ニューヨークNY~バハマ父娘旅行

NYタイムズスクエア

NYタイムズスクエア

 このGW83歳の父を連れて、NY~バハマを旅してきました。NYは大学生時代一番行きたかった所であり、医者になるのでなければ勉強しながら生活し活動してみたかった街でした。初めて外国に行ったのは実は遅く30歳の時で、国際学会のため南回り経由で行ったアテネ~スイス~フランスで、その後は仕事関係でヨーロッパが多く、ダイビングでは海中心に旅行していたため、NYはついつい後回しになっていました。
 しかしアラ還が近づいてきたため、早く行っておかなければNYの街を歩けなくなるのではないか?と焦りだし、思い切って予約したものの、誰と一緒に行こうか?と考えた時、丁度去年大病をしたものの回復してきていた父が横におり、昔ハーレーダビットソンを何台も乗り回しルート66を走ってアメリカ大陸横断したいと言っていたことを思い出したので、「行く?」と言うと即座に「行きたい!」と返ってきました。少し懸念はありましたが、最後の親孝行になるかも、と思って決定しました。バハマは野生のイルカと一緒にスイミングできる島があるとのことで是非行きたかったので、NYと組み合わせました。
 高齢のしかも癌を患った父と大分前から予約していたので、旅行ドタキャン保険にも入っておきました。これは結構高額でしたが、母も合わせて旅行前いつ何時急に何が起こる分からないので、必須でした。
 まずNYに到着してすぐ入った大型観光客向けホテルは、ひどくサービスが悪く案内も不親切で、スーツケースを預かってもらって外出しようと待っていましたが、一向にベルボーイらしき人が現れないので、ようやく現れたホテルマンらしき年配の男性に「ベルボーイのカウンターはどこですか?」と尋ねたところ、その横で群がっていた人達の中の60歳台の痩せた白人女性がいきなりすごい剣幕で私に「○×△□☆!!ここはNYよ!!」と怒鳴りつけてきました。私は呆気にとられて「???」としていたのですが、どうやらその人たちはチェックアウトの荷物をベルボーイに運んできてもらうのを待っていた客で、私が横入りしようとしたと思い込んで怒ったようでした。後で分かりましたが、我々の荷物はそこに置いておくだけで良かったのでした。一方的な思い込みでいきなり怒鳴る白人マダム、“ここはNY”とはどういう意味か?私を中国人と勘違いしたのか?日本では受けた事のない理不尽なヒステリー洗礼を到着早々受けたのでした。
 その後、セントラクパークの中を歩いてメトロポリタン美術館まで行くことにしました。セントラルパークは写真やテレビで見るよりはるかに広大で南北4㎞東西800mもあり、半分のところにある美術館までは、肺気腫を持つ父の足で3回ほど休んで1時間かかりました。元々は岩でできたパーク内は、自然と芸術とスポーツと憩が混在した一つの“区”で、昔は殺人などの事件も多く危険な場所と聞いていましたが、夜の一人歩き以外日中は地元のNYっ子や観光客が集う安全な場所に様変わりしていました。
 メトロポリタン美術館は、父も老後時間があると絵を描いているので、共通の趣味として、3~4時間かけてお目当てのゴッホやピカソの原画を鑑賞して回りました。私が見たい絵の所に行って待っている短時間に、父はホールの長椅子に座って、飛行機でぐっすり寝たのに時差のせいか、隣の外人の肩に頭を落としてコックリコックリ寝ておりました。
 夜はネオンに輝くNYマンハッタンの街に繰り出しました。まずはNYの食の象徴であるステーキハウスへ行き、そこで今話題のポーターハウスというT字型の骨の両側にフィレとサーロインが付いて2種類を一度に楽しめるというものをオーダーしました。さあ、出てきた肉の大きさを見て父は口をあんぐり! 二人で四苦八苦して切り分けながら食べていると、隣の席の60台位のご夫婦が頼んだ品が出てきてまた父はあんぐり!夫人の方のステーキの厚みは私達の肉の倍位あり(600~700g?)、とても女性一人では食べられないだろうと思って見ていたのですが、夫人はぺろりと平らげてしまいました。自分の肉を3分の1位しか食べられなかった父は、その夫人の完食の勇士に、目を真ん丸にして感嘆の吐息で「やっぱり沢山肉を食う人間は体格も違うなあ。」と見とれていました。
 はち切れそうになったお腹を抱えて、タイムズスクエアまで歩くと、そこは何色ものネオンが輝くビルに囲まれた世界の交差点で、世界中の観光客でごった返していました。千人位いるかと思われる人混みをただ眺めているだけでしたが、「ここはテロの格好の標的になる!」と思いすぐに立ち去りました。案の定その次の週にテロまがいの車がその群衆に突っ込んで、観光客が数人亡くなっています。
バハマ  ナッソーのホテルからの大西洋

