令和2年12月25日クリスマスの朝、10年以上進行性核上性麻痺(PSP)という10万人に6人といわれる神経難病との闘病の末、母が亡くなった。84歳の誕生日の前日だった。父が用意してくれた朝食のパンの一口目を喉に詰まらせて窒息したという。9ヶ月に及ぶ横浜生活を終え、名古屋の難病専門施設へ入所すべく、人生の62年間を過ごした多治見の家で最後の正月を過ごさせてやりたい、と19日に車で運び21日に私と別れた4日後だった。あまりに呆気なく突然で、全身不自由になった母の体をいつも抱き抱えながら移動させていた私の腕は、まだ母の温もりを覚えているのに、急にそれをもう永遠に感じられなくなったことを現実として受け入れられず、空虚でとてつもない寂しさのまま年末年始を過ごした。

 10年前に右足が震え出し、初めは何の病気か分からなかったが、4年前リビングで転んでストーブの上で沸騰していた熱湯をかぶって左腕にⅢ度の熱傷を負い、右太腿からの植皮術を受けるために入院していた病院でPSPと診断された。医者になり立ての頃神経内科を主体に国立病院でレジデント研修をしていた私は、専門の神経難病病棟でも診たことがない病気を母が患い、筋萎縮性側索硬化症(ALS)やパーキンソン病のような末路を辿ることを俄かには信じられなかった。3年前早朝トイレで転倒し左大腿骨大転子部骨折して入院、全身麻酔で手術後、激しい夜間譫妄と一時易怒的性格変化を来たしてから記憶力・見当識障害や幻覚妄想といった認知症が急に出現し始めた。歩行障害も進み、度重なる転倒の度にまた“いつの間にか”も含めて、その前後で合わせて全身13ヶ所を骨折(脊椎5本、肋骨5本、股関節1、胸骨、手首1)、体重は28Kgまで減り、車椅子生活になってしまった。
 高齢の父には介護困難となり、母は3年前から多治見の実家とあざみ野の我が家を約3ヶ月毎に往復することになり、私は車の後部をベッドにしてエアウィーブを敷いて母を300㎞運んだが、新東名高速道路のSAで母をトイレに行かせることは難儀だった。
 令和2年3月末から母の住民票を横浜に変えて、デイサービスや訪問看護リハビリ、福祉用具のレンタルを受けながら、私が我が家で介護することになった。当初デイサービスにあまり乗り気でなかった母も、徐々に慣れて週3回通うようになり、リハビリにも懸命に取り組むようになった。横浜では介護・福祉の方々が皆とても良い人に恵まれ、母は心穏やかに過ごしていたと思われる。
 私は、外出中母が勝手に庭や玄関から出て怪我をしたり家の中で転倒したりすることを恐れて、母の部屋の前にバリケードを築いて出掛けたが、あえなく壊され、キッチンに侵入されたり、庭や玄関で転んで顔面流血されていたりした。
 歩行障害・体の不自由さと見当識障害(時・所・人が分からなくなる症状)以上に嚥下障害(飲み込みや食道の動きの悪さ)が急速に悪化して、11月中旬は誤嚥と通過障害で短期間入院(コロナの流行で面会できないため私が退院させた)、下旬には干し柿を詰まらせ3分間程呼吸停止したが、殆ど死に顔になっている母を見ながら、私は「ここで死なせるわけにはいかない!」と必死に救急蘇生し何とか一命を取り留めた。生還した母は「意識がなくなっていく時、こうやって死んでいくのかなあ?と思った」と語った。私はその後の24日間、何とか生きて実家に戻さなければ!と毎日毎日薄氷を踏む思いで母と暮らした。寝ている時息をしているか鼻口まで顔を寄せて確認し、深夜物音がすると反射的に起きてトイレに付き添い(1晩に4~5回)、物を食べる前は窒息防止のために必ず経管栄養剤を飲ませるようにした。母は多治見にいる父が家の中や外にいると毎日言うようになり、最後の方は40年以上前に亡くなった両親が生きているとも言い始め、度々呼ばれて診察を中断せざるを得ず患者さんを待たせてしまった。12月18日最後のデイサービスで送り届けて下さった所長さんの顔を見上げられず「ありがとうございました。ありがとうございました。」と繰り返す母の姿に胸が詰まった。