長らく文章が書けなくていた。
どうしてなんだろう、言葉が浮かばない、文章が構成できない。
半年が過ぎ、ようやく私の心の中の自分を照らす鏡がなくなっていることに気が付いた。精神科医のとしての自分の心と思索を反証する鏡が。
4半世紀に渡って、人生の窮地に立った時いつも私を支えてくれた恩人だった。
いつからか症例報告会のように、お互いの治療例について診断・薬の治療・考え方など、独りよがりにならないよう検討し合ってきていた。お互い自分にない物(感性・知識など)を持っている、と驚きと尊敬の念を持って接してきたように思う。
精神科医は開業すると孤独である。一つ道を逸れるとどんどん偏奇して行ってしまう者達がいる。そうならないよう戒めとして、失敗例から新しい傾向まで忌憚なく打ち明け合ったものである。開業精神科医同志互いが異性であったことも良い出会いだったといえる。互いになかなか違う性の本質は解らないものである。それを医学的知識のある者同士、心身相関から精神まで新鮮さを持って知り勉強になった。兼ねてから恩師が言っていた通り、「精神科には男女を必要である。」ということを実感した。こうしていつしか互いに自分を照らす鏡になっていたのだと思う。
医療のみならず人生の上でも困ったことがあるといつも相談し合った。「友達以上、不倫未満」という本が昨年出版されたが、それに近いものだった。
3年前突然末期癌と宣告され、「自分が? 実感ないんだよね~。死ぬことは別に怖くない。」と言っていたまま、懸命の治療も及ばず昨年6月消えてしまった。「癌死について」で書いた人であるが、最期まで明るく冗談を飛ばしていた。
*「あと何年生きればいい?」 ~ 「20年」
「無理だよ~。末期癌なんだから~。」 ~ 「・・・」
*「僕の寿命はあと3~5か月だって。」 ~「そんな~・・・」
腹水がたまってもモルヒネを打ちながら一か月前まで診療を続け、
*「緩和ケアで臨みます。でも辛くて緩和にならず(汗・笑)」 etc.
「お互い戦友だったよね。」が電話での最後の会話になったが、最後に病床に行った時は、もう声も発せず、ただ微笑んでいたのみ。私はただ「ありがとうございました」を何度も繰り返すことしかできなかった。
もう一回明日の朝会いに行こう!と思っていた夜遅く、「旅立った」と知らせが入り絶句した。「…間に合わなかった!!」と。尻切れトンボになったような心だけが残った。最後はどんな気持ちだったんだろう、何を考えていたんだろう、何か私に言うことがあったのでは?…と。
葬儀へ向かう道案内の看板に名前が書いてあっても「嘘だよね。これは悪い夢。」としか感じられず、遺影を見ても「ほら、笑ってるじゃん。どこかで見てるんでしょ?棺の中の物体は別人!?」と思い続け、涙は思ったほど出ず、どこか冷静な自分が不思議だった。
そこから私の頭の中は真っ白で、現実感が薄らぎ、雲の上に載って世界を素通りしているような感覚でいた。煮ても焼いても喰っても死なないような、太っ腹でおおらかな人で、友達が多く、いつも笑って楽しいことを探して生きている人だった≪こよなく愛したゴルフと同じで人生にも“タラレバなし”の、とにかく嘆かない人だったと後から気付いた。≫ので、またどこかから冗談を言いながらひょこっと出て来そうな気がして、メールもアドレスも消せないでいる内に半年が過ぎた。
夏には我が家の愛犬も後を追うように14歳半で亡くなった。老衰に近かったが、最後苦しんで命が途絶えていく様に、“僕の最期もこうだったんだよ”と代理で伝えられた様な気がした。ある人が「死は無である。」と言った。強烈な言葉だが、この言葉にどれほど救われたことか。ヒロイックに悲しみに浸りそうになった時、心の底を支えられた。
昨年は身近な親しい人達3人と1匹がこの世から姿を消してしまい、年賀状も初詣もないただ時と日が続いて流れる静かな正月を過ごした。最近、対の鏡の一つが無く、反射が返ってきていないこと、片方の鏡も鏡の用を成さなくなってただの板のようであることに気付いた。対の鏡が冷静に自分の死と向かい合っていたため、直後こちらの鏡も冷静にならざるを得なかったんだとも。
“死”とは、それが訪れるまではその人の問題であって、それが訪れてからは残された人々の問題になる。さてこれから私はどうやって今後の人生を歩んで、精神科医としての仕事を全うして行けば良いのだろう。一枚板で進むしかないか…。
「老後引退したら、縁側でお茶でもすすりながら、精神医学談義しよう。」と言っていたのに、叶わぬことになった。あの世があるなら、お茶菓子でも用意して待っていてくれるだろうか。 今日は奇しくも一方の鏡が61歳を迎えるはずだった日なのだが。
2018.1.19.
* 『対の鏡現象』とは、私が日本精神病理学会や世界精神神経心理学会で発表したオリジナル概念である。