今年も早4分の一が過ぎ、四月新年度が始まった!寒さの厳しかった冬のために、今年は満開が早くなった桜が散り始める中、入社式、入学式が続々と行なわれている。
しかし昨年度ほど、受験生・就活者の受診が多かった年はない!という印象である。秋口はおろか、1年前の春先から、次の年の大学受験や高校受験を控えた若者、中学受験をさせる子供を持つ母親、就活に向けてエントリーシートで悩む大学3・4年生等の受診が後を絶たなかった。受験が不安で学校へ行けない、模試を受けられない、眠れないと訴え、「試験や就活に落ちるとこの世の終わり、自己否定されるようだ」と言う。そして親子で「就活うつ」になる場合もあり、なかなか就職が決まらず自殺に至る若者もいるという。
このような人は、秋から冬にかけて以前から数名見かけられたが、昨年のように1年間を通して万遍無く毎月数名受診した年はない。私が受験期にあった昭和50年代にこのような現象はあっただろうか?確かに大学受験や医師国家試験はかなりのプレッシャーだったが、ただ勉強するしかなかった、あるいは不安を打ち消すために勉強していたともいえる。自分だけではなく皆不安だろうから、と他人に不安を漏らすとか逃げ出すことは考えられなかった。
ではなぜ昨年このような現象が起こったのか? と考えてみた。
不安なら嫌なら辞めればいいのに、逃げられない、こぼれ落ちたら生きていけないように思う、というのは、何か大きな道=“普通”というベルトコンベアーの上に乗っていないと安心できない、と言っているように感じる。小・中・高・大・就職という大方の人が乗る人生のベルトコンベアーのようなものがあって、その途中の関所を皆と同じように乗り遅れることなくスムーズに通り過ぎないと落伍者のように感じるようだ。なぜ皆と一緒でないといけないのか?体の成長と同じように、人生の歩みは一人一人違っていて良いはずなのに、日本人特有の集団心性のせいか、皆と同じであれば安心、皆と違うと不安になるらしい。たまたま生まれた年毎に子供を学年でくくって教育を進めてきた弊害でもあろう。体も心も知力にもその人の伸び時というものがあって、早発だったり晩成だったりバラバラで良いのに…。
また不安になる人は、「先のことを予想する」人である。情報がありすぎるためにそれに頼りすぎて翻弄されて不安を増大させているように見える。先のことを考えたら、躁病かよほどのプラス思考の人でない限りたいていの人が不安になるだろう。またそういう人が先のことを考える場合、「今」が続くと想定しているようだが、未来は予測不能に変化して「今が続かない」ことだけは確かなことなのに…。未来だった時点を通り過ぎて振り返ってみると、過去に想像していた時点の現実の様相は全く違っていた、ということがほとんどだろう。したがって先々のことを予想することは意味がなくエネルギーの無駄遣いである。そういう人にいつも私は「明日の晩御飯のことまで考えれば良い。その先のことは考えるべからず!」と言っている。
究極の状況にある人は先のことなど全く考えられないという。今晩寝るところや食べるものに窮している人々は、未来がどうなるかよりまず「今」をどうするか!が問題なのである。「死」より「生」を強く求めて。そういう地域では自殺は皆無だという。日本の「先のことを予想する」人はある意味では恵まれた文化・生活環境にある人、生命時間的に猶予のある人なのである。食べるものや屋根のある家は当たり前にあるために意識が向かず、それよりもっと先の人生が今の自分の希望通りにいかないのではないか?というマイナス思考=先走り不安、失敗を恐れる精神的な弱さからくる怯えに襲われているのであって、不安になるなら考えないか、考えるならプラス思考で突き進むべきであろう。
冒頭のような若者が増えてきた日本は、やはり生活的・文化的に豊かな国であり、情報化社会に翻弄され、総日本人化し精神的に弱体化してきているのではないかと考える。もっと世界に対して危機感を強く持って、個々人で考え行動できるような若者であふれるような国になってほしいと考えるのは私だけだろうか? と思った桜咲く4月1日だった。
2013年4月