「ええ人ばっかやった。ええ人ばっかやった」と頭を垂れたまま。後で所長さんも「顔上げられなかったですね」と仰っていたが、母は顔を上げると泣いてしまうと必死に抑えていたのだろう。こんなに横浜の土地と人に馴染んできた母を9ヶ月という短期間で終わらせ、所縁の無い名古屋の施設に入れてしまって良いのだろうか?と私の心に罪悪感が沸き起こった。「本当は施設に入りたくないんでしょう?」と問うと、「…仕方ないわ~」と力なく答える母に、もしかしてこの選択は間違っているんじゃないだろうか、母が施設を嫌がったらまた横浜で介護しよう!と思った私だが…、そして無事12月19日車で母を実家へ送り届け、ひとまずほっと安堵した。
 20日は、母が育った家の住所へ連れて行き、母の両親の墓参りをした。私が抱きかかえながら墓前で母は「あと2~3年は呼ばんで下さい」と声を出して祈ったが、4日で呼ばれてしまうとは…。「あなたの死因は窒息死だからね!」と私は予言までしていたのに。21日午前母の主治医の診察に付き添ったがとても混んでいて、私の午後診療に間に合うために出発すべき時間ギリギリになってしまったため、母にちゃんとした挨拶をしないまま急いで実家を発った。後ろ髪を引かれる思いで何度か引き返そうかと思ったが、診療時間に遅れることを恐れて車を前に進めてしまった。本当に悔いの残る別れとなった。その後の4日間は母がいなくなって人の体温が感じられない家に一人、ご飯を作る気になれず食べる気も起らず、夜中ちょっとした物音で起きてしまう癖がついてしまったようで眠れず、たまらず生まれて初めて母に「寂しいよ~、寂しいよ~」と年甲斐もなく毎日電話で露骨に甘えてしまった。私の電話で母は「和賀美が寂しがっているからまた横浜に行かないかん!」と行く気満々だったそうな、最後まで母だった。手が掛かってもやはり母がいてくれた方が良かったか、寝たきりになっても私がここで介護しようか、施設入所撤回しようか、と急に手持ち無沙汰になった私は思ったものである。24日クリスマスイブの夕方最後の電話でも同じことを言い、「ちゃんと食べるんだよ!年末また行くからね」と念を押した。それで翌朝パクっと食パンを口に入れてしまったのか…。
 24日の夜も全く眠くならず、時折下から聞こえる「ドン」「カタッ」「ピシッ」などの音に『母がいるのか?』と思われ玄関や母の部屋まで起きて確認しに行った。「誰もいない…」とまた布団に入るのだが、再び音を拾ってしまい、25日午前3時まで眠れなかった。ピンポ~ン!という音ではっと目が覚めた私は『何?ここはどこ?今私は何をすればいいの?』と母と同じ見当識障害状態にあった。午前8時15分!いけない!クリニック開けなきゃ!職員たちが出勤してきてしまった!と寝過ごしたことにようやく気が付き、慌てて起きて準備に取り掛かった。8時50分診察直前の化粧中、職員が「県立多治見病院の高木先生からお電話です。」と呼んだ。「???高木先生はもういないよ。母の最初の大好きだった昔の主治医だけど、突然転勤しちゃってショック受けた先生だよ。」と言うと、「間違いなく高木と言っています」とのこと、「亡霊か何かなあ?」と言いながら電話を替わると、間違いなく昔聞いた高木先生の声で「今年帰って来たんです。今朝救急外来に運ばれてきた患者さん、見覚えのあるお名前で…」「えっ、母が?詰まったんですか?」「はい」「何が?」「パンを詰まらせて…、心肺停止状態でしたが一旦蘇生しました。がもう時間の問題です。挿管して人工呼吸器に繋ぐことを希望されますか?」と。『そんな馬鹿な!あ~あの顔か~、駄目だ~、もうアウトだ~!』と1ヶ月前に見た母の死に顔が浮かび思ったが、「私が行くまで持たせて下さい!」と言っていた。これは夢か、夢の続きか、色の付いたやけにリアルな夢なのかも、と思った。そうあって欲しい、こんなことがあるはずない!あんなに必死に9ヶ月間母を介護してきてやっと多治見に帰せたのに、まだ4日でしょ!そんな馬鹿な!ありえない!と。