今夏娘が5月から住んでいるベトナム・ホーチミンへ初めて行ってきました。コロナ禍の為5年間海外旅行をしていなかったので、久しぶりの国際線の飛行機搭乗となり、戸惑うことがしばしばありました。婿さんのベトナム赴任に伴い、3年間の帯同休暇を取ってホーチミンに行ってすぐから、何度もおなかを壊し(おそらく水・生野菜にあたり)、喉をやられて風邪をこじらせた娘の健康状態を確認することが主眼だったので、旅行気分ではなく、空港に向かう朝、スーツケース以外普段のバッグを一つだけ持っている自分に驚きました。あれ?国内に行くんだっけ?と。手荷物検査でも、液体所持品をジップロックに入れる必要はなくなっており、夕方から5時間半の飛行なので、さしたる物も機内に持ち込まず、空港内の両替所で「ベトナム通貨ドンは現地で替える方がレートが良いですよ」と言われて、日本円5万円ほどしか持たず。丁度搭乗時刻に日向灘で震度7の地震が発生し、それを知らなかった私は、搭乗口に集まった多くのベトナム人の中で長い間立ったまま待たされました。地震のことは、ホーチミン到着後娘から知らされました。日本との時差は2時間あり21時半頃ホーチミンのタンソンニャット空港に到着したものの、普段は入国審査に1時間以上かかるとのことで迎えの娘はまだ来ておらず(私はラッキーにも15分ほどで出て来られたため)、世界最悪の空港ランキングトップ8/10の同空港は、ワンサカと色々な人種の人間で溢れかえっており、東南アジア特有の蒸し暑さと、経験したことのない何とも言えない臭いが充満する中(私はアジアは韓国とタイしか行ったことがない)、警察にあちらへ行け!と言われても、娘と会う約束をしていた場所の椅子(地元の大柄な男性達が隣に密接する)に座って、臭いと喧騒に耐えながら30分以上待ち続けました。その後、娘と車で市内を移動しましたが、道中おびただしい数のバイクが車の横や前後を並走し、車も右折・左折時にバイク集団をよけることなく、おずおずと突っ込んで行きながら曲がり、そこに何か目に見えない電気の+と+or-と-が反発し合う空気があるように、皆不思議とぶつからないで流れていくのでした。なんというバランス感覚!日本なら絶対あちこちでぶつかっているでしょう。流れに乗るとはこのことか!というようなホーチミン市内の道路状況に驚かされました。翌日もその光景に圧倒されました。どこから湧いてくるのか⁉と思われるほどの、まるで天気図の風の流れの線のようなバイクの群れの中を車が走り、そのバイクには3人乗りや間に赤ちゃんや犬を抱いているものもあり、80~90歳くらいと思われる老婆が後部座席に乗って肩に竿を担いで持ちその両端に大きな布にくるまれた荷物をぶら下げてコーナリングしながら乗っている光景を目にしました、…ということは両膝で後部座席を挟んでバランスを保って乗っているのか!?あの高齢で!と驚かされました。それなのに、交通事故の現場は一度も見ず、不思議!と感嘆しっ放しでした。そして歩く人間は、そのバイクと車の流れの前を遮って、道を渡らなければならないのです。当初は怖気づいて一歩も足が出ませんでした。そのうち、娘に「躊躇しちゃダメ!止まらないで一気に流れに乗って歩くの!」と言われ、現地のおじさんや娘の後ろにくっついて渡るうちにコツを覚えて歩けるようになりました。バイクも車も事故は嫌なのでしよう、互いに譲り合い、人は優先させて、決してぶつからず、一人だけスピードを出すとか、煽り運転などは一切せず、皆同じくらいの速度で流れに乗って走っているのでした。まるで海中の魚の群が玉になって移動している光景や、日本を訪れた外人が渋谷のスクランブル交差点で「どうして日本人はぶつからないのか?」と不思議がることを思い出しました。
ベトナムは、社会主義(生産手段の社会的共有・管理によって平等な社会を実現しようとする思想)国であり、共産主義(資本や財産を皆で共有する平等な社会体制で、社会主義の進化版)ではありません。そのためなのか、ベトナム国内のATMからクレジットカードで現金ドンを引き出そうとしても、一日の上限が約1万2千円分しか引き出せませんでした。
ベトナムというと、我々世代は「ベトコン」「サイゴン陥落」「枯葉剤」といったベトナム戦争(1964~1975)のイメージが強いのですが、娘たちはベトナム戦争を知らず、近年急激に発展している先進国と思っているようです。確かに元フランス領だったベトナム一の商業都市であるホーチミン市内には高層ビルが林立し、コロニアル調やおしゃれな西欧風の店やデパート、日本を含めた世界中の外資系産業の看板があちこちにあり(ユニクロ、丸亀(MARUKAME)製麺(UDON)など)、アジアの先進国であることは間違いありません。ベトナム戦争終結から約半世紀、日本が敗戦後25年経って高度経済成長を迎え、同じ戦後50年(1995年)には既に頂点を超えてバブルが崩壊していたことと比べると、ベトナムの復興は日本よりゆっくりながら、まだまだこれから更に発展していくものと思われます。ちなみに婿さんは、現在ホーチミンに官民一体の日本資本で地下鉄を建設する仕事に従事し、ベトナムの更なる発展に尽くしているのです。
