという轟音ごうおんがして皆驚き何が?と探すと、1階のリビングで、鉢から根こそぎ土をつけてひっくり返り、ソファーを泥だらけにしているガジュマルをみつけました。大きく育ち過ぎ重心が保てなくなっていたのです。夏に向かう季節だったので、幹を切って低くし葉も減らして再度植えて鉢ごと庭に出し、陽光を浴びて生き返りました。しかし昨年春葉っぱの元気がなくなり落ち始めたので、また庭に出し少し元気を取り戻しました。冬が近づいてきたので家の中に入れると、急に葉っぱが全部枯れ落ち、冬にはついに死んでしまいました。叔父さんから貰った大事な樹だったので、何とか生き返らせたい!と必死に再生を試みた私でしたが、今思うと不思議なほど叔父さんの病歴と重なっているガジュマルの樹生でした。

 叔父の治療は、放射線と抗癌剤で初めは病巣が小さくなり、もしかしたら順調にいくかと思われましたが、昨年9月初め、長年揉め事でバラバラになっていた父方の親族を26年ぶりに再結集する意味で叔父と私の悲願だった祖母の33回忌法要を無事終えた後、ほっとしたのか、縮小したリンパ節から病魔が再発しました。放射線治療の後遺症である肺炎も長引き、副作用が強く出るため抗がん剤治療を再開できないままでいました。

 私は作秋から冬にかけて母のやけどと転倒骨折のため、しばらく叔父を見舞う頻度が減っていたのですが、叔父の病状が深刻であることは分かっていたので、元旦に我が実家の墓参りをしたくてもできない叔父の元を家族で訪れました。一目で全身にむくみを認め、その日から急に歩けなくなったことに嫌な予感を抱きましたが、ベッドで酸素吸入しながら私の持って行った大好物の鳩サブレを口にして「もう医者も見放したわ~。」と言うので、「そんなことないよ!」と答えるのが精一杯でした。直後の4日低酸素状態で再入院となり、6日には一時危篤状態に陥り親族が急遽集められました。譫妄せんもうが出現し、誤嚥性肺炎も併発して絶飲食となりました。11日携帯電話を取り上げられたはずの叔父から留守電が入っていたので、驚いて掛け直すと「2回ご臨終になりかけたよ~。もうだめだ~」と珍しく弱音を吐くため、私が「そんなこと言わないで、週末私が行くまで待っててよ!」と言うと、叔父は泣き出し、たまらず私も電話越しでおいおい泣き合いました。死の恐怖、まさに“一人称の死”に怯えて私を頼ってきてくれたのです。あの気丈夫な勝負師の叔父が。それからの4日間は長く長く感じられました。何とか持ってほしい!と。1月14日仕事を終えて即降りしきる雪の中叔父の病院へ駆けつけましたが、道中全く寒く感じずむしろ暑いと体感して走っていました。病室に着くと叔父はにっこり微笑み落ち着いて「おー」といつものように迎えてくれたので、ホッと一安心しました。酸素吸入をして動きにくい体なのに、私にお茶やお菓子を振る舞おうとしてくれる姿に、こんな状態でも車のセールスマンしてるんだなあ、と思いました。

 精神科の治療として末期癌の患者さんに行う『ディグニティーセラピー』というものがあります。死に向かう苦悩の中で、家族や愛する人に記憶に留めておいてほしい事柄や言葉に関する質問をすることを通して、自分の人生の意味や価値を見い出し、それを残すことによって、より良き死を受け入れてもらうセラピーですが、日本ではまだあまり行われていません。不安定になっている叔父に心穏やかになってもらいたいと思って、そっとその説明書を手渡しましたが、叔父は1~2行さっと目を通しただけで、「…そこに置いといて..」とその紙を私に返しました。まだ病と闘っていたのでしょう。“自分の死”と直面したくない!という意思表示なのだと解釈し、二度とその治療導入は試みないことにしました。キリスト教国と違って日本ではまだまだ“一人称の死”は簡単には受け入れられないんだと実感しました。

 その二日後、父と、思う様に歩けないながら一度行きたいという母を車イスに乗せて3人で叔父を見舞いました。着いた時叔父は検査でベッドにおらず、しばらくすると車イスに乗った叔父が廊下の奥から現れました。すると22歳で嫁いだ母と20歳で義理の弟として家族を始めた叔父は、共に車イスに乗ったまま、まるで少年と少女に戻ったかのように遠くから大きく手を振りながら満面笑みで対面し再会を喜び合いました。お互い世話になった昔話をして「ありがとう」と言い合ったとのことですが、それが二人の最後となりました。母は絶対に泣くまい!と心に決めて涙をこらえていたと言いますが、後で叔父の事を話す時はまだいつも涙声です。父とは喧嘩したら絶対寄りつかない叔父でしたが、母が具合を悪くしたと聞くと、心配して真っ先に駆け付ける叔父でした。年を取って何年経っても世話になったことは忘れないものなんですね。

 翌週、点滴も酸素も外し食べたいものを食べさせてあげようという方針に変わったというので、鳩サブレを持って見舞うと、叔父はベッドで妙に大きないびきをかいて大の字で眠っていました。しばらくそのかたわらに付き添っていましたが、看護師さんが来ると目を開け、私に気付くと、「お~、また来たかあ~、そう来んでいいいって言ったのに~。」と言いながら満面笑みで両手を取って握手してきました。大きな柔らかく温かい手でした。看護師さんたちは「こんな笑顔私達には全然見せてくれないのにね~」と驚き混じりに揶揄やゆしました。しかしその後は「苦しい、胸が苦しい、これは不治の病だよ。」とかすれ声で言うため、私は何も言えずただずっと叔父の右胸をさすっていました。医者なのに日に日に衰弱していく叔父に何もしてあげられない無力感でいっぱいでした。そして「また来るからねえ~。」と言って帰ったのが最後となりました。