しかし生前母は延命治療を希望していなかったので、挿管するのは私だけのわがままだ、と断念した。その後窒息の経過はどうなるか医者なので承知していた。年末一番の繁忙期で診察室に溢れかえっている患者さんを放置して実家へ飛ぶことはできない!もう間に合わない!母の死に目には会えない、と悟り、自分の診察を始めることにした。その後の診察がちゃんとできたか自信はない。午前10時再び高木先生から電話が入った。「今息を引き取られました」と、奇遇にも大好きな高木先生に看取られながら母は逝った。夕方までびっしり詰まっていた患者さんの予約を昼休み無しで押し上げ、早目の午後に診療を終了させ、娘と車を飛ばした。夕方実家に到着すると、母は綺麗な白い着物を着て布団に横たわっていた。母の顔は皴が伸びてつるんとした綺麗な顔になっていた。額をなでると、いつも抱き抱えていた母の温もりとは打って変わって、石かコンクリートのような冷たさだった。胸の奥から涙が溢れ出し、前日夜までいつもと変わらず電話で話していた母なのに…、もう動かない、もう喋らない、やはり私から離すべきではなかった…、「ごめんね、ごめんね」と詫びていた。父に吸引の仕方を教えておいたが、やはり素人には無理で、急変時真っ先に私に電話するように言っておいたのに、動顛した父は近所の母の親友に電話し、救急車の番号も分からくなっていたという。ちょうど私が飛び起きた8時15分頃呼吸が止まったようだ。
 その日は一晩母の隣で寝て、翌早朝多治見を出て、新幹線であざみ野へ戻り、年末最後のいっぱいの土曜日診療を昼過ぎに終えてとんぼ返りし、出棺・通夜を、翌日曜日葬儀を終え、深夜にまた28日最後の診療に向けて車で自宅に戻った。正月は一人になった父の元へまた新幹線で行ったので、年末年始2週間で計4往復したことになる。
 昨秋、「こんな病気になって、こんな体になってしまって、もう早く死にたい」と繰り返す母に、「じゃあ、一緒に無理心中しようか?」と当時芸能人の相次ぐ自殺から簡単に自殺しても良いような気がしていた私はそう言うと、「…やっぱり自殺は後がみっともないから嫌や」と答える母だった。12月12日夜私と叔母(母の妹)が電話中、叔母の背後で脳幹梗塞を発症して倒れ、翌朝急死した叔母の夫に「良い死に方だなあ」と言っていた母は、後を追うようにそれよりもっと短い2時間で亡くなったのだ。今日死ぬとは思っていなかっただろう。奇遇にも、前日長らく行けていなかった美容院へ行ってカットと髪染めをし、父に顔を剃ってもらった母,だから死に顔があんなに綺麗で化粧乗りも良かったのだ。不思議なことがいくつも重なっていた。

 実は私は、大学の心理学でも臨床の精神医学でもよく母性なる概念が出てくるが、よく解らなかった。実感がなかった、という方が正しいのか。父性というのは否が応でもよく解った。強烈な個性の父親の方が、私の人生には多く登場し影響が大きかった。母に可愛がられたとか、母に甘えたという記憶がない。母も私の事を「育てにくい子だった」と言ったことがある。22歳で陶器商を営む父と結婚し、強烈な個性集団である丹羽家の長男の嫁として姑小舅のいる家に入った母は、まもなく私を産んだ。私は2歳3ヶ月の時、突然昔の家の奥の和室に得体の知れない小さな動く生き物が寝かされていたので、「何だこれは?」と興味本位で手を出して頬をパチンと叩いたところ、横から「何すんの!!」と烈火の如き母の平手ではたかれた。生まれたての妹だった。その光景だけはっきり覚えている。後にそのことを母に聞いたところ、「昔は上の子が下の赤ん坊を殺してしまうことがあると聞いていたので、そうなってはいかん!とびっくりして止めた」という返事だった。それ以後私は2段ベッドの上で(下に)祖母と寝るようになり母と離された。妹は母べったりになった。元々父や父方親族に可愛がられていた私は、母に甘えることがなくなっていった。褒められることも干渉されることもあまりなかった。