バハマ ナッソーのホテルからの大西洋

 翌日早朝バハマへ飛びました。まもなく大西洋の美しい青が目に飛び込んできて、まもなく多くの島が点在するバハマに入り3時間で首都ナッソーに到着しました。バハマの国の色はピンク、国鳥はフラミンゴ、特産物はピンク色のコンク貝、とピンク尽くしの国で、家々は外壁をパステルカラーに塗っており~公共の建物はカナリアイエロー(医療や教育機関)、ペパーミントグリーン(警察)、フラミンゴ・ピンク(政府機関)で、民家は好きな色に塗って良いそうですがピンクが多く、他にレモンイエローや水色グリーンなど様々~我が家がいっぱい!と親近感を覚えました。元は大富豪の別荘だった屋敷を利用したホテルに入ると、インフィニティープールとブルーグリーンの海に、手入れの行き届いた芝生や椰子の木や植栽の緑、そしてハンモックとデッキチェアーの白が目の中に飛び込んできました。ビーチに足を踏み入れると、サラサラの白砂ですぐに足が砂の中に埋まって行きました。海の中も同様で、大西洋に荒い波が打ち寄せるため、遠くまで泳いでいる人間は私一人でしたが、透明度が高く海底はどこまでも白砂で、石も藻もなく魚は全くいませんでした。海から上がってくると、プールの長椅子に寝そべっていた父が「幸せだなあ、生きていて今が一番幸せだ。3回の手術した去年とは天国と地獄の差だ。死んじまっていたらこんないい所に来れなかったなあ。」と呟きました。
バハマ  エルーセラ島のピンクサンドビーチ

バハマ エルーセラ島のピンクサンドビーチ

 翌日アメリカからの豪華客船がいくつも停泊している港から、小型のフェリーでナッソーの東約90㎞にある珊瑚岩礁の細長い魚の骨のようなエルーセラ島へ行きました。コンク貝と珊瑚の砕けた砂で自然に出来た4㎞に渡って続くピンク・サンズ・ビーチが目的です。ここはダイアナ妃のハネムーンの地としても知られており、コロンブスの船団が水を求めて上陸した島でもあります。真っ先にビーチに向かうと一歩足を入れると、確かにピンク色の砂が白と同等に混ざっており、極細粒なので、一歩足を踏み入れるとぐっと一気にくるぶしまで砂の中にめり込みました。一面を見廻すと、薄いピンクのビーチとアトランティック・オーシャンの紺碧の海と白波のみで視野はいっぱいになりました。他には人がちらほらいるだけで、耳に入るのは、白波がピンクの砂浜に打ち寄せる波の音だけです。ここでも私は一人荒海に入って泳ぎ出し、寄せる波に乗って帰ってくることを繰り返していましたが、魚の姿は全く見えず、透明度の高いピンクの砂の海底が続いているだけでした。果たして魚はどこにいるのでしょう? バハマではやわらかいコンク貝料理を初めて食し、再びNYへ戻り、夜は橋の対岸からと、ロックフェラーセンターの展望台Top of the rockからNYの夜景を鑑賞しましたが、日本でお台場のレインボー・ブリッジから海越しに見る東京のビル群やスカイツリーや六本木ヒルズ最上階から見る東京の夜景に見慣れているせいか、新たな感動は沸いてきませんでした。東京は既に世界のトップクラスの都市に成長しているんだなあ、と実感した次第です。
 翌日はミニバスで回るNY一日観光ツアーに参加しました。日本人ばかり12人で、マンハッタンを中心に南は自由の女神から北はハーレム、イーストリバーを挟んで今流行の発信地であるブルックリンまで余す所なく巡りました。
ワン ・ワールド ・トレード ・センター