社会主義国家が支援した北ベトナムと資本主義国家が援護した南ベトナムが戦って、最後はサイゴン陥落により北ベトナムが勝利し、1975年パリ協定によりアメリカが停戦に応じることで終結したベトナム戦争、アメリカで若者・学生中心に反戦運動が拡ってピッピーが登場し、ベトナム国内の虐殺など悲惨な状況が報道され、その当時小~中学生だった私には、「ベトナム=怖い悲惨な所」というイメージが強く、娘のベトナム行きは不安で仕方ありませんでした。しかし住まいが高級ホテルの高層階レジデンスだと聞いて、少し安堵した次第です。現代のホーチミン市内には50年を経て戦争の爪痕は感じられず、バイクの排ガスやPM2.5のせいで空気が悪く、水洗ながらトイレの紙を便器に流せない事(横のバケツの中へ入れる)が終始不便でした。まだ下水が完全には整備されていないのですね。おかげで、日本に帰国してからも暫くトイレットペーパを便器の中に流すことを躊躇していました 。
ホーチミンから北へ飛行機で約1時間のリゾート地ニャチャン~カムランへ行ったのですが、まず一声「あ~、ここは空気が綺麗で美味しい!」と出てしまいました。あざみ野へ帰った時も同じ言葉を発しましたが、ホーチミン市内の空気が悪い!ということですね。娘の住まいは高級で安全なのですが、外の空気が汚く午後スコールがある為、洗濯は外干し出来ずパリっと乾かない、と嘆いていました。今は雨季で、昼間午後2時ごろまではカーッと暑いのですが、その後スコールが毎日のように降り、サーッと涼しくなるため、日本の方がずっと蒸し暑く感じられます。
ちなみにハワイやバハマ・タヒチの高級リゾートに全く引けを取らない美しさとホスピタリティーを感じたニャチャン・カムランのビーチは、透明度が高く綺麗なブルーグリーンの海とどこまで行っても足の着く遠浅の真っ白なサンドビーチでしたが、快晴なのに私一人しかおらず、一人でずっと泳いでいました。実はベトナムの人は紫外線(日本の4~5倍)を極度に嫌うため、昼間は海に出て来ないとのこと、実際夕方になるとビーチにはぞろぞろ人が出てきました。美意識が高いのか、健康オタクなのか分かりませんが…。
ベトナムは先進国!といっても、上層部を見たらそうなのでしょうが、世界の高級ブランド店やラグジュアリーホテル、世界中の食が味わえる高級レストランや、屋上には天空を見ながら入れるインフィニティ―プールを併設したバーがある超高層ビルなどの下の道路を歩いていると、ガタガタの歩道の一歩先の爪先に何やら生き物らしき物体が占有して足場がない!と感じ、犬か猫かと思ったら、何と高齢男性が歩道と一体化して(顔・体と衣服は煤けて入浴してなさそうな)仰向けで寝ているではありませんか!午後2時頃の一番気温が高い時で地面は35度以上ありそうなのに、そのコンクリートの上で胸に竿を担いだまま午睡中と認識し、思わず「野良人間だ!」と口走ってしまいました。熱中症にならないのでしょうか?その近くには、昼間から地べたや低い椅子に座り込んで、日本では嗅いだことのない様々な匂いが入り混じった食べ物を食べている人達があちこちにおり、息を止めて歩くしかありませんでした。バイクに乗っている人も含めてここの人達は昼間働いていないのかしらん?最近日本では野良猫や野良犬もほとんど見かけなくなりましたが、ここベトナムには「野良人間」がいる!と思いました。いつも自分が口癖にしている「人間も地球上の動物・哺乳類の一種のホモサピエンスにすぎない」という言葉を、我ながらこの地で実感したのでした。まだまだ地球上には動物たる人間があちこちにいっぱいいるのでしょう。日本を含めた先進国の人間だけを見て、人間が地球上の主人公だ!と思って行動しているのは、やはり大きな勘違いでしょう。というように、ベトナムは先進的で豊かな部分と、未だに戦後のような貧しくて遅れたままの部分が”雑多にfusionしたカオス”のような国だ、と実感した次第です。
2024.9.1.
PS.) 私が行った時期は丁度パリオリンピックの真最中でしたが、ベトナムではオリンピック関連のテレビを含めた報道は一切耳目にせず、北口榛花さんの金メダルや閉会式のトム・クルーズのニュースはYouTubeで知りました。ベトナムは東京オリンピックに続いてパリオリンピックでもメダルを一個も獲れず、国内の放送局が放映権を獲得していないため、盛り上がりは皆無だったのです。
オリンピックを特別に賛美していない国も世界にはあるのです。