母は常に強烈な父のブレーキ役で、家業の景気が良い時も、同業者に税務署へ通報されないよう車好きな父が買った外車を隠すよう促したり、私が成績や競技で優秀な結果を出した時も喜んで自慢する父とは反対に冷静に感情を抑えているようだった。常に父の陰(後ろ)にいて冷静沈着に行動する丹羽家の要の役割を果たしていたような気がする。地味でこれといった趣味もなく、「外へ出て遊ぶとお金を使うし疲れる」と言って質素倹約まっしぐら、昼間は自営業を手伝う(座ったまま陶磁器の包装をする事が主)唯一の社員(昭和59年までは祖母も)として働き、ひたすら毎日家族のために三食作ることが母の仕事だった。姑の祖母とは仲が良く、父の出張中は留守を預かり女4人の粗食だった。繁忙期は家族(幼い私と妹も)総出で早朝から夜鍋をして働いた。私には「この人は何が楽しくて生きているんだろう?」と常々思われた。しかし晩年母に「人生で一番いい時はいつだった?」と聞くと「そりゃあ、あんた達が片付いて世界中あちこちお父さんと海外旅行していた時だねえ」と答えた。スペインやNZ旅行などか。
 思春期色々悩んでいた私だが、とにかく何も言わず干渉しない母だったことが有難かった。後に「どうして何も言わなかったの?」と聞くと「自分の子供を信じるしかないでしょう?」と母は答えた。
 母が私の人生に色濃く登場し始めたのは、私が結婚して子供を産んでからである。1992年秋一人でヨーロッパ旅行に行くと言い出した私に、危ないからついて行く!と言って、二人でフリーのヨーロッパ珍道中に出た。喧嘩しながら南フランス~スイス~北イタリアとトーマスクックの時刻表片手に電車やポストバスで自由に周った。ベネチアでは母だけ乗って待っていた電車がベルも鳴らずに急に発車し、売店にいた私は慌てて駅員さんに飛び乗らせてもらったが動顚して腰を抜かした母、スイスのブベイでは母のスーツケースだけホテルに届かず翌日になったこと、フィレンツェではイタリアファッション業界副会長に突然イタリア料理のディナーをご馳走になったこと等々、後になって母はすこぶる楽しかったと喜んだらしい。帰国後私は即妊娠、産後母は月1回遠路静岡まで子育ての手伝いに通ってきてくれた。またその後は静岡にマンションを買って父と二人で移り住み仕事と子育ての手伝いをし、私が人生で一番苦しかった時、横浜に居を構えることを告げると、「私は行くよ!」と母が率先して父を引っ張り同居を選択してくれた。しかし引っ越し当日あざみ野の新築の家を見るなり「60過ぎてこんなハイカラな家に住めって言われても落ち着かんわあ。。。」とブツブツ嘆いていたが。
考えてみたら、常に母は子孫のことを考えている人だった。子供・孫・曾孫・兄弟姉妹・甥姪と下の血縁の事ばかり思いやって生きていた人である。第1子長女として両親がやや早くに亡くなったため、年の離れた下の同胞の子供達には“おばあちゃん”の役割をしてきた。私は、エッセイ本の14章にも書いたように「女は女の子を産んだら、その娘が子供を産むまで生きなければならない」という宝石のような言葉を母から教わった。母は子孫の心配事が生じると、いつも親身になって心配し、父には内緒でお金の工面をしようとしていたようだ。だから母方の親戚は仲が良い。とにかく父とは正反対だった。また勘の鋭い人で(特に父に対して)、女の業の強い面があった。細かい事の記憶力もとびきり良かった。晩年それらが全部裏目に出てしまった。60歳代後半、それまで(昭和の主婦には当たり前の)父が「お茶」「灰皿」と言うとさっと差し出していた母が、食後父が「お茶!」と言った時、「…自分でやったら?」と言い放った。呆気に取られて母を見上げる父、びっくりして母を振り返る私、滑稽な図だったが、初めて母が、父の家政婦的な存在ではなく自立した女になろう!とした瞬間を見た。“女子会”なる町内の女性飲み会にも参加して楽しむようになった。これも時代の変化か。
平成21年3月母が72歳の時、私は娘と共にタヒチのボラボラ島の水上チャペルで両親のサプライズ金婚式を企画して祝福した。二人はとても驚きそして喜んでくれた。