ワン ・ワールド ・トレード ・センター

 一番行きたかったのはグランド・ゼロ。2001年9月11日夜当直室でTVニュースを見ていた私は、一機目の飛行機が突っ込んだNYのビルの中層階から煙が出ている映像に切り替わった直後「未曽有の世界的事件が起きた!世界が一気に変わる!」と直感し、即座に政治家の後輩に携帯電話で連絡したのです。その同時多発テロで崩壊したワールド・トレード・センターWTCのツインタワー跡地に造られたMemorialメモリアル、ノウスとサウス二つの巨大プールのモニュメント、その4面の縁には犠牲者の名前が刻まれていました。以前は予約制での入場だったそうですが、今は交差点から誰でも入れるようになっており、訪れる世界各国の観光客がピースサインをして記念撮影する姿に言いようのない違和感を覚えました。三千人近い人がここで一瞬にして命を落としたというのに、どうしてそのような不謹慎な態度が取れるのか?あの悲惨なテロ事件をもう忘れてしまったのか?それとも知らない世代なのか?あの事件の約1週間後、私のパソコンに誰からどこから回ってきたか分かりませんが、“missing”と題した一枚の写真が送られてきました。WTCの屋上デッキで笑って写真に納まっている一人の白人青年の背景の空に一機の飛行機が写っている物でした。“15年8ヶ月後の今私はそこにいるのだ、あの青年はどこに行ったのか?”と空を見上げました。
 その他ウォール街、国連本部、ジョン・レノンが射殺されたダコタハウス、マイケル・ジャクソン等多くのブラック・ミュージシャンを生んだアポロ・シアターやコロンビア大学などを回りました。大学時代私はNYのどこに魅かれて住んでみたい!と思ったのか?当時はまだ治安がかなり悪く、ハーレムは特に立ち入り危険エリアで、こんなに明るく庶民的な雰囲気ではなく、軽く観光気分で行けるような所ではなかったはず。その危険な雰囲気さえ当時の私は魅力と感じつつ、それをかい潜りながら何かクリエイティブなことをしてみたい!と思っていました。しかし今のNY は同時多発テロ以降当時のジュリアーニ市長の元治安の良化が進み、東京と殆ど変らないほど安全な町に変身していました。あの一瞬にしてNYを地獄に陥れた悲惨なテロ事件が、NY市民にそれと比べると遥かにチンケな欲心と自己主義を改心させ、他者を思いやる心を育てたのでしょう。そう考えると危険な香りのなくなったNYに、また今の歳での私は住んで活躍してみたい!と感じなくなっているのは当然です。所詮若気の至りだったのですね。空港へ送迎してくれた日本人ガイド・ドライバーさんの中には、私が大学時代NYに来てそのまま住み着いていたらこうなっていたんだなあ、と思える年頃の方がいました。“If 医者をしないで 何をしていたんだろう?”
 夜はヤンキースタジアムへ行ってメジャーリーグを観戦しました。地下鉄に乗って行くのですが、思ったより安全で東京メトロの銀座線のような雰囲気でした。乗って間もなく席が一つ空いたので、高齢の父を座らせると、すかさずその横の30歳位の男性がさっと席を立って私に譲ってくれました。何と優しい素敵なレディーファースト!ロンドンみたい!日本では絶対に遭遇しない光景です。日本の男性は電車内で朝昼夜問わず、女性が目の前に立っていても寝たふりしてずっと座っていますよね。老人に席を譲る姿もあまり見ません。ヤンキースタジアムは美術館同様入場時のセキュリティーチェックが厳しく長蛇の列になっており、水やバッグも持ち込めませんでした。日本からIN予約をして取った席は一塁側の5階席でしたが、1階上がる毎に25m程のなだらかな上がりスロープを2往復(25m×4回)づつ歩かなくてはいけないので、1階で買ったホットドックとコーラを持って計500mの坂道を一気に歩いて上がったことになります。肺気腫を持つ父は息を切らしてどんどん後ろに姿が見えなくなり、5階に辿り着いた時はもう足が前に出ない有様でした。しかしNYに来て万歩計は毎日12000を超え肺気腫のリハビリには最適だったようで、帰国後に検査した肺機能検査ではかなりの改善が認められたそうです。観戦した試合はなんと!マー君こと田中将大投手が先発でした。この巨大な美しいアメリカの野球場で活躍する同じ日本人が目の前にいる!心臓がドキドキしないんだろうか?上がったりしないんだろうか?と思うと私の方がドキドキしてきました。松井秀樹、イチロー、黒田投手と日本から渡った野球選手がアメリカの野球界でトップ選手としてプレイすることは本当に誇らしいことで、日本人だからといってひるむ時代ではなくなったんだなあ、と実感しました。見事マー君は6回投げて4勝目を挙げ、野球人だった弟を4ヶ月前に亡くした父も感極まっていました。
ヤンキースタジアム