昭和30年頃の多治見高校野球部のもの

写真は昭和30年頃の多治見高校野球部のもの

 1月27日母校の多治見高校野球部が21世紀枠で選抜甲子園初出場のニュースが飛び込んできて、私は即座に叔父の息子に電話で伝え、翌朝叔父の愛読新聞である中日スポーツを買って叔父に見せたそうですが、眼は新聞を見ているものの理解できたかどうか定かではなかったそうです。でもきっとそのニュースは叔父の心に届いて喜び安心したのでしょう、あれほど苦しんでいた叔父なのにその翌日1月29日嘘のように穏やかに静かに息を引き取りました。娘がインフルエンザに罹り叔父の元へ行く日を延期していた私は夕方訃報を聞いて「間に合わなかった!」と愕然とし、駅中通路を人目も憚らず涙を流して歩いていました。叔父は高校時代あと少しのところで甲子園には行けなかったものの、岐阜県大会でホームランを沢山打った捕手として当時の南海ホークスや明治大学からスカウトが来るほどの野球選手でした。自分の子供達には一切野球については話さなかったとのことですが、私は同居していた祖母から聞いています。昭和18年叔父が5歳の時に父親が亡くなり、家族がバラバラにならざるを得なかった貧しい家庭で、私の父と末の弟は共に学校へも行けず丁稚でっち奉公ぼうこうを経て自営業の道に就いていたので、叔父の先輩や後輩にはプロ野球へ進んだ人もいましたが、叔父はプロ野球からの誘いを断り堅実なサラリーマンの仕事を選んだとのことでした。トヨタに入ってからは夜間大学に通いながらノンプロで野球を続け、その後は地域の少年野球の監督もしていました。元中日ドラゴンズ監督の高木守道氏とも親交のあった叔父に、私はよくナゴヤ球場へ連れて行ってもらい、叔父と同年代の長嶋・王選手のプレイを間近で見て感動していました。南海に入っていたら翌年あの野村克也さんが入団したので、正捕手は無理だったかもしれないなあ、と晩年叔父は笑って話していました。私は叔父と一緒にゴルフをしたこともありますが、親戚の中では運動能力に関して私が一番叔父と似ているようです。トヨタのサラリーマン時代は野球部でつちかった精神からか、高度経済成長期の日本では皆そうだったようにあまり家にいないワーカホリックで、仕事に関してはとても部下に厳しい上司でした。今ならパワハラで訴えられていたかもしれません。そして部長の地位まで上り詰め、定年退職後は地域の役職に就いて活動していました。自分の限界に挑戦する性質たちは私も似ているので分かりますが、病気に対しても苦しみながら最後まで諦めずに闘っていたのだと思います。叔父はきっともっと生きたかったでしょう。昨年4月癌告知され、我が家に初めて泊まって行った頃、誰が9ヶ月後に叔父がいなくなることを想像したでしょう。おそらくかなり進行の速い悪性度の高い癌だったと思われます。通夜に駆け付ける車の中で父が「お袋が可愛い子から先に呼び寄せてるんだろう。」と言いました。(父の末弟は26年前冬野球をしている最中に50歳で心筋梗塞のため急死しています。)葬儀の後聞いた話ですが、叔父は亡くなる数日前、朝目覚めた時付き添っていた妻に「?なんだ、まだ生きてるんだなあ。お袋が迎えにきたよ。」と言ったそうです。不思議な話です。

 生あるものはいつか死を迎える、と知ってはいるものの、現実に自分もそうなるとは想像できないものです。時々診察室で「死にたい」と言う人がいます。今生きている目の前の事が辛い(自分の思うように生きられず)と、「死」へ逃げた方が楽だと思ってワープしたがるのです。しかし本当に「死」を目前にしている人は、自分の死(一人称の死)が恐ろしく、一日でも生きていたい!と必死に生きるのだと叔父を見て思いました。若者たちよ、安易に「死にたい」と口走ることなかれ!生きていることが当たり前の者は、本当の死の恐怖を知らないで、心の痛みより「死」の方がましだと思って言うのですが、「本当はもっと生きたいんでしょう?自分の望むように。」と問いかけると、皆素直に「うん」と頷きます。

 通夜の斎場に到着した私は、まず叔父の遺影を見て現実を受け止められず胸の奥深くから涙が湧きだし、息が止まっているとは思えないような穏やかな顔の叔父と対面して、まず「ごめんね、何もしてあげられず。」と、そして「有難う、今までずっと。」という言葉がこころから出てきました。これからはもういろいろ相談できる父とは違う存在の叔父はいないんだ、と思うと心細くもなり、また今後父母の最後も見届け受け入れなければ!と心を新たにしました。

 最後に叔父の顔を撫でてお別れしましたが、すっかり冷たくなっていて、最後の握手の柔らかい温もりとは全く違いました。お棺の中にはサラリーマン時代のスーツと大好物の鳩サブレ、そしてお気に入りだった赤い野球帽と共に母校の多治見高校野球部選抜甲子園大会初出場を報じる中日スポーツ新聞を胸元に乗せて荼毘に付しました。生きていたらきっと甲子園に駆けつけ後輩たちの試合を見たかったことでしょう。そして本当に叔父は消えてしまいました。短いながらも闘病中はどんなに苦しかったことか、頑張ったね、今はその苦しみから解放されて楽になれたね、と声を掛けてあげたい私です。
2017.2.15

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