 母は温泉が好きだったので、箱根の障害者専用温泉宿へ連れて行ったり、令和元年8月には青森の十和田湖(母が最後に一番行きたがった)・奥入瀬・酸ヶ湯温泉・八甲田山へ車椅子を使って飛行機とレンタカーで回る旅行をしたりした。ここ数年、特に最後の9ヶ月間はコロナ自粛もあり毎日べったりくっついて暮らしていた母と私~夏には海泳ぎの練習に葉山の海へ連れて行き猛暑の中松の木陰で眺めていた母、ウッドデッキができてから天気の良い日は三食二人で青空の下パティオで食べた~なので、最後実家に置いて離れ初めて『母がいないと寂しい』という母性を理解した。私の体の中で「おかあちゃ~ん!」という遠い昔の私の声が鳴り響いた。
 もっと優しく接するべきだった!筋トレで鍛えている私でも、最後の方は、全身思うように動かせなくなった母を、お風呂や夜中のトイレ・ベッドなどで抱き抱えることに消耗して嘆いてしまった。ごめんね、ごめんね!と後悔されて仕方がない。介護はどんなにやっても後悔が残る、といわれるがその通りである。しかしいつしか母の介護が私の生きがいになっていたようだ。令和3年に入り、母の介護に費やしていた時間とエネルギーがポカーンと空いてしまって行き場を失っている。これから何をしていこうか?突然消えてしまった母、私はいつになったら納得できるのだろう。お互い電話で慰め合っている叔母の「いや、寿命だったんだよ」という言葉で少し救われた気持ちになった。

*母のPSPという神経難病の死因は殆どが窒息だそうだ。母も最後の方は水でもむせていたが、自分の唾液を詰まらせて亡くなる人もいると聞く。また施設で亡くなる人が殆どで、自宅で亡くなる人は稀だとも。

 クリニックには、親や配偶者、子供を亡くして長らく気持ちが沈んでいる患者さん達が通っていらっしゃる。また介護すべき親を施設に入れてしまったという罪悪感にさいなまれ、このコロナ禍において面会できず苦しんでいる患者さんもいる。今までその方々の話を聞きできるだけ寄り添おうとしてきたが、果たして本当にできていたのだろうか。今まさに自分がその境遇にいて、『あぁ、こんな気持ちだったんだな、こういう風に苦しく辛かったんだな』ひしひしと鋭利な刃物で切り裂かれるように共感できる。自分を生んでくれた母親がこの世から消えてしまった、と宙に浮いているような心と身体。その母を介護限界と見切って終の棲家となるだろう施設に入所させようとした罪悪感で身が切られるような気持ち。心の医療では“患者さんの心に寄り添い共感する”ことが基本なのだが、共感したつもりの慰めや、言葉や表情だけでの同調では、とても患者さんの心には到達できないことを思い知らされた。
 人は親が亡くなると、次は自分が消える時が来ることを実感し始める。あと30年後くらいか?はたまた病気や事故でもっと早いかも?その時私の子供はどうするんだろう?それまでに何をしておくべきなんだろう?etc,一気に想像が駆け巡る。いやその時日本や世界、地球はどうなっているんだろう?…とまで。コロナで明日は予想できないことを学んだはずだ!しかし母~人が死ぬとはこんなにも呆気ない、その人一人が現世に存在しなくなっただけ、だがしかしそうやって人類は累々と何万年も続いてきており、また続いて行くのだ。母の棺の中に臍の緒を入れるよう言われたが、私は即座に断った。自分の臍の緒を母の棺に入れるのは、母への尊敬の意を示し、自分の棺に自分の臍の緒を入れるのは、母の元へ導かれるように!との想いからだというが、何よりも私はまだ母と繋がっていたいと思ったからだ。
 最近は、車のCDから流れるコブクロの『蕾』のメロディーや、米津玄師の『LEMON』の“戻らない幸せがあることを最後にあなたは教えてくれた”という歌詞が胸に突き刺さる。 まもなく四十九日を迎えるが、まだ母は私の夢枕に立ってくれていない。

2021.2.5.

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