ヤンキースタジアム

 最終日は、グランドセントラル駅から5番街を中心に歩いて見て回りました。両側の石造りの建物にはセレブ御用達の世界のトップブランドが並び、その中にユニクロやGAP、H&M、フォーエバー21といったファストファッションやナイキ、アディダスといったスポーツ店が混じっており、近年のファッション状況を如実に反映していました。NYの街はどこも観光客でいっぱいなのですが、ひときわ歩道上に人がひしめいている5番街の一画56St.に来ました。トランプタワーです。入口にロボコップのような警備の黒人男性が5人ほど、全身鎧のような物を身に着け、頭には大きなフルフェイスのヘルメット、手には本物の巨大な機関銃を抱えて立ちはだかっているのでした。ビルの中にはスターバックスカフェもあるのですが、とても入る勇気は出ません。その目の前で写真を撮るのも気が引けて、向い側の歩道に渡ってからトランプタワーを背景に父を立たせて写真を撮りました。ビルはとても写真1枚に入り切らず、3枚に分けて取りました。なんと!トランプさんはそのペントハウスの自宅からセントラルパークが見渡せるよう、前に立つティファニーのビルの上の空中権を毎月数百万円払って住んでいるとのことでした。何もない空を借りているなんて!しかし移民が多いNYではトランンプ大統領は全くの不人気でした。
トランプタワー前に立つ父

トランプタワー前に立つ父

 NYは100年以上前の建物が沢山残りそれを壊さず利用しているためか、東京より汚く感じられました。所々交差点では地下から白い煙が立ち上っており、地下の排気をしているとのことでしたが、これもビル群で狭くなったNYの空を曇らせている一因でしょうか。東京はやはり世界で一番綺麗な大都会だと思えました。また碁盤の目に区画整理されたNYの街は、南北はAvenue、東西は Streetと表記され分かりやすいのですが、車は一方通行が多く、タクシーに乗るとかなり体が上下に飛び跳ね、道の凸凹がひどいことが分かります。またNYのタクシー・イエローキャブはよく見ると日本のトヨタや日産の車がほとんどで、プリウスが一番多く見られました。逆にアメ車は少なく、近年の世界の自動車産業を反映しているようで、日本とアメリカの経済界のやり取りを垣間見た気がしました。
 帰りのジョン・F・ケネディー空港では、またも出国のセキュリティー検査が厳しく、肌着の下に首から現金袋をぶら下げ、胸ポケットにカプセル薬を入れていた父は、上半身脱がされ、ベルトを取り靴・靴下まで脱ぐよう指示され、私より遥かに遅れて通過してきた時、まるで裸にされたような姿でオロオロしていました。これも過激なテロを防止するためのアメリカ事情なので仕方ありません。帰りの機内で父は、行きに扱い方が分からず見られなかった映画を、私が作動させて楽しく見たようです。定時食の間には追加でカレーまで食べ、8時間はぐっすり寝ていたのに、帰宅してからも即高鼾で寝入りました。「俺は若い頃から苦労してきたからどこでも寝られる。」と言って、ホテルのダブルルームでは私にメインベッドを譲って自分は簡易ベッドに寝てくれました。しかし旅行中は全く怒ったり声を荒げたりすることのなかった父が、帰ってから即怒声を上げている姿に?と思った私は「もしかして旅行中は私に頼って静かにしていたの?」と聞くと、「そうだ。」と白状しました。一度集合場所に私の姿がなく、NYのど真ん中で一人取り残された!と思い狼狽して大変だったとのこと、私はトイレに行っていたのですが、その後は私に置いて行かれないよう、怒られないよう大人しく従っていたとのことです。それが日本に帰って一気に緩み怒ることができるようになったのです。セントラルパークでは、ちょっと目を離すと八重桜の下で、大胆にも外人さんカップルと話していた父なのに、可愛いところもあるんだなあ、と笑えました。しかし「英語話せないのに通じたの?」と聞くと「身振り手振りとハート・to・ハート!」と知っている英単語をいっぱい並べて喋ったとのことでした。ジャパニーズ・フラワー、チェリー、ビューティフル、メニーなど。相手も笑って答えていたようなので、何となくニュアンスは通じたのでしょう。
JFケネディ空港から摩天楼に向かって飛び立つ飛行機9・11を想う

JFケネディ空港から摩天楼に向かって飛び立つ飛行機9・11を想う

 帰国後父は同世代の友人達から、「よくまあその歳で行けたもんだねえ。ところで何しにNY行ってきたの?」と聞かれ、面倒に思い「…商売(陶器商)に行ってきた!」と答えているそうです。今でも実家に行くと「NYとバハマ~感慨深い良い旅行だった。余韻がまだ心に残っている。」と写真を見ながら言っている父です。しかしながら、父と私は趣味・嗜好・行動パターン・考え方が親子で似ているのか、旅行中意見が合わず喧嘩したり、別行動したいと思ったりすることがなく、我慢もせずに相手の希望が自然に読めるので、とても楽でした。DNAって不思議ですねえ~。
2017.